episode.7

「パパ活って知ってるか」
 そんなだしぬけな硝子の言葉に、限定ランチプレートのジェノベーゼを巻き付けながらわたしは、もちろん、と答えた。
 今日は彼女とランチの日。普段は居酒屋で日本酒をあおっていることが多いが、若いながらも敏腕の外科医だという彼女の都合に合わせて、日中の約束だった。
「知ってるよ、アレでしょ女の子がお小遣い稼ぎに歳上男性とご飯行ったりするやつ」
 ネットニュースで話題になっているのを見たことがある。最近はそれ専用のマッチングアプリがあったり、早い子は中学生、高校生から利用しているらしく一種の社会現象になっていると言っていたようないないような。しかし、パパ活なんて聞こえはいいが、一歩間違えば、アレだ、売春だ。
「そうだ。そんで、最近はママ活ってのもあるらしい」
「へぇ、ママ活。なるほど、男の子が歳上女性にお世話になるってことね……って、もしかして」
 手を止めたわたしに、硝子はさもありなんの顔をしてコーヒーに口を付ける。
「いやいやいやいや、セーフだよね? お金渡してないもん」
「払うのは金だけじゃないぞ。料理をご馳走するのも立派な対価だ」
「いや、でも体の関係とか要求してないし」
「楽しい時間は提供してもらっただろ」
 デデーン、■■アウト~。大晦日恒例のブザーが脳内で鳴り響く。わたしの中はもう年末か。むしろ世紀末だよ。
「ママ活……してたのか、わたし……」
 あまりの衝撃に、思わずフォークをおいてわたしは顔を覆った。
 先ほどまで硝子に話していた内容を思い返すと、自分でもびっくりするくらいの黒。まっくろくろすけもびっくりな黒さであった。
 隣の男の子にごはんをご馳走する。言わずもがな猪野くんのことだ。なんだかんだ、いい子でね、すごい癒されるんだよね、なんて話を親友にこぼしていたのだ。
「都合のいい女はやめるんじゃなかったのか」
「やめるよ。というか、やめていたつもりだったよ」
「だめだな、もう根が尽くし体質だから救えない」
「あああ。そんなことを言わずに、硝子さまぁ」
 彼女はカップを置いたあと、目を回してお手上げポーズをとった。
 まさか自分が図らずともママ活の対象になってしまうとは、さぞ恐ろしいものだ。
 そりゃ、猪野くんとは小学校すら被っていないレベルに歳が離れている。これがお互い三十代、四十代、となれば大人の付き合いで終わるだろうが、相手が二十歳そこそこともなると、若干後ろめたさを感じるのは否めなかった。そこにママ活という言葉。相手を性的に搾取しているつもりはなかったけれど、もしかするともしかしなくても、見る人によってはそう見えてしまうかもしれない。
 だって、少なからずわたしは好意的に思っているし、さらには先日も食事にと誘ったばかりだった。つまり、良心は瀕死寸前だ。いい加減目を覚まさなくては。
 腹いせとばかりフォークにぐるぐる巻きのパスタを勢いよく口へ運ぶ。苦い気持ちとはうらはらに、舌に載せた途端バジルやナッツの豊かな味わいが広がった。おいしい。すごく、おいしい。しかし、話の衝撃は拭えない。
「やっぱ、ママ活、かなあ。ぜんぜんわたし、そんなつもりなかったんだけど」
「さあな。でも、ウィンウィンならいいんじゃない、知らないけど」
「いやめっちゃ適当じゃん、他人事じゃん」
「実際、他人事だからな」
 いけず、唇を尖らせると、硝子は黙ってナフキンを渡してくる。
「口、ついてる」
「んー、ごめん、ありがと」
 唇を拭うと、真白のそれが緑に染まった。
 なんだかんだ、よくあることだ。昔はやれお酒を倒してスカートにシミを作ったり、終電に向かって走ってすっ転んで膝血だらけにしたり。そのたび、「あーあ」と硝子は呆れも揶揄も載せずに世話をやいてくれた。数年間、付かず離れずとも、こんな関係。
 あぁ恥ずかし、と顔を崩すわたしに、硝子がプレートのキッシュを食べながら気だるい瞳をよこす。
「そういうとこ、見せられんのか、そいつに」
 ナフキンを丁寧に何度か唇に当てて、肩をすくめる。
「どうだろ。でも、このあいだ飲みすぎて、寝ちゃったんだよね」
「…………」
「ドン引くわぁって顔? ヤダよ心にクる。アラサー女が飲みすぎてダウンとかリアルすぎるよね」
「いや、そっちに転がったかと思って」
