2-3

「ミツキ、だいじょぶだった?」
 グラスランドエリア中部、チョコボファーム。黄色い鳥のいる柵の向こう、サイロの近くから大きく手を振ってやってきたのはエアリスだ。
「だいじょうぶ」と覇気のない声で美月は答える。マテリア講座はともかく、とくにこれといった問題は起こらなかったとはいえ、やはり、かなりの道のりを徒歩で進むのは、運動不足気味の元OLには辛いものだった。
「それで、チョコボを手に入れないとこの先へ進むのは難しいんだな?」
 クラウドは小屋から出てきたティファに訊ねている。山ほどモンスターを倒しながら進んできたというのに、相変わらず涼しげな調子なのはさすがだ。
「そうみたい。なんでも、ミスリルマインの手前に沼地があって、ミドガルズオルムって大蛇が出るらしいの」
「十メートルを超える怪物だってんだ。たまったもんじゃねぇ」
 チクショウ、と地面を蹴るバレットの横で、美月は柵によりかかってエアリスが手渡してくれるポーションを一気飲みした。
 一路グラスランドエリアを進んでいた美月たちだったが、先に出発していたティファたちからPHSで連絡を受け、このチョコボファームに立ち寄った。黒マントの男が草原地帯の先にあるミスリルマインという鉱山に向かうのを見た、そんな情報が手に入ったからだ。
 だが、先述したとおり、ここから先へ進むには大蛇の棲む沼地を越えていかねばならない。セフィロスを求めて一刻も早くミスリルマインへ向かいたい一行だったが、しばし、こののどかな農場で足止めをくらうこととなった。
 黄色い鳥――チョコボを買うことになったクラウドたちが奥の小屋へと行っている間、美月とエアリス、そしてレッドは外のチョコボたちに餌やりをして待つ。
「十メートルの大蛇に、ほんとに勝てるのかな?」
 野菜を差し出しながら呟いたのはエアリスだ。
 チョコボたちはその野菜にかぶりついたり、呑気に草をつついたり、悠々自適に過ごしている。初めて見たのは、たしか、ウォールマーケットへ向かったティファが乗っていた車だったか。あのときは一瞬だったが、こうして間近で見ると、人形のように愛らしい姿だ。
「たしかに。いくら足が速いとはいえ、ちょっと心配かも」
 鮮やかな色合いの羽はふわふわで、なんだか触りたくなってしまう。目の前にやってきたチョコボの体に思い切って手を出してみると、チョコボはクエッと鳴きながら小躍りをした。
「かわいい」
 その羽毛の柔らかさはさることながら、きゅるん、とつぶらな瞳もこの上なく愛らしく、見ているだけで自然と頬が緩んでしまう。まさか、この愛らしい存在が大蛇に勝る走りを見せるとは。だが、ダチョウを考えれば、それもおかしくはないのかもしれない。
「でも、なにかに似てるのよねぇ」
 チョコボに腕をまさぐられながら、頭のツンツン具合を眺める。金色の、ピンと天に伸びた羽毛――と、エアリスがこそっと耳打ちしてきた。
「なんか、クラウドみたいじゃない?」
 その言葉に思わず吹き出してしまったことは言うまでもない。
 ともかく、ミドガルズオルムに襲われないためには、チョコボで湿地帯を駆け抜けるのが唯一の手だった。そんな大蛇が潜む場所にこれから行かなくてはならないことにも驚きだが、やはり、それ以上に目の前の愛らしい鳥たちがその怪物を出し抜けるというのがいささか信じられない。エアリスから分けて貰ったギザール――緑のにんじんのような野菜だ――を喜んで美月の手から食べる彼らの姿からは、そんな敏捷な様子は見られない。
「あぁ、最高の癒し」
 クエックエッと羽を羽ばたくチョコボに緩んだ頬が戻らない。
「レッドも乗るの?」
 エアリスが美月の横に威風堂々と座っているレッドに目を遣る。精神統一でもしているのか瞑目していたレッドだったが、まぶたを擡げると鬣を揺らした。
「あまり気乗りはしないが、そうなるだろうな」
「あなたも十分速そうなのに。ね、ミツキ」
「そうだね」
「なに、負けはしないさ」
 ニイ、と片方の犬歯が覗く。
 その得意げな顔がどこか幼く見えて、美月とエアリスは顔を見合わせて微笑んだ。

