第四幕 第十一話

 明くる日、遅番の仕事であった。
 ふだんは早番と遅番をうまく組み合わせて勤務表が作られているのだが、家庭のある先輩方が多いこともあり、屯所で生活し始めてからは我こそはとばかりに遅いシフトを請け負っていた。
 気を使わなくていいと言ってはくれるが、自分のできることをしたいという気持ちが大きかった。迷惑をかけているぶん、頑張らないと。そうしないと、どうしていいかわからなくなってしまう。
 勝手に、自尊心を満たすためにやっているだけ。でも、帰り時間を気にしなくてよいぶん、いつもは雑になってしまいがちな仕事もしっかりと終えられるようになったし、当然帰るのは屯所の中だから、すぐに寝る支度もできてむしろいつもより早く就寝するようになった。文句なしの一石二鳥だ。それに、遅い時間に江戸の街を歩く女性が一人でも少ないほうが、いい。
 ともあれ、出汁の匂いが屯所中に洩れだしてくるころ、前掛けとたすきをかけて女中部屋に顔を出した。
「おはよう、凛子ちゃん」
「おはようございます」
「今日も一日よろしくね」
 ロッカーにかける手が一瞬固くなるが、もうそこにはなにもない。荷物だけを中へ押し込んで、休みであるヨシヱさんのかわりに本日の女中方のまとめ役であるお姉さまから一日の流れを総ざらいさせてもらった。
「では、わたしは厨の手伝いをしたあと、今日は西側の廊下と玄関の掃除をしてまいります」
 確認のあと、さっさと女中部屋は空になって、いざ仕事開始である。
 厨房ではすでに昼食の支度が佳境に入っており、朝食に使用した食器洗いを担当するのみであった。時節柄、水仕事は手がかじかむが、太陽が上がってきたこの時間は多少マシと言えた。流しに溜まった食器を黙々と洗い、水で流したあとは水分を拭きとって乾燥。
 食洗機を置いてくれりゃいいのにと前にトモ代さんがボヤいていたが、幕府直属の組織とはいえ――むしろ、だからこそ、なのか――経費うんぬん、食器洗いは従来のやり方どおりだった。流しが空になったのを確認し、本日の副菜を小鉢に盛りつけるまでを担うと、次は掃除へと回った。
 このころには屯所内もにぎやかになりつつあって、稽古や見廻りに出ていた隊士の皆さんの姿が広い武家屋敷の中で見られるようになっていた。
 大きな流れが食堂へ向かうのを見計らって、人の掃けた西側の廊下を雑巾掛けする。クイッ○ルワイパー的な代物ももちろんあるのだけれど、そんなものでは何十人と利用する床は綺麗にはならない。
 無理な体勢をとっても体を痛めない若さにそれなりに感謝して、昼食の時間のうちに大方の拭き掃除を終えた。最後に雑巾を絞って泥水に近くなったバケツの中身を変えたあとは玄関へ。こちらもまずは軽く埃を落として、水掃除をし、来客がいつあってもいいようにあらゆる箇所を磨き上げる。
 季節に合わせて活けられた花は早番の女中が担当することになっていた。立派だけれどいやらしさのない、雪柳を使用したいけばなは真選組らしいともいえた。勉強になる、と掃除のあいだ手を動かしながら観察をする。
「すいやせん、東雲さん。すこし前に通った原付が、集めてた落ち葉を散らしていっちまって」
 玄関前の飛び石に水やりをしていると、外で掃除をしていた見習い隊士の一人が慌てて頭を下げながらやってきた。ふうっと風が吹いたすきに、枯れ葉がコロコロと地面を転がっていく。
「いま、そちらに向かいますね」
 竹ほうきを用意し、長屋門をくぐる。近くの木からも集まった葉がそこかしこに散らばっていた。これはまた骨が折れそうだと、次の車両が来ないうちに掃除へととりかかった。
「本当、すいやせん仕事を増やしちまって」
「とんでもない。一人でも多いほうが、早く終わりますから」
 おそらく、これが片づかないと彼らは昼食にありつけない。そうならば、彼らがすこしでも早く空腹を満たせる手伝いをするのが、わたしの仕事のひとつだ。
「助かりやした」
 どうにか落葉が逃げていかないうちに集め終え、山盛りになった籠を隊士の一人が抱える。
 いいえ、と笑みを返し、それからわたしも掃除用具を片づけようと竹ほうきを胸の前に抱えた。
「あら」
 からころとばかりに鳴りそうないでたちで、丸まった広葉樹の葉が風に流れてきた。
 すべてを集めるというのはとうてい無理なことだけれど、せっかく綺麗にしたのだから、ここで一枚見ないふりをするのは気持ちが悪い。ほうきを手にしたまま道へ歩みいで、膝を折った。
「おい、待て!」
 そんな声が、右手から聞こえてきた。広大な武家屋敷の塀の端を確かめるのは困難なことだが、黒い制服が門へ消えていくのが見えた。
 見習いの隊士たちが目を白黒させる中、門前に待機していた別の隊士が、「東雲さんはこちらへ」と声を強張らせた。
「東雲さん」
 枯れ葉を手にしたまま、春日向の向こうを凝視していた。
「――東雲さん!」
 脳裡に、「あか」が散らついた。