「なにそれ」
「べつに。まあ、年下も悪くないんじゃない」
 興を削がれたように彼女は視線を皿に落とした。ナイフとフォークで器用にキッシュを切って、さぞだるそうな仕草で口へ運ぶ。
「ママ活って言ったの、硝子サンですけど」
「そうだっけ」
 そうだよ、唇を尖らせると、「それより」彼女は話題を切る。
「そのネックレスどうした」
「これ?」
 首もとに手を遣って、指先に触れたそれをなぞる。
 硝子は眠たげな目を細めた。
「先週の奥さま乱入事件おぼえてる?」
「ああ、アレか。泥棒猫ってやつ」
「そう。そのひとがお詫びにって自分のとこのジュエリーくれたんだよね。青は幸福の象徴だから、幸せが訪れますように、って」
 首もとに鎮座するのは、シルバーのネックレス。希少価値のあるブルーダイヤもそうだが、なんだかんだ無駄のないシンプルで華奢なデザインが気に入ってよくつけていた。
 今日は天気もよかったし、いっそう青空に映えると思ったのだ。
「なんかいいことあったか」
「どうだろ。こういうの、結局ただのジンクスだからね」
「ま、そんならいいけど。肩が凝るとか、頭が痛いとか、なんか不調が出てきたら言えよ」
 フォークでぐるぐるジェノベーゼを巻きつけ、食事を再開しながら硝子の顔を見上げる。
「金属アレルギー的な?」
「……そんな感じ。つけるのはせいぜい一週間に一度程度にしておいたほうがよさそうだ」
 見ただけでわかるものなのか。気に入っていたけど、仕方ない。
 さすが、お医者サマ。感心した声をあげると、硝子は隈のできた目もとをもたげて、やれやれとキッシュを口に含んだ。

 眠れない夜というのは、いくつになってもあるものだ。
 小さいころは次の日の遠足が楽しみで眠れなかったり、テレビを見過ぎで眠れなかったり、はたまた昼間読んだ本の怪物が夢枕に現れて目を閉じることが怖くなったり、たいていそこには理由があった。二十歳くらいになると、眠らなくても怒られなくなり、友だちと朝までカラオケオールや飲みオールやら、無意味に朝陽を眺めたりするようになる。
 しかし、二十五あたりを過ぎると、一気にオールが辛くなって、遅くとも二時、三時には休まないと次の日動けなくなる。まだまだ若いのに、なんて言われたりもするが、体は正直だ。
 それでも、眠れない夜がたまにくる。次の日に遠足があるわけでも、昼間テレビを見過ぎたからでも、ホラー映画を見たからでもない。体は疲れているのに、寝たほうがいいのに、ただ漠然と眠れない。
 ちがう、明日がくるのがときおり不安になるというか、自分のこれからのことを考えると、それこそ漠然な不安を抱いて、目を閉じたらいけない気になってしまう。
 時刻は午後十一時。街が眠りについたころ、どうにも暗がりの中ベッドに入りたくなくて窓を開けた。
 宵の空気が心地よい。ほのかに青く、甘く、それでいてさわやか。少し肌寒いが、カーディガンを羽織っていればなんてことはない。
 眠れないきっかけは、なんとなくわかっていた。昼間、なんとなしに母親から届いた「いつ婚約するの?」というメールと、それから硝子と話していた「ママ活」問題だ。
 前者は、うんざりしながらではあったが電話で端的に別れたことを告げた。五年も付き合っていたのだから、親は当然ながらゴールインすることを期待していたようで、しきりに残念がられたものだ。
 そりゃ、わたしだって、期待はしていた。でも、仕方がない。相手がさっさと結婚しちゃったんだから。それは、なんとなくぼやかしたけれど。元カレをかばうとかそういうのではない。単に、裏切られたとかなんだと言うほうが面倒くさかったからだ。ただ、もう金輪際会うことはないし、ヨリを戻すこともないだろうと告げた。
 そんなことを話していると、なかなか気持ちは引っ張られるものだ。二十代後半、まだまだやりたいこと盛り。今どき、三十でも四十でも独身でいたって問題ない。けれど、いつまでそうなのだろうと不安にもなるものだ。ましてや、恋愛にほとほといい思い出がない身としては、漠然とこのまま擦り切れていくのかなと思ってしまう。
 若者がなに言ってんだい、なんて、こんなときには大家さんに背中を叩かれたくなる。
 あとは、言わずもがな、猪野くんのこと。