「ところで、マテリアの話だが、なにか感じることはないか?」
 野菜をすべてやり終えたところで、手をぱんぱんと叩いた美月にレッドが言った。
「いまのところは……」
 腰元のダガーを見下ろすと、太陽の光を反射して、きらりと輝いている。その輝きはため息をつきたくなるほど美しいが、今は別の意味でため息がもれた。
 クラウドに言われたとおり、ほのおのマテリアをつけたまましばらく様子を見ていたが、一向に変化は起きなかったのだ。
「やっぱりこれって、おかしいんでしょうか」
 美月がダガーを鞘のまま持ち上げる。カチャ、とホルダーの金属が擦れる音がして、ずっしりとした重みが手のひらに載る。いまだ、どこか浮き足立つような重みだった。
「どうだろうな。たいていの人間もマテリアをつけたところで、なにかを意識的に感じるわけではないだろうが、その反面、意識下ではしっかり作用が起きている」
「はぁ」
 レッドは横目で美月を見上げた。
「つまり、お嬢さんももしかすると気づいていないだけかもしれない」
「……そうだと、いいんですけど」
 いや、いいのだろうか。使えないなら使えないで、異世界人の証としてはもっともだ。
 美月が複雑な思いで眉を下げると、エアリスが二人に気付いた。
「マテリアがどうしたの?」
「じつは……」と、マテリアが発動しなかったことを話す。気落ちする美月とはうらはらに、ぱちり、亜麻色の睫毛が揺れた。
「そうなんだ。なんのマテリア使ったの?」
「ほのお。何回かクラウドと練習したんだけど、全然だめだった」
 ふうん、とエアリスは唇をとがらせた。
「でも、はじめてならしかたないんじゃない?」
「そういうもの?」
 美月は首を傾げる。
「うんうん。だれにも向き不向きはあるものだよ」と、エアリスは微笑んだ。
 相変わらずあっけらかんとした、優しい口ぶりだ。至極軽いが、渦巻いた煩慮をときほぐすにはぴったりだ。
「向き不向き、かぁ」
 それで済むのならそれでいい。そして、適性がないのなら、ない、でも。だが、このまま戦闘で守られてばかりなのも、気が引けたのはたしかだった。
 じっとダガーを睨んでいると、エアリスがぽん、と手を叩いた。
「じゃ、レッドに特訓してもらおう」
「私が? クラウドではなくて?」レッドは瞠目した。
「うん。もしかしたら、ミツキは猫ちゃんになるから、ひとと感覚がちがうのかもしれないし。ね?」
 彼女の言うことも一理ある。そっか、と感心していると、視界の端でゆるりと赤い炎が揺れた。
「私は構わないが、お嬢さんはそれでいいのかな?」
「もう、お嬢さんなんてカタイカタイ!」
「……ミツキはそれでいいのか?」
 すっかりエアリスのペースに呑み込まれているレッドに笑いながら、美月は、もちろん、と答えた。
「クェッ」
 と、そこで、私たちを忘れるなとばかりに鳴き声が響いた。
「ん、どうしたの?」
 美月はチョコボに向き直る。きゅるる、とした黒曜石の瞳が彼女をじっと見つめていた。
「もしかして、まだなにか欲しいの?」
 クエックエッ、と返ってきた声を聞く限り、どうやらそのようで間違いないらしい。だが、残念なことに、野菜は手元に残っていなかった。
 ごめんねもうないの、と言いながら代わりに顎を撫でる。わがままをいうわけでもなく、チョコボは心地よさそうに目を細めた。
「その子、ミツキに懐いてるね」
 エアリスが後ろ手に手を組んで仲の良い一人と一匹に笑う。
「そう? でも、それならこの子を連れていけたらいいんだけど」
 ねえ? と語りかけると、チョコボは甘える猫のごとく手のひらに頬を寄せては、はむ、と手を甘噛みする。そのくちばしのなんともこそばゆいこと。
「ミツキの匂いが気に入ったらしいな」
 レッドがチョコボを見上げた。
「におい?」
「ああ」
 嬉しそうに体を小刻みに揺らしながら、今度は頬に顔をすり寄せてくる。その勢いには思わずのけぞってしまったが、けっして悪い気はしなかった。
「匂い、かぁ。なんのにおいするの?」
 もしゃもしゃ黄色いとさかを撫でて美月はチョコボに語りかける。
「わかった」
「え?」
「猫ちゃんだ」
 チョコボの代わりに答えたのはエアリスだった。

 クラウドがグリングリンの小屋から出てきたとき、クエッ、クエッ、という鳴き声に合わせて羽がバサバサと揺れる音がしていた。
「なんだ?」バレットが目を眇める。
「あ、見てあれ! チョコボがダンスしてる!」
 ティファの指差す先を追いかけて、クラウドは思わず眉をしかめた。
「すごい、すごい!」
 エアリスが歓声をあげる横で、一緒になって手拍子をしているのは、美月だ。
 あんなにも白かった頬をほんのりと赤く染めながら、不安げな微笑ではなく、子どもがサーカスに行ったような無邪気な笑顔を浮かべている。大胆に細められた瞳、薄くなった唇に、そこから覗く白い歯。手拍子のたびに彼女の濡羽色の髪が揺れて、きらり、光の輪を纏う。
「すごい、チョコボってあんなことできるのね」
 クラウドの中で、形容しがたい渦のようなものが巻くのがわかった。加えて、喉元がむず痒く、掻き切りたくなるような、苛立ちに限りなく近い――。
「なんだよ、わざわざ探すんじゃなくて、あのチョコボたちをちょいと拝借すりゃいいんじゃねぇか?」
「あれも預かったチョコボなんじゃないの? ねえ、クラウド?」

