第四幕 第十話

 白藍の着物に袖を通したのは、それからまたしばらく経ったあとのことだった。
「いやはやしかし、無事解決できてよかったです」
 襖の向こうから近藤局長の声が聞こえてくる。力強く包容力にあふれた声。これを言うとある方面からは絶妙に怪訝な顔を向けられるのだが、ある弱点をのぞけば局長は兄のように父のようにもふるまえるおひとだ。対してお相手方の声はあらゆる素材に吸収されたのかよくは聞き取れなかったが、考えなくてもだれが襖の向こうで局長と相対しているかは予想がついた。
 シフトがないためゆっくり着物を着付けていたわたしを呼びにきた山崎さんは、すばやく頭を下げて控えの間をあとにする。四畳もないその一室には、土方さんが立ち控えていた。
「ここにいろ」
 なにがどうしたのかと視線を送ろうとしたわたしに、土方さんはひと言告げる。そう言われてしまっては彼のそばに同じように控えているほかなく、前見頃に汚れや乱れがないかとさっと確認してから土方さんの隣に並んだ。朝の引き締まった空気がまだ残っている。吐く息はもう白くはないが背すじがぴんと、しぜんと伸びた。じょじょに局長以外の声も聞き取れるようになって、女性の声がふたつ、「今後は警備をいっそう厳重に」だとか「しばらくは慎重に生活を」だとか話しているのが聞こえてきた。
 緊迫した様子はなく、どちらかといえば和やかな雰囲気が襖越しにも背を伝うが、身体の前で、重ねた手の下で、おのずと指を擦り合わせた。
「茶は山上の婆さんが」
 はっと意識を呼び戻したわたしに、土方さんは身じろぎをすることもなく一点を見つめている。
「そうですか、ヨシヱさんが」
 ならば、なぜここに呼ばれたのか。いっそう謎だが、しばらくはその場にとどまった。
「では、外までお送りいたします」
 ししおどしの聞こえてきそうな静けさの合間、局長の声が聞こえてようやく空気が動き出した。心もと背すじを伸ばすと、すぐに襖がザアっと開き、スーツ姿の女性とその背後にショート丈の鮮やかな色彩の和装が見えた。
 軽く頭を下げた副長に続き、わたしもこうべを垂れる。
 あ、と可憐な声が耳を柔らかく撫でた。
「すまないな、トシ、凛子さん」
 顔を上げると、お通ちゃんがこちらを見ていた。最後に見たときよりも、顔に明るさが戻っていた。

(あ・り・が・と・う)

 ぷるんとした唇で、確かにそう告げていた。
 スーツ姿の女性は彼女の母親であり、一般にも名の知れている有名な敏腕マネージャーだ。当然、会話をする間もなくお通ちゃんたちは局長に連れられて応接間をあとにする。
「呼び出して悪かったな」
 少しずつ足音が遠ざかって、土方さんはそう言った。控えていたのだろうタバコを胸もとから取り出して、いつもどおりの仕草で口に咥える。
 かち、というライターの音は、空になった室内にはよく響いて聞こえた。
 ふう――と、溜め込んだ息をゆっくりと吐き出す。
「おまえにだ」
 ふたたび懐に手を差し込んで――ライターをしまいこんだはずの手で薄紅色の手紙を差し出してきた。
「お姉さんへ」と丸っこい字で綴ってある。
 ゆっくりと中をひらけば、甘い香りがした。
〈あのとき、私のために親身になって話を聞いてくれてありがとう〉
 そんなのは、当たり前のことなのに。たったあれだけのことに、ここまでできるほうが、よっぽどすごい。
 封筒の中に残っていた、キラキラのビッ○リマンシールみたいなステッカーを指で撫でて胸に抱き締める。
「今日は、万事屋んとこのガキどもと出かけるんだったな」
「はい。お許しくださり、ありがとうございます」
 土方さんは静かにたばこを吸って、煙ができるだけかからないよう手を低く下げた。
「礼は近藤さんに言うんだな」
 それでも、わたしだって、みんなに感謝したい気持ちだった。
「山崎はつけさせるが、くれぐれも妙な行動はとらねェこったな」
 はい、と、いつもよりしっかりと答えて、頭を下げた。
 