 いくつもの手が。
 いくつもの目が。
 足元から、背後から――這い上がって、這いつくばって――――。

「東雲さん!」

「……あ、ご、ごめんなさい」
 焦燥の色を浮かべた顔が、すぐそばにあった。
 立ち上がらないと。風が吹き、枯れ葉がこぼれていく。
「オイ、なにしてる」
 やってきたパトカーから、土方副長が降りてきた。
 くゆるたばこのにおいが、かえって胸を落ちつかせるようだった。
 
「そうか、取り逃したか」
 一人の隊士が頭を垂れ呪文のように言葉を続けた。逃げ足が早くこの土地を熟知しており、その足の速さはねずみのようで小路をいくつも曲がってこちらを撒いた。
 薄汚れた盗人と思いきや、着ている羽織や着物には光沢がある。足元は真白の足袋。しかし、深く笠を被っており、人相は掴めない。
「桂、高杉派の動向は」
「いずれも、近ごろは江戸での目撃情報は入っておりません」
 下がれ、と土方副長がたばこを指先にとった。側に置かれた灰皿へ器用に灰を落とす。報告にあたっていた隊士は、今一度深くこうべを垂れ幹部室を辞した。
「山崎はどうした」
「今朝、屯所に帰ってきたが、大した報告は入ってきてねェ」
 ふむ、と局長が腕組みのままあごを撫でる。
 深くて苦い、たばこの香り。遠くに聞こえる隊士たちの足音。あかぎれた指の節を隠すように反対の手できつく包み込む。
「気にかかるのは、男が薬箱を抱えていたってことだ。身なりは裕福そのもの、羽織っていたのは十徳」
「すぐに調べさせるが、ただの町医者ってわけでもねえだろう」
「ああ、事が明るみになれば即時免状の剥奪だ。お上がやらなくても確実にとっつぁんがやる。免状剥奪どころか、最悪江戸、いや地球追放まである」
「……有象無象だな」
 ゆっくりと紫煙がくゆった。
「東雲、おまえはどうしたい」
 指先は握っていたにもかかわらず氷みたいに冷たかった。
「どう、ですか」
 声も、うまく出せずに擦れてしまった。
「トシ、そう事を急いては仕損じる。ましてや凛子さんの身の安全がかかっているんだ。うちは万年部屋数が余っているし、凛子さん一人抱えたところで問題はない。凛子さんが安心できるようになるまで責任をもって守る、それが俺たちの努めだ」
 床の間を背に近藤局長は座している。その右腕を守るのは、常に決まっている。しかし局長の言葉に首肯するでもなく、目の前に座るわたしを土方さんはうかがった。
「それでいいか、東雲」
 その[[rb:瞳 > め]]は、どんな言葉よりも突き刺さる。
 握った指先が白くなって、ただ、すぐには喉を震わせることはできずに、いくらか冷えた空気を吸い込んでは吐き出した。
「……わたし」
 何度かの呼吸を終えて大きく息を吐き出した。
「もう、終わらせたいです」
 あれだけ力んでいたというのに、声にしたとたん、言葉にしたとたん、全身の力が抜けていくみたいだった。ほんの数秒前まで自然に行えていた呼吸がおぼつかなくなり、脳内で簡単な数をかぞえることもかなわなくなり、こんなの、情けないとは思うのに、吐き出す息が震えて、喉から小さく悲鳴が洩れて、たまらなくなって凍えた手のひらで顔を覆った。
「みなさんに迷惑をかけたくない。もうこれ以上、怯えて暮らしたくない」
 わたしがなにか、いけないことをした? 生活が不自由にならざるを得ない、そんな事件を起こした? だれかを欺いた? 陥れた? 傷つけた?
 あふれてはこぼれて、怒りや悔しさ、虚しさが短く浅い呼吸に変わる。
 こんな生活、もういやだ。けれど、そううまくいかないこともわかっていた。相手が確定していない以上、土方さんたちが何らかの令状をだすことはできない。相手を特定するにも人間も天人も多く行き交う江戸では困難を極める。