 ――そうだ、これは衝動だ。

「――クラウド!」
 クラウドは我にかえった。

「すまない。なんだったか」
「たいしたことじゃないんだけど。あれって、借りられないんだよね?」
 ティファの問いかけにクラウドはじっと美月たちを眺める。
 決めポーズとともにダンスを終えたチョコボたちは美月のもとに集まって、彼女をもみくちゃにしている。くすぐったい、などと笑う美月の声が響いて、のどかな農場の風景は完璧に完成された。
 と、その中の一頭が嘴になにかを咥えて美月に押しつけるのが見えた。
「借りられなくても、ほかになにかいい手は見つかるかもしれないな」
 クラウドたちが彼女たちに近寄っていくと、それに気がついたエアリスが美月の肩を叩いた。
「ミツキ、クラウドたち戻ってきたよ」
「お待たせ。すごかったね、チョコボのダンス」
 振り返った美月は、ティファの言葉に頬を綻ばせる。
「ね、なんだか野菜のお礼だったみたいで」
「ちがうちがう、ミツキのにおいがお気に入りなんだって。レッドが言ってたでしょ、ね?」
「ああ、なんだかよくわからないがいい匂いがすると喜んでいるようだったな」
 エアリスに続いてレッドも炎をひらめかせながら言い添えた。
 だって、と恥ずかしそうに頬をかくその手に、赤い煌めきが握られているのが見える。
「それは?」
 クラウドが訊ねると、美月は、あ、という顔をしたが、すぐに髪の毛を耳にかけ直して、「マテリア、もらっちゃいました」と困ったように笑った。

 小一時間後。
 グリングリンから買ったチョコボ寄せのマテリアと、美月の手に入れた《チョコボ&モーグリ》の召喚マテリアを駆使して、なんとかチョコボを手に入れたクラウド一行は、湿地帯を通過する準備を整えることに成功した。
「あと一羽、足りないか」
 だが、肝心なチョコボが五羽しかいない。この大きな鳥に二人乗りするのは不可能ではないが、ミドガルズオルムを撒くのに速度を出すことを考えると、単乗りのほうが都合がいいのはたしかだ。
 難しい顔でチョコボを見遣るクラウドに、「私は乗らなくてもかまわない」と、レッドが提案してくるが、美月がそれを反対した。
「なにかあったらどうするの」
「私なら問題ない」
「でも、危ない。わたしと一緒に乗りましょ」
「だめだ」
 さもいい考えだと微笑む美月をクラウドは一蹴する。
「どうして?」
「レッドに迷惑がかかる」
 まさかそんなことを言われると思わなかったのか、美月が眉を寄せてこちらを見てくる。
 クラウドは澄まし顔を崩すことはなかった。
「ひどい!」
「ひどいもなにも事実だ。アンタのせいでレッドが振り落とされちゃ、たまったもんじゃない」

 かくして、それぞれがチョコボに乗り準備を整えたわけであったが、一人クラウドの後ろに乗ることになった美月はチョコボの背中にいる彼の姿を見上げながらぶつぶつとぼやいていた。
「チョコボに乗るくらいできるのに」
 小さく動く赤い唇に一瞬気を取られたが、クラウドはなにもないふうを装って、ふんと鼻を鳴らす。
「乗ってみてから言うんだな」
「なによ」
 ムッと唇を尖らせる美月の腕を、クラウドはいつかと同じように容赦なく引っ張り上げる。彼の足をあぶみがわりにして、美月が後ろにふわりと跨った。
「バイクだって、案外いい操縦してたでしょ?」
「どうだかな」
「振り落としてやればよかった!」
 クラウドは無視して手綱を握る。
「もっと、前に詰めろ。それから早く掴まれ」
「はいはい、わかりました」
「……それ、本気でやってるのか?」
 ちょこん、とニットの脇腹を摘んだ美月にクラウドはぎろりと後ろを振り返る。
 ――と、思いのほか美月の顔が近くにあり、クラウドは瞠目した。
「もう、まだなにか言い足りない?」
 思えば、自分へ近づけと言ったのはクラウドだった。彼女の膝は自分の外腿に触れているし、かすかにいい匂いがする。少し体を捩っただけで彼女とぴったり重なってしまいそうな距離だった。はなやぐ香りはカームの宿屋のシャンプーだろうか。男部屋のは制汗剤と似たような匂いだったが、もしかすると彼女たちのは違ったのかもしれない。ほのかに甘くて、そして、ちょっぴり、“彼女”の体の香りがする。
 クラウドが眉をしかめると、美月はかえって顔を覗き込んできた。
「ねえ、クラウド大丈夫?」
 クラウドはサッと前へと向き直り、落ちた前髪をふるう。
「……自分の心配をするんだな。しっかり掴まらないと落ちるぞ」
「言われなくてもわかってるわよ。もう、わたしをいくつだと思ってるんだか」
 ぶつぶつ背中でぼやき声が続くものの、なんだかんだと体を寄せてくる美月である。
 チョコボが揺れて、控えめにニットを摘んでいたのがぎゅっと握る形に変わった。ただ、それでも心許ないのは変わらない。走り出したら振り落とされてしまうだろう。

「アンタ、いくつだ?」
 みぞおちのあたりが疼くのを抑え込んで、ため息をつく。
「クラウドよりはだいぶ年上です」
 ――すなおに、心配だって言えばいいだろ
 不意に脳裡で声がする。――うるさい。悪態をつきながら、クラウドは手綱を握りしめた。
「アンタが年上? うそだな」
「失礼ね」
 こつん。ブーツの裏を小突かれたクラウドは、黙ってチョコボの手綱を引っ張った。
「え、クラウド?」
「舌、噛むなよ」
「まっ、心の準備が、ああああ――!」