 すこし、浮かれていたのかもしれない。約束の時間が近づいて、土方さんの前を辞したわたしは一度部屋に戻るため縁を歩いていた。
 もう綿入れをした袷は必要ないけれど、それでも吹く風はひやりとしている。神楽ちゃんと揃えた白いマフラーをとってから玄関へ向かおうかしらといつもより足早に進んでいた。
「アレ、なんか今日は雰囲気違いやすねィ」
 向かいからやってきたのは、風船ガムをふくらませた沖田さんだった。パチンと破れたそれをまた口の中で噛んで、額にはお馴染みのアイマスクをかけている。
「着物を新しく仕立ててもらったんです」
 まだ朝もいいところだが、土方さんのいない隙にすでにひとサボりを決めてきたのだろう。ふ、と頬を緩めたわたしを気に留めることもなく、変わらずガムを噛んでいる。
「へェ、こらまた馬子にも衣装――アッいけね」
「そういうことは、たいてい言い終わる前に言葉を濁すんですよ」
 だが、これももはや慣れたものだ。いつもの沖田節に過剰反応するほうが徒労だと苦笑を送れば、なんだつまんねェとばかりにつんと澄ました顔がかえってくるのだった。
「でも、よくお気づきになられましたね」
 普段は色無地か落ち着いた小紋が多かったのだけれど――お登勢さんからのお下がりはそうした着物が多かった――このごろはヨシヱさんからお借りしたものもあって、着物の変化を見つけるほうが難しかったはずだ。
「気がつかねェほうがおかしいでさァ」
「土方さんはお気づきになりませんでしたけど」
「ありゃァ、肺だけでなく目まで腐ってやがるんでィ」
 これまた普段どおり。この減らず口すら、可愛らしいと思えてしまうようになったのだから、わたしも大概というやつだろう。万事屋の面々の平たい目つきが思い浮かんで笑みがこぼれた。
「でも、ひと目惚れをして買ったんです。気づいてもらえてよかった」
 ありがたいことに、こちらに来てから長らく着るものには困らなかった。これからもずっと、大切に扱っていけば襦袢や足袋をのぞいて買い足す必要はなかったのだろう。お下がりなんて言うのも憚られるほど、上等なものをいただいてきた。お登勢さんは、「もう着ないんだ。むしろ箪笥の肥やしが減って助かったモンさね」なんて言っていたけれど、それでも思い出の一枚もあったはずだ。そんなふうに助けてもらって、十分すぎるくらいにいい思いをさせてもらった。
 けれど、いつか自分で着物を買えたら――と思ってもいた。まさかいきなりあんなお給金一か月はゆうに超える金額の代物を買うとは思わなかったが――もしかすると、それでも着物にしては安いほうだったかもしれないけれど――とにかく、シャーベットブルーよりも淡くてそれでも色を失わない、うつくしいこの着物は、わたしの第一歩だった。
 あの日土方さんと大江戸デパートへ赴いて、そして、実際に着物が届いてからしばらく、袖を通す日を思ってドキドキしていた。
「姉さんのことなら、どんとこいですぜ」
 などと、感情のこもっていない抑揚に欠けた声で沖田さんは言う。
「アー、五丁目の甕屋特製うぐいす餅が食べてェなあ。ありゃ今月だけの限定で、昼には売り切れるんだよなあ」
 こちらももちろんつけ加えて。
 はいはい、とわたしは答えて、部屋へ戻り、玄関へ向かった。