 たとえば先ほどの不審者がそうであったとしたら――希望は小さくないのかもしれない。でも、そうであるとは限らない。
「相手はカタギの人間じゃねェ可能性がある」
「おい、トシ」
「東雲もいい大人だ。うやむやにしたところで、こいつは余計なことまで考える[[rb:性質 > たち]]だって近藤さんももう知ってるはずだ」
 短くなった煙草を土方さんは懐から取り出した簡易灰皿へと押しつぶした。
「嘆かわしいことに、この江戸にゃ毎日のように頭のイかれた人間が集まってきてる。おかげで妙な連中のうわさがあとを断たず、やれ何々派だ何々衆だ、天誅、クスリ、テロ、そうした話題にゃ事欠かない」
 常のしぐさで順序をたどるようにふたたびそれをジャケットの内ポケットへ戻す。
「おまえに手紙や写真を送った人間が、単なる思い込みの激しい妄想野郎だったなら事は簡単だが、攘夷派、天人、俺たち真選組をよく思わねえ奴らはごまんと存在する。当然、その中にゃ俺たちと関係のあるおまえをダシにしようってヤツがいても、おかしくはねえだろう。悲劇的なことに、おまえはたった一人でも警察庁長官を引きずり出せる女だってことを、忘れねェほうがいい」
 頬を平手打ちされたかのような、痛い衝撃だった。目の前がぐらりと揺れるような。ジンジンとひりつくような。きつく形つくった正座がいまにも崩れてしまいそう。ああそんな簡単なことではなかったんだ。わたしは、なんて、自分勝手で浅慮な人間だったんだ。
「なんでもします」
 上ずった声が喉を突いて出ていた。
「わたしにできることなら、どんなことでも」
 ほどけてしまった帯を、心の帯をたぐり寄せてきつくしばる。たとえその動きがぎこちなくても、完成したものがどれほど不格好でも、畳にくずおれたまま嘆いていたくない。
「ちょ、凛子さん、落ち着いて。ねっ、ほら、トシも! まだ攘夷派や天人がかかわっているとは決まったワケじゃないし! 純粋に凛子さんのことが好きで、行動がエスカレートしちゃったどこぞのいけすかない野郎の犯行かもしれないし!」
「そうでさァ。まったく土方コノヤローは向こうみずの早漏野郎で困りますぜ。死ねばいいのに」
 つるのひと声と称すにはあまりにもアレだった。アレだったのだけれども。
 ぼそっと付け加えられた暴言はさておき、閉め切った幹部室の襖が開かれ、ドサっと畳の上になにかが落ちた。
 正確には、沖田さんがなにかを落とした。
「総悟ォォオオオ!?!?」
 ぐるぐる巻きの、人。
「オイ、テメェ、いまなんつった」
「ありゃ、聞こえてやせんでしたか。こりゃ土方さんもお迎えが近ェかもしれねえ。東雲の姉さん、今日の晩飯は赤飯でお願いしやす」
「よしわかった。そこに直れェェエエエエエッ!!!!!」
「そうじゃなくてェェェエエエエエエエエ!!!!!!」
 ぐるぐる巻き、というよりかは、うん。まさしくいかがわしいDVDで見るアレだ。
 荒縄でギッチギチに緊縛されているのは長い銀髪の女性。両手足を後ろに固定され、海老反りに似た体勢で、なお口にボールタイプの轡をはめられている。
 この光景だけを見れば、ドン引きだ。涙も鼻水も一気に引っ込んでしまった。
 とうてい全国放送できないような格好のまま、女性はふごふごとなにかをうめいている。そんな放送禁止の格好をしてはいるが、よく見れば赤い縁の眼鏡をかけた顔は整っている。服装は見慣れない――くの一? そういうお店の人だろうか? そういうプレイ? 一瞬ためらったものの、とにもかくにもあわてて轡を外せば、女性は叫んだ。