 とにかく、走り出せばこの女にも“わかるだろう”。
 ぐん、体が軽く下に落ちるやいなや、勢いよく駆けだしたチョコボに、空を裂く甲高い悲鳴。デジャヴだな、そんなことを考えつつクラウドは湿地帯の風をその頬に浴びる。
「クラウド! クラウド! まって!」
「むりだ」
「速い速すぎる!」
 ニットを掴む手がきつくなる。チョコボのスピードは想像していた以上の速さだった。だが、足もとに黒い影が近寄ってくるのが視界の端に映ると、クラウドは手綱を握り直し、さらにスピードをあげた。
「蛇の餌になりたくなきゃ、静かに掴まってろ」
 もうむり、やだ蛇こわい! と先ほどの言葉に加えて新たに悲鳴が加わる。背中にぴったりくっついた頬から、ダイレクトにその響きは全身に伝った。
 まったくうるさい女だ――クラウドはぐっと眉根を寄せてその響きを受け止める。普段はまったくそんなことないのに、この女はどっちが本当の姿なのだろう、とも考えながら。
 チョコボは沼地を駆け抜けていく。後ろから、バレットたちの乗るチョコボも負けじと追いかけてきていた。
「クラウドのばか」
「あとで覚えておけよ」
 ミッドガル・ハイウェイでの彼女の姿が脳裡に掠めて、クラウドは片目を瞑った。あのときは彼女が前で、自分は後ろだった。つい、一日前の記憶だ。そうだ、まだ一日しか経っていない。手のひらに、体に、鮮やかなほど熱が残っている。
 細い綱をきつく握りしめ、チッ、と舌打ちをしながらクラウドは前を見据える。
 湿地帯の終わりが見えてきた。
「こんなとき、猫になれればいいのに……なんでもう」
「まったくだ」
 クラウドは軽く腰を上げて前傾姿勢をとった。
「スピードをあげる、振り落とされるなよ」
 腰のあたりを掴むだけだった手が、不意にお腹のほうまで伸びてぐっと抱きつく形になった。
 ――それでいい。クラウドは口元を密かに緩めた。
「や、むり、こわい、まっ」
「走り抜けるぞ」
「ちょ、クラウ――」
 一人チョコボに乗っていたレッドが、「人間とは騒がしい生き物だな」と呟くまで、あと五秒。

 命からがら――美月はほぼクラウドのうしろで悲鳴を上げていただけだったが――――湿地帯を抜けてミスリルマインの入り口までたどり着くと、彼らを待ち受けたのはとんでもない光景だった。
「これは……」
 十メートルもの大蛇が一本の枯れ木に串刺しにされている。なんとおどろおどろしい有り様だろう。流れ出した血が体や幹を伝い、ぽたりと滴っては地面にシミを作る。空気に触れた血はすでにどす黒く変色し始めており、そこら中に劣悪な臭気がたち込めていた。人間の血よりも魚や獣、さまざまな生き物をぐちゃぐちゃに掻き切って革袋に詰め込んだかのような、激しい臭いだ。
 クラウドのあとに続いていた美月は咄嗟に後ずさった。
「セフィロスが、これを……?」
「おそらくな。まだ血が乾ききっていない」
 極限まで近寄り、クラウドはしゃがみこんで地面を濡らす血を確かめる。あとからやってきたティファたちも、あまりの惨さに絶句しているようだった。
「すさまじいな。これがセフィロスの力か」
 レッドの鬣が美月の足を微かに掠めて、すぐ横を通り過ぎる。
「ああ」クラウドは手についた血を見つめながら答えた。
「セフィロスの力は、間近で見ると世間で騒がれているよりもすごかった。おそろしいほどに」
「英雄、セフィロス……その名は伊達ではなかったか」
 レッドがミドガルズオルムを見上げた。
 だらん、と垂れた舌、不自然に見開かれた蛇眼、うろこに散った血がテラテラと妖しく光っている。思わずひゅっと息を吸い込まずにはいられない――途端、酷い臭いが喉元をつく。
「ゲホッ……」
 反射的に体を二つ折りにし嘔吐いた美月に、エアリスが駆け寄ってくる。
「ミツキ、大丈夫?」
「だい、じょうぶ……」
 いや、本当はけっして大丈夫と言える状態ではなかった。胃の中が掻き乱されたみたいに気持ち悪く、目の奥で懐中電灯がチカチカ点灯を繰り返すような目眩がする。脚は震え、握った指先はきつく手のひらに食い込んでいた。
 口の中に溢れた唾液を吐き出して、荒い呼吸を繰り返す。目先の地面にも、粘着質の暗褐色がこびりついており、逃げ場はないように思えた。
 どくん、どくん、と心臓が木槌で打たれる。全身の血潮が湧き上がり、背すじを勢いよく駆け下りていく。
「セフィロスがこれを……」
 セフィロス。神羅に創られし、悲運の英雄……。
「クラウド!」焦った声でエアリスがクラウドを呼ぶ。
「どうした」
「ミツキが辛そうなの」
 背中に優しい手が添えられる。美月はかぶりを振った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」
 呼吸をどうにか整えて、体を起こす。皆が心配そうに美月を見ていたが、彼らの顔もまた蒼白だった。クラウドとレッドをのぞいて。
「この先に、セフィロスがいるかも、しれないのよね」
 美月はぐっと唇を噛み締め顔を上げる。ちょうど、クラウドと目が合った。
「ああ」
「なら、行かなくちゃ、よね?」
 こっくり、金糸が揺れる。背中に添えられた手が微かに丸くなった。
「でも、こんなことやっちゃうひと、なんだよ」
 エアリスはその先を口にはしなかった。皆が同じ思いだ。ごくり、固唾を呑んだ一同に、クラウドは硬い表情で、「行こう」と言った。