「凛子、待ってたアル!」
「お久しぶりです、凛子さん」
 なんだか、半年も一年も会っていなかったような感動が込み上げた。
 まだ、一か月も経っていないのにね、なんて心の中でひとりごちる。
「ありがとう、迎えに来てくれて」
「近藤さんから姉上を通じて伝言があったときはおどろきましたけど、大変でしたね」
 傘を差した神楽ちゃんがフンと鼻息を荒くする。
「家のお風呂が壊れたなら、ウチに来ればよかったネ」
「まあまあ。急だっただろうし、それに、万事屋よりよっぽどいいお風呂に入れるだろうしさ」
「ダメガネはわかってねえな、あの膝を曲げなきゃ入れないクソ小せえ風呂釜だからいいんだろうが。いつか『お風呂が沸きました』なんてアナウンスが耳ざわりになるような、追い焚き機能すらついてない代物アル」
「それ、明らかにディスってるよね?」
 ンッと咳払いをして、新八くんが話を仕切り直した。
「でも、凛子さん、ずっと街で見かけないからって、うちの姉も心配していましたよ」
 屯所から歩き出しながら、ごめんね、と歯切れの悪い苦笑をかえす。
 事情が事情だから、副長判断により居を変えたというのはごく親しい仲であっても秘することになっていた。真選組の中でも、滞在することは知っていても、その真の理由を知るものは限られている。
「どうせ、それがアイツらのやり方アル。そうやって女を囲い込んでズブズブのヌルヌルにするアル」
「なんて?」
 神楽ちゃんたちに黙って長屋を出てしまったことは悪いけれど、いまはまだ事を荒げるべきではないのだ。
 いまは、まだ――。二人に内緒で、小さく息をつく。
「そうだ、銀さん。そんなに悪いの?」
 はやく大丈夫になればいいのに、そんな気持ちを切り替えるように、白いマフラーを手で整えた。
「悪いもなにも、アレはもうダメネ。馬鹿は治らないアル末期アル」
「神楽ちゃん、説明になってないから」
 今日、外出するのはほかでもない、銀さんの入院見舞いのためだった。
 赤子を抱いた彼に会ってから間もなくのこと、風のうわさで入院していたことは聞いていたが、なんでも退院したあと再び入院したらしい。
「まあ、今回は単にバイクに轢かれたってだけですよ。頭はピンピンしてます」
「一番メンドーなやつアル。口を開けばやれジャンプだのパフェだのジャンプだの」
「そうなの、元気そうでよかった」
 手ぶらで行ってはお小言を食らう未来が予測されるからと、道すがら青果店でフルーツ盛りを購入して病院へと向かった。
「カーッ、果物かよ。どうせならパフェとかさあ、ジャンプとかさぁ」
「バナナを頬張りながら言うことではありませんよ」
 これじゃまったく神楽ちゃんと新八くんの言うとおりだ。
 頭には包帯、腕は吊るされ、足はギブスで固定。なんとも痛ましい見た目だが、想像の百倍は口の回ること。
「けど銀ちゃん、このぶどうめっちゃおいしいアル。皮ごと食べれるアルよ」
「ちょっと待て神楽。シャ◯ンマスカットには手を出すなって言っただろうが」
「シ◯インっていうアルか。どうりでみずみずしく輝いてるアル」
「いいか、神楽、そいつぁな、今年一番輝いたヤツが食っていいって相場が決まってるんだ。酢昆布臭いガキが食っていいモンじゃねえ」
「うわっ、見るネ銀ちゃん! このイチゴ、このあいだ銀ちゃんが買って隠してたイチゴより十倍は大きいアル!」
「神楽ァァアアア!」
 