 ママ活――いや、ママ活じゃないし、と思うが、気になり始めると止められない性としてはハッキリさせたい気もしてしまう。でも、わざわざ言うのもなぁ、と尻込みする。というか、そんな話いきなり隣人に持ちかけられたら、気持ちわるいことこの上ない。
 そうだそうだとつぶやいて、窓を開けたまま、ナイトキャップを作ろうかと背を向ける。
 コツ、コツ、アスファルトを踏み鳴らす音がして、ふりかえった。慌てて窓から顔を出してその名を呼ぶ。
「猪野くん!」
 街灯に浮かび上がる、特徴的な姿。
 おもむろにこちらを見上げて、動きをとめる。
「おつかれさま」
 小さく手を振ると、彼は帽子に手をかけて頭を下げる。仕事終わりだろうか。こんな時間まで、大変だ。
 彼の姿を見て、なんだかわくわくしてきてしまった気持ちを抑えきれず、窓枠に乗り出す。
「ちょ、危ないですよ!」
 猪野くんはあたふたした。
「大丈夫、大丈夫! ねえ、猪野くんすぐ寝る?」
 眠れないなら眠らなければいい。こんな夜にはとくに、眠ってしまったらもったいない、なんて。わたしは感情を抑えきれずに柵に手をかけて前のめりに問いかけた。
「いや、まだ多分寝ないすけど」
 上から人間が落ちないか心配そうにこちらを見上げてくる彼に、わたしはニッと笑う。
「じゃあ、わたしと、今から一緒に悪いことしない?」
「大声でなに言ってんスか!」というさらに大きな声が響いた。

 あーあ、って感じだな。というのは、わたしの中の天使の言葉だ。天使を通り越して、やさぐれた堕天使になっている。ママ活と悩んでいたのはだれだ、と心をチクチク刺しては、やれやれと目を回す。対して悪魔はふんぞりがえり、「ママ活なんか知るか、純愛だよ、純愛!」と叫んでいる。つい、あなたたち役割しっかりして、とツッコミたくなるが、ため息にとどめておく。
 キッチンに立って、ミルクパンに牛乳を沸かす。膜が張らないように三温糖を入れて、温まってきたところでシナモンとナツメグ、グローブパウダーを振り入れる。軽く混ぜてそこへバターを落としたら最後にダーク・ラム。
 眠れない夜に、最高のナイトキャップだ。
 それをステンレスの魔法びんに入れたら、透明のグラスをふたつ持ってサンダルを引っ掛ける。ちょうど、猪野くんも部屋から出てきた。
「いこっか」
 肩からかけたタオルで濡れた髪を拭いて、彼は「どこに」と目を丸くする。
「屋上」
 わたしたちの階からさらに階段を上がると、屋上へつながる扉が待ち受ける。普段は鍵がかかっているのだが、ここへ引っ越してきた際に大家さんがうっかり南京錠の番号を教えてくれたおかげで、自由に行き来できるようになっていた。
「悪いことって、こういうこと」
「そういうこと。カップラーメンでもよかったんだけど、猪野くんそっちの悪いことはよくしてそうだから、こっちにしてみた」
 番号を伝えると、猪野くんは慣れた手つきで錠を外す。
「ピッキングとか得意そう」とつぶやいたわたしに、「どんなイメージすか。……できなくないですけど」と猪野くんは苦笑した。
「おー、案外いい感じ」
「でしょ。なかなかいいよね、なんか夜の学校に侵入するみたいで」
 屋上に出ると、夜空が少し近くなった。東京の夜は明るいから星はさほど見えないが、それでも寝静まった時間に空の下で夜風を浴びるのは心地がいい。
 ン、と伸びをする猪野くんに目を細めて、ぐるりと辺りを見渡した。
 目立ったものは、貯水タンクくらいだろうか。危険対策に少し背の高い柵が備え付けられているが、がらんとした光景はどこにでもある屋上の風景だ。
 どこか遠くに走る車のエンジン音を聞きながら、貯水タンク脇にあるコンクリートの階段に腰を下ろして、わたしはグラスを差し出した。
「お茶すか?」
「それがね、お茶じゃないんだなぁ」
 魔法びんを軽く振って、猪野くんのグラスに乳白色のカクテルをそそぐ。
「うわ、なんかオシャレなのでてきた」
「大人のホットミルクです」
 ふふふと頬をほころばせながらそっと魔法びんの口を切ると、透明のグラスの中でカクテルは三層になった。
「ラム?」
「そう、ラム。バタード・ラム・カウ」
「名前までおしゃれっすね」
 感心したように猪野くんはグラスを眺める。微笑ましい気持ちで自分用にもそそごうとすると、猪野くんは慌ててグラスを置いて、「自分が」と魔法びんを奪った。