 ミスリルマインの中へ入ると、それまでとは一変して緑白色の世界に包まれた。かつてはミスリル鉱石の採掘量世界一を誇っていたというミスリルマイン。だが現在は閉山してしまっているためか辺りは薄暗く、鍾乳洞のような冷ややかな空気が肌を刺した。
「黒マントの男はいないようだな」
 後方からレッドの声が響く。血がすべて乾ききってはいなかったため、もしかするとセフィロスと顔を合わせてしまうだろうと思われたが、今のところすべて杞憂に終わった。
 とはいえ、それもひとときの慰みだ。エアリスが言ったとおり大蛇を枯れ木に串刺しにする、そんな力の持ち主が待ち受けていると思うだけで悪寒が止まらない。
 (セフィロス……いったい、どんな人なの……)
 脳裡に曖昧な、だがはっきりと濃い人間の影が浮かんでは消える。鼻腔の奥にこびりついた大蛇の血の匂いは、その影をより一層深く美月の中に刻み込んでいく。
 カチャリ、カチャリ、ダガーが擦れる音が無情にも響く。
「ミツキ、平気か」
 ふわり、自然と握りしめていた手にあたたかななにかがふれて、美月ははっと我にかえった。レッドが手の甲に鼻をすり寄せたのだ。まるで犬みたいな仕草に、薄く微笑を浮かべながら、「ええ、大丈夫」と答えるが、まったく説得力はない。セフィロスへの緊張感、それから、未知への恐怖。ぐるぐると渦を巻くそれらに、胃の中が重く、声は掠れてしまっていた。
「ティファからポーションをもらっていただろう。飲むといい」
 レッドが言うが、美月はかぶりを振った。
「ううん、どこも悪くはないから」
「なら、クラウドに興奮剤を頼もう。少しは気が紛れるはずだ。クラウド」
 前を歩いていたクラウドが足を止める。「どうした」と振り返って、目を細めた。
「……大丈夫か」
「そんなに、ひどい?」
「ああ」
 顔に手を当てる。頭の中はジンジンと炎が滾るように熱いが、頬は驚くほどに冷たい。
「悪いがクラウド、興奮剤をやってくれないか」
 興奮剤、その名を聞いて今朝エアリスと交わした会話を思い出した。赤い小瓶に入った、回復薬。たしか、元気がないときに飲むといい、だったか。
「かまわない。待っていろ」
 がさごそ、アイテム入れを漁るクラウドを茫然と眺める。セフィロスがいるかもしれないというのに、彼の表情はほとんどと言っていいほど崩れていなかった。いつもの、クラウドだ。だが、それもそうだ。クラウドは強く、元ソルジャーなのだから。安堵を覚えるはずのリーダーの表情に、わずかながら焦燥を覚える。
「ごめんね、クラウド」
 唇から漏れる吐息は震えていた。クラウドは一瞥を寄越しただけで、なにも言わずにトゲトゲしい興奮剤の瓶を開けた。きゅぽん。軽い音が響き、深紅の小瓶が差し出される。
「飲め」
 まさか、これを早速使うことになるとは思わなかった。
 こっくり頷いて、小瓶を受け取る。おそるおそる口をつけると、なんとも言えない苦味が広がった。漢方薬というよりかは、栄養ドリンクなどの人工的な味付けに近いだろうか。多少飲みやすいように甘味が足されているみたいだが、薬特有の苦さが舌に残る。咄嗟に眉を顰めた美月に、レッドが小さく笑う。
「あまり、うれしい味ではないな」
「……ぜんぶ、飲む?」
 ちらり、クラウドを窺うと、彼は躊躇なく、「ああ」と頷いた。泣く泣く小瓶をぐっと傾け、美月は最後の一滴まで興奮剤を飲み干した。
「ごめんなさい、クラウド。セフィロスがいるかもしれないのに、足留めしてしまって」
 金色の煌めきをすぐそばで感じながら、美月は言う。先ほどまではわき目も振らずに歩いていたクラウドだったが、その歩調をわずかに緩めてくれていた。
「いや。俺もアンタの様子をもう少し気にするべきだった」
「ううん。クラウドが気にすることじゃないから」
 先を急くクラウドの気持ちも、わからなくもない。追いかけていた亡霊の背をふいに近くに感じたら、誰しも追いかけなくてはと思うはずだ。それに、いちいちこの世界の事情に慣れていない美月を気にしていたら、クラウドのほうが参ってしまう。
 とはいえ、すぐにこの異常事態に順応できるはずもなく、彼らの厚意甘えざるをえないのが現実だった。依然、ミスリルマインを進むことには変わらないが、銀の混じる地面を滑らぬように注意を払いながら慎重に進もうとしてくれるクラウドに自然と視線が落ちる。
「セフィロスって、信じられない力を持っているのね」
 美月はクラウドの厚手のブーツを眺めながら呟いた。
 彼の歩き方は無駄がなく、また、迷いもないように思える。その反面、ブーツの踵や側面にはそこかしこにこすったような傷が無数にあり、彼が歩んできた道のりの遠さを計り知れた。
「そうだな。俺が知るかぎり、普通では考えられないほどの強さだった」
「クラウドがそう言うんじゃ、相当ね」
 セフィロスと同じ、ソルジャー・クラス・ファーストだった彼がそこまで認めるのだ。きっと、ミドガルズオルムを相手にすることなど造作ではないのだろう。ならば、彼の前で人間は塵も同然だ。
 必死でなにごともないように呼吸を繰り返しながら、鼓動が早まっていくのを感じる。息絶えたモンスターを見ることにも多少は慣れたと思ったが、いまだ恐怖は拭えないみたいだった。それどころか、ミドガルズオルムの死骸は神羅ビルで正宗に貫かれたプレジデントの亡骸をもって、美月の中の恐れを煽っていく。
 セフィロスがどういう人間か。かろうじてヒトの形を模っていたシルエットが歪んでは、膨張していく。まるで、夕暮れに伸びる影のようだ。
 昨晩はその不遇な人生に同情の念を感じていたというのに、もはやそれが正しいのかどうかもわからない。あれほどの力の持ち主が星を危機に陥れようとしているとしたら……。
「ミツキ」
 思惑に沈む美月をクラウドが引き上げる。
 足を止めて、彼は美月を振り返っていた。
「あまり、アンタは深く考えるな」
「それって、どういう……」
 おもむろに首を擡げると、彼の整った唇から小さく吐息がこぼれた。
「セフィロスに、アンタは関係ない」
「そうだけど……」
「アンタはセフィロスをどうこうしようと思わなくていい」
「どうこうしようなんて、思ってない。ただ、セフィロスのこと、わからなくて」
「わからなくて、いいんだ」
 美月はクラウドをじっと見つめた。端正な顔には戸惑いの色が滲んでいる。クラウドがそんな表情をするのは珍しかった。
「いや、すまない。俺もよくわからないんだ。だが、なんとなくアンタはセフィロスに深く関わらないほうがいい気がする」
 突き放すわけでも、拒絶するわけでもないその言葉に、美月は何回か静かにまばたきを繰り返す。絡んだ視線が解かれることはなく、容易く魔晄色の虹彩を覗くことができた。緑光を囲むように碧くふちどられた瞳。この世のどの宝石をもってしてもその不思議な魅力には敵わないだろう。暗がりにやや大きくなった瞳孔がなにを見据えているのか、美月は考えあぐねる。そこにたしかに自分が映っているはずなのに、なぜだかそうでないような、そんな気がしてならない。
 そういうわけだ、と一人自己完結させて、クラウドは背を向けた。金色の髪がさらりと揺れる。バスターソードの抱えられた立派な肩から伸びる首すじがいつもより曲がっている。
「クラウド」その名を呼ぼうとして、思いもよらぬ声が響き渡った。