「……すみません、凛子さん」
 ううんとかぶりを振るまえに、パンチパーマのお局看護師長がやってきて、きついお叱りをして去っていった。
「イテエな、なんで俺だけ」
「まあ、自業自得なんじゃないですか」
「どこがだよ、どう考えても騒いでたのはあの胃袋ブラックホール娘のせいじゃねーか」
 すっかりフルーツ盛りのカゴは空っぽで、それでも足りなかった神楽ちゃんは新八くんを引き連れて一階の売店へと下りていった。
「でも、いまの青果店ってなんでもあるんですね。シャイン星からの輸入品だっていって、マスカット、おいしそうでした」
「そりゃあまあそうだろ。どこのどいつか知らねーが見舞いにゃマスカットだって考えたはいいが、書いたあとでうっかり季節が違うって気づいたらしいからな」
「往生際が悪いですね」
「まったくだ」
 銀さんはくあ、と大きなあくびをひとつ拵えた。嵐のようなご対面が去って、凪といったところだ。忙しない外来とは異なり、病棟は静かだった。
「そういえば」と、一拍も置かずに切り出した。
「あの赤ちゃんって結局、銀さんの子どもじゃなかったんですね」
「あたりめーだろ」
 実写版「子連れ狼」はどうやら無事幕を閉じたらしい。実写もなにもないかと勝手に結論づけて、空になった籠とバナナの皮を片づける。
「なかなかお似合いでしたよ、おんぶ姿」
「蔑んだ目で見てきたヤツがよく言うよ」
 神楽ちゃんと新八くんから、軽く話は聞いていた。橋田屋がナントカ、マダオがオムツ履いてたアルとかナントカ。長谷川さんの人権が失われかけたところで聞きかねた新八くんの説明によれば、夫を病気で亡くした女性が、相続争いに巻き込まれてやむなく子どもを避難させるために、万事屋を頼ったとのこと。
「そっくりでしたけどね」
「世の中な、自分に似た人間なんかザラにいんだよ。ジャンプを見てみりゃわかる。銀髪、イケメン、長身、ホラ、少なくとも二人は出てきた」
「今すぐ各方面に謝ったほうがいいと思いますよ、銀さん」
 世の中、いろいろなことがあるものだ。なにひとつ背に抱えることなく、まっすぐ歩いてきた人間のほうがきっと珍しい。
 隠し子騒動はとっくに終わりを遂げ、いまはまた閑古鳥の鳴く万事屋に戻ったという。
「なんだか、目まぐるしい数週間だったんですねえ」
 そっか、あれからもうそんなに。
 ――と、片づけ終えた籠を胸に抱いた瞬間、すうっと背すじが冷えた。
「どうした?」
 ――気のせいで、あってほしい。
「なんかこの部屋、寒くないですか?」
「いや、バリバリ25度あるから。銀さん、この病院、夏も冬もだいたい25度あたり保ってんの知ってっから」
「そうだ。ラウンジでホットドリンク買ってきますね。寒いし」
「いやいや、暑いって。部屋の温度をさらに上げるつもりか?」
「コーンポタージュかな、オニオンスープもおいしいですよね」
「お汁粉でお願いします」
「みそしるもいいなあ」
「ホンットに、話きかねー奴らばっかだな」
 巾着を手に掴んで、病室を出た。心臓でなにかが暴れ回っているみたいだった。本当ならば一人になるべきではなかったのだけれど、銀さんになにかを悟られたくなかった。
 どうして? そんなの、わからない。
 坂田と記されたプレートのすぐ横で胸に手を当てながら深呼吸をした。それでも治まりそうになくて、無理やりラウンジに向けて歩き出した。
「――おっと」
 病棟はロの字を描くように作られていることが多い。ナースステーションを越えて、角を曲がろうとしたところで、向こうからくる人影に気づかなかった。
 あまりに、不注意だった。突っ走るように、我を忘れて、こんなこと。
 ごめんなさい、とっさに謝ったわたしに、男性は鷹揚に答えた。
「いや、なんのこれしき。怪我はないでござるか」
「ええ、大丈夫です」
 めまいがしそうだ。
「凛子、なにしてるアルか?」
 神楽ちゃんの声が聞こえて、わたしは深く頭を下げた。
「すみません、失礼いたします」
 

送信中です

×

※コメントは最大1500文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!
2026年1月31日たゆたえども沈まず第四幕 春にわくのは虫だけじゃない