「眠れない夜にはね、これが効くの。ただカロリーがすごいんだけど」
「だから、悪いこと」
「そ、屋上で夜景見ながらお酒なんて、なかなかでしょ」
 猪野くんがグラスを満たしてくれるのをじっと見守って眉を下げる。
「なんですか」と不思議そうなまなざしがこちらを向いて、なんでもない、とかぶりを振った。
「どうぞ」
「ありがとう。猪野くん、意外と丁寧だよね」
「意外とは要らないでしょ」
「それは失礼」
 なにはともあれ、乾杯、とグラスを重ねて、両手で包み込む。ふう、ふう、と息を吹きかけて、熱々のそれに唇をつけるとまったりとした甘みが広がった。バターとミルクと、それからスパイスの香り。ごくんと喉を潤せば、ラムの芳醇な風味が鼻に抜ける。
「あー、効く……」
 隣からこぼれた吐息に、思わず顔がゆるんだ。
「いいでしょ」
「最高」
「ふふふ、さすがわたし」
「自分で言っちゃダメでしょ」
 いつもの足先まで黒い服ではなく、グレーのジョガーパンツに白いロンT。肩にはタオル、今日の猪野くんは、いつもよりすごく今どきの子っぽい。
 柔らかな髪は意外と長くて、でも、無造作に跳ねたそのシルエットは野暮ったくなくて。おでこは、ちょっと広いのかな。
 カワイイなぁと思いながらその横顔を眺める。
「あんまり、見ないでくださいよ」
 早々にバレてしまったのか、猪野くんは気恥ずかしそうにバタード・カウを舐めながら髪を揺らす。
「ごめん、猪野くんっておでこ出してるのカワイイなって思って」
「カワイイって……」
「いや、これセクハラかな。あぁ、セクハラだよね、ダメダメやっぱ今のなし」
「もうがっつり聞いちゃいましたケド」
 仮にも男の子なのだから、そうたやすくカワイイとかなんとか身体的なことを言うのはよろしくない。つい気が緩んであれこれと言葉をもらすけれど、もう少し気をつけなくては。苦し紛れに顔をぎゅっとしわくちゃにして、反省、とグラスに口をつけると、猪野くんはぷはっと吹き出した。
「どんな顔ですかそれ」
「反省って顔」
「全然ッスよ。しわくちゃの黄色いやつかと思った」
 猪野くんからそんな喩えがでてくるとは、思わずわたしも吹き出すと、ふたりで目を見合わせて笑った。
「付き合ってくれて、ありがとね」
 カクテルの半分残ったグラスを置いて、膝を抱えながら目の前の光景を眺める。そろそろ十二時を越えただろうか。ぽかぽかと体があたたまり、バタード・カウを飲み切るころにはきっといい感じに眠くなっているだろう。いや、すでに、思考が溶け始めている。
「いえ、むしろご馳走になっちゃったんで、俺のほうがありがとうというか」
「ご馳走のうちにはいる?」
「入りますよ」
 猪野くんはクッとカクテルをあおって、うまい、と声をもらす。下ろした腕を膝に置いて、ふらりと手を宙に遊ばせる。その手の男らしさに不意にどきりとした。
「でも、あんま、ダメっすよ。こんな夜中に、気軽に男誘っちゃ。って、聞いてます?」
「ごめん、聞いてなかった」
 視線をもたげると、猪野くんははあとため息をついた。
「すなおなことで。で、なに見てたんですか、今度は」
「猪野くんの、手?」
「手?」
「そう、意外と筋張っていて、ゴツいんだなぁ……って……」
 猪野くんの頬がじわじわ赤くなる。きゅぅっと熱がのぼり、熟れた白桃みたい。これは、やってしまった。
「あぁ、ゴメンセクハラだ、もうわたしお縄にかかっちゃう」
 顔を手で覆うと、「ほんっとに……」と声がこぼれた。
「だめだから、そういうの」
 口もとを撫でつけて、視線は明かりに浮かび上がったコンクリートに。
 そうだ。だめだぞわたし。まったく、最低にもほどがある。
「ごめん、いい気持ちしないよね」
 すうっとそれまでの膨らんだ気持ちがすぼんで、手首を合わせて連行される準備をしていると、「ちがくて」と彼が言った。
「むしろ、逆。浮かれるから」
 前髪を落とし、こめかみの辺りを掻きながら。
 やっぱり、その手は男らしくてかっこいい。明かりにあえか照らされた手の甲に、太く血管が浮かび上がっている。
「……好きになっちゃっても、知らないっすよ」
 いいよ、そのまま、好きになってよ。
 そんな言葉はごくりとのみ下した。