「ちょっと待った!」
 コツン、コツン、と質の良い靴の音とともに、洞窟の奥から漆黒のスーツがまみえた。
「タークス……」
 スキンヘッドにサングラス、顎には整えられた髭――まぎれもない、神羅ビルでエレベーターに乗り込んできた男だ。プレジデントのもとへ連れて行く際、美月たちの腕を縛り上げたその威圧感と独特の雰囲気を忘れもしない。クラウドが苦々しく口にすると、男は、「知っているなら話が早い」と独り言のように言ってサングラスのエッジを指で上げた。
「人攫いでもしにきたか」
「悪意に満ちた言い方だ。あながち、間違いではないが。だが、今はそれだけじゃない」
 人攫い――その言葉を否定しない彼に、実際に被害に遭った身としては眉をしかめずにはいられなかった。まったく、この黒いスーツにはいやな思い出ばかりだ。
「だったら、なにが用だ」
 冷ややかな壁がクラウドの粒の揃った声を反響させる。
 視界の端で、バスターソードへ伸びた腕にはくっきり、血管が浮かび上がっていた。できるのであれば、極力この場での戦闘は避けたいところだが、相手は神羅だ。返答次第ではそうは言っていられない。ごくりと固唾を呑んで美月がダガーの柄を握ると、グルルルという唸り声とともにレッドもその横に並んだ。
 男はこちらを見たまま、じっと、微動だにせずにいる。サングラスのせいでなにを注視しているのかはよくわからない。
「なにか言ったらどうだ」
 痺れを切らしたクラウドの声が響く。美月が奥歯を噛んで男を見つめると、「先輩!」と明るい声が飛び込んできた。
「イリーナ」
「ルード先輩! しゃべるの下手なんだから、無理しないでください!」
 銀色にまばらな光をちりばめた崖の上に現れたのは、同じく黒いスーツを着た女性。片側のみ顎先で前下がりに揃えられた金髪が眩しい。
「たのんだ」とルードが目を覆うようにしてサングラスのエッジを再び上げると、イリーナと呼ばれた彼女は、ふん、と顎先を上げて仁王立ちをした。
「私、タークスの新人のイリーナ。レノがあんたたちにやられてタークスは人手不足……おかげで私がタークスになれたんだけど」
 突如始まった口上に美月はあっけにとられていた。
「人手不足……」
「そう、あんたたちのせいで、腕を怪我して大変だったんだから」
 敵にそんな情報まで渡してしまって大丈夫か、と思うもイリーナの勢いは止まらない。
「それはともかく、私たちの任務はセフィロスの行方をつきとめること」
「なら、さっさと追えばいい」
 クラウドがにべもなく口を挟むと、邪魔をするなとばかりにイリーナが鋭い一瞥を向ける。まるで見定めているような視線だった。
「そして、ここからが本題」と、腰に手を当てて、ひと言。
「私たちタークスに課せられた任務は、あんたたちの邪魔をすること」
「そういうわけか」
 ちゃきん、とバスターソードがホルダーから外れた音がする。
「そういうこと。あ、でも、逆だったか。私たちの邪魔をしてるのはあんたたちだもんね」
「イリーナ、しゃべりすぎだ」
 またしても、洞窟の奥から革靴の音が響いてきた。コツ、コツ、ルードの足音とは似ても似つかぬ神経質そうなリズム。イリーナとは別の崖の上に姿を現したのは、ツォンだ。
「ツォンさん!」
 仁王立ちから一変、イリーナは飛び上がってぎゅっと居住まいを正した。
「我々の任務を、彼らに教えてやる必要はない」
「すみません、ツォンさん」
 なにがなんだかよくはわからなかったが、とにかくめんどうごとに巻き込まれたのには違いないだろう。レノとは違って、実直そうな少し抜けたイリーナには親近感を抱いたが、タークスに配属されるほどの人間だということを忘れてはならない。
 しおらしくなったイリーナとツォン、それからルードを見比べながら、「タークス……勢ぞろい、しちゃったね」とクラウドに小さくぼやくと、彼も同じことを考えていたのか、「まったく、めんどうだ」と微かな声が返ってきた。
「お前たちには、別の任務を与えてあったはずだ。行け。定期連絡を欠かすなよ」
 ツォンのひと声にイリーナが、「そうでした!」と声を上げる。
「それでは、私とルード先輩は《ジュノンの港》へ向かったセフィロスを追いかけます!」
「……イリーナ。私の言葉の意味がわからなかったようだな」
「あっ! す、すみません……」
 ため息をつくツォンと、しゅんと萎れるイリーナ。ルードは相変わらず微動だにしないマネキンみたいだが、なんというか、ちぐはぐだ。これはタークス劇場かなにかだろうか。
「なに、あれ」
「さあな」
 さすがのクラウドも呆れを滲ませていた。
 それはともかく、と美月はルードに向き直る。
「行け。セフィロスを逃すなよ」という上司の命令に、二人はハッと威勢よく返事をする。と、こちらを向き直ったルードと目が合ったような気がした。
 浅黒い肌に、濃いサングラス、生やした髭はいかにも裏社会で暗躍する組織のそれらしい。なにを考えているのか見た目からはけっして悟らせない姿勢は、天下のタークスといったところか。
 じっとルードを見据えていると、ふいに彼は言葉を発した。
「おまえが猫になるという……」
 猫、そのひと言に美月は反射的にぎゅっと体をこわばらせて後ずさる。
「あんたには関係ない」
 クラウドが探る視線を断ち切るために左腕を横に伸ばして、美月の前に立ちはだかるが、ルードからは逃れることはできなかった。腕の間から、たしかに目が合っていた。
「レノが……」
 レノが? そこで途切れた言葉に美月は眉をひそめる。ルードはなにかを言いたげにしていたが、いや、と小さくかぶりを振ると、クラウドに向き直った。
「レノが言っていた。きみたちに負わされたケガが治ったらあいさつしたいと。親愛なるきみたちに新しい武器を見せたいそうだ」
「何度やっても結果はおなじだ」
 バスターソードを構えたクラウドを無視して、ルードはそのままツォンのいる崖を登って洞窟を進んで行った。

「さて、久しいな」
 ほっと息つく間もなく、ツォンが言った。イリーナも去り、ツォンは先ほどまでの苦労性な上司の顔を剥がして、眉一つ動かさずに美月たちを見下ろしている。
 久しぶり、だなんて。美月はむっと唇をひき結ぶ。
「先ほどの話は聞いていただろう」
 落ちてくる声は厳かだ。
「セフィロスがジュノンへ向かった、だな?」
 イリーナがつい漏洩してしまった情報、これが本当ならば、願ってもない吉報である。だが、神羅としては、なんとしてでも隠しておきたい情報じゃなかったのか。いや、あるいは――。ツォンはなにも言わず、代わりに、崖のふちに足を進めた。こつ、こつ、革靴の音が響き、落ちるか落ちないか、その瀬戸際に艶やかな革靴の爪先がのぞく。
「ここから先、君たちには神羅の邪魔をしてもらいたくないものだが、どうかな」
 スッ、となにかを見通すような瞳で見下ろされるのは、たいそう気分が悪い。
「お前たちが邪魔をしなければいいだけの話だ」
 躊躇いなくバスターソードの切っ先を向けるクラウドに、ツォンはそうとは一ミリも思っていないような様子で、「いい返事を聞けなくて残念だ」と言った。
「ところで、エアリスは一緒じゃないのか」
 エアリス。その名前に場の空気がいっそう張り詰めた。エアリスとはミスリルマインの入り口で別行動をとっている。セフィロスがいることを危惧し、先陣を美月たちが切り、エアリスたちはアイテムなどを集めながらそれを追いかける戦法だった。だが、ここで時間を食っていれば、早々に追いついてしまうに違いない。
 ただ、微かにツォンの声が異なる響きをもったことを、美月は不思議に思った。エアリス、その名前の音色に――気のせいだろうか。じっとツォンのヒョウのような澄んだ顔を見つめる。
「だったらどうだなんだ」
 クラウドがバスターソードをきつく握りなおす。
 黒い瞳が美月たちの顔を巡り、やがて細まった。
「まあいい。彼女に伝えておいてくれ。しばらく、きみは自由の身だ、と。それと」
 ツォンはいっそう声色を低く落ち着かせた。
「会えなくなるが、元気でな、と」
 みぞおちを爪先でひっかかれたような心地だった。
「エアリスと、あなたはどういう関係なの」
 思い返せば、七番街から逃げる途中に出会ったときも、彼はけっしてエアリスに乱暴を働かなかった。極めて紳士的で、高圧的な態度は一切とらない。まるで逃げ出したお姫さまを連れ戻そうとする、騎士のようでもあった。いや、わからない。あれが、プロのなすことなのかもしれない。
 答えを求める美月に、ツォンはふっと口元に笑みを忍ばせた。
「長い付き合い、ただそれだけだ」

「なにかあったのか」
 タークスが去って、開けた場所で一休みすることになった。泉のほとり、つるりとした岩の上に腰掛けて、硬くなった体をほぐしていた美月は、「なにが?」とクラウドを見遣る。
 興奮剤のおかげか、はたまた気の抜けた三ギル劇場のおかげか、ミドガルズオルムの串刺しへの恐怖は薄れていた。
「タークスと。サングラスの男がアンタを気にかけていただろ」
 美月は、ああ、と相槌を打つ。さすがのクラウドもあのルードの態度に気づかぬはずかない。だが、彼女は、「なにも」と肩をすくめた。
「……レノ。あいつはアンタを見てそう言ってたな」
 クラウドの碧い眼光から逃れるように水面に視線を移し、美月は小さく息をつく。
「エアリスと別れたあと、赤い男、レノに捕まったの。それは知ってるでしょう?」
「ああ」
「ただ、それだけ」
 そうだ。それだけだ。不意に熱を帯びた唇を、指先でなぞる。岩壁から滴る水滴によって、水面には次々と波紋が立っていた。水は透きとおり、水底のミスリル鉱石までもがはっきりと煌めいている。
「ほんとうにそれだけか」
「うん。それだけ。それより、ツォンってひと、エアリスのこと、だいぶ気にかけてるんだね」
「……ああ、そうだな」
 怪訝そうなクラウドを放って、美月は立ち上がると泉に歩んだ。水打ち際ぎりぎりにしゃがみ込んで、小さく押し寄せる波に手を浸ける。水はひやりと冷たく、ささくれだった心を撫でつけるのに、十分だった。
 べつに、レノとの間にあったことは、深く意味を成すものではない。と、美月は思っている。ただ、エアリスが連れ去られたあと、偶然手が空いていたのがレノであり、実験の合間に顔を出したのも、“そういう命令が下っていた”からにすぎない――と。
 だが、ルードが残した、あの、「レノが」のひと言の威力は強大だった。いまさら、彼が自分を気にかけたというのだろうか。面白い遊び道具でも見つけた? まさか。思い出すだけで、熱を帯びる体がもどかしい。いや、いらいらする。
 こんなことをレノが知ったら、それこそからかわれてしまいそうだが。
 ちゃぷちゃぷ、と水の中で手を遊ばせていると、突然クラウドの慌てた声が飛んできた。

「ミツキ!」

 咄嗟に顔をあげる。
 刹那、空から赤いドラゴンが飛びかかってきた。
「っ、あッ」
 鋭い後ろ足で蹴られ、その衝撃で背中から地面に打ち付けられる。鉤爪が皮膚を裂いたが、それ以上に勢いよく岩にぶつかった頭が破裂したように痛んだ。ぐらり、視界が揺らぎ、黒点が虫のごとく這い回る。
「くそ、今行く!」
「待てクラウド! こっちも後ろをとられたぞ!」
「くっ」
 バサ、バサ、と翼を羽ばたかせながらアークドラゴンは美月を見下ろしていた。黒目のない赤い眼が滲んだ視界でぎらりと光を放つ。翼に合わせて小刻みに上下に揺れては、残像がその存在を強大化し、やがて、ばさり、ばさり、羽ばたきがスローモーションになった。
 ――襲われる。モンスターと一対一で対峙するのははじめてだったが、漠然とそうなるだろうとわかった。鷲のように広げられた大きな翼が、心臓の音にかぶさる。地面に崩れた体をどうにか起こして後ずさるが、あまりにも遅い。
「ダガーを抜け!」
 向かってくる敵を大剣でいなしながら、クラウドが叫ぶ。美月は茫然とアークドラゴンを見ていたが、ふたたび赤い羽をふりかぶるのを認めると、震える手をダガーにかけた。

(抜かなくちゃ)
 力がうまく入らない。
(美月、抜くのよ)

「――抜け!」

 そこからなにが起きたのかは、まったく、理解が追いつかなかった。
 ぐちゃ、と生々しい感触が訪れ、赤い液体が顔に吹き飛んだ。モンスターの顔が歪み、グワァアアアと野太い呻きが辺りに響き渡る。黒々とした身をよじり、もがき苦しむ間にも赤いどろどろとしたそれが溢れ、ごぽ、と奇怪な音をたてる。ダガーの柄は真紅に染まり、ヌラヌラと妖しく光っていた。

「サンダー!」
 雷鳴が響き、手にかかっていた重量感が消える。

「クラウド! ミツキ!」
 ティファの声がした。