「放置プレイなんて、興奮するじゃないのォォオオオオオ――ッッッ!!!」

 大正解だ。今なら少年探偵団に入れてもらえるほどの名推理だった。
「おや、姉さんもやるじゃねェですかィ。まさかそっちもいける口とは思いやせんでした」
「戻してきてください。いますぐ、拾った場所に戻してきてください」
 申し訳ないがすぐさま轡を戻し沖田さんに向き直った。
「いいですか、沖田さん。いくらもとが少年誌とはいえ、この話は全年齢対象。心の綺麗な、ピュアな少年少女だって読んでいるかもしれないんです」
「なに言ってんですかィ、まったく。四幕まで読んでりゃ、とっくに手遅れですぜィ。心も身体もずぶず――」
「沖田さんンンンンンン!!!!!!!!」
「まあまあ、落ち着いて凛子さん」
 猛獣さもありなんとばかりに宥めるポーズで、近藤局長がわたしたちの間に割って入った。
「総悟、これはいったいどういうことか教えてくれないか」
「どういうこともなにも、そこで捕まえてきた雌豚ですぜ」
 沖田さんは、「そうですが、なにか?」とばかりのいつもの態度で転がされたままの女性のそばに屈んだ。
「なにやら姉さんに用があるようで、俺が懇切丁寧にお連れしたんでさァ」
 懇切丁寧の意味を引き直したほうがいいなどという助言は無駄だ。そんな考えは捨て去るべきだと早々に学んでいる。
「東雲に用だと?」
 ふごふごふごふご、その間にも女性はなにかを訴えている。
「ま、本人から聞いたほうが早いですぜ」
 ペロン、と赤いボールが口から外れた。
「そうよ、その女よ!!!!」
 わたし? と固唾を呑む。
 視線がひゅっと集まった。

「アンタ、銀さんのなんなのよォオオ――――!!!!!」

「こいつァ生きのいい雌豚だ。いやあ、雌豚同士の醜い争いが見れると思うと今からワクワクしてきまさぁ。下手な昼ドラより暇しないで済むかもしれやせんぜ。おら、せいぜいいい声で啼くんだな」
 残っていた荒縄を手に、意気揚々とプレイの続きを披露しようとした沖田さんを(土方さんが)(力づくで)宥めて、状況を整理することになった。
「つまり、万事屋に近づく凛子さんが気に食わず、あとを尾け屯所に忍び込んだ、と」
 沖田さんと並びに正座をする女性だが、悪びれた様子もなく、ええそうよと髪をなびかせた。
「この女がいなければね、いまごろ銀さんと私はッ、あんなことや、そんなことッ、ここでは言えないなことや×××ピーッなことまで!!!」
「なんてけしからん野郎だ!」
 土方さんが紫煙を吐き出した。
「そんじょそこらの人間が潜りこめるような、ザルな警備はしてねェはずだ」
「そんなの、あそこでラケット持ってた男にこのシャトルを渡したまでよ」
「山崎ィィィイイイ!!!!!」
 ピュウッと口笛を吹き、「翼を授ける~♪」と沖田さんが口ずさんだ。
「なんでィ土方、調子乗りやがって」
 ついでにゲンコツを食らった沖田さんがぶつくさと文句を垂れる中、いわゆる取り調べは再開された。
「凛子さんを尾行し始めたのはいつから?」
「そんなの、銀さんと私の前にその女が現れてからに決まってるじゃない」
 閉め切った襖の前を、たんこぶを拵えた沖田さんと山崎さんが守っている。
「あれは凍てつくような寒さの日だったわ」
 女性はゆっくりと口を開く。

「――――ちらつき出した雪があっという間に大きくなり、あたり一面が真っ白になるころ。通りで必死に納豆を売っていた私は、あまりの寒さに凍えて死んでしまいそうだった。
 いますぐにも暖をとれる場所に行かなくてはならない。けれど、その日の納豆を売り切るまでは家に帰れない。家では腹を空かせた幼い弟妹が私の帰りを待っている。
 納豆を売らなければ、せめて一つだけでも――……そう思い人影すら見えない通りを、裸足のまま。でも、いつしか足の感覚がなくなって、ついに雪に倒れ込み動けなくなった私を、通りかかったとある大店の若旦那が……」

 ………………

 …………

 ……

 思わず聞き入ってしまった。

 局長なんて、「なんて、なんて感動的な話なんだ……!」と涙と鼻水をだらだら垂らしていた。
「するってェと、なんですかィ。納豆売りの雌豚が、名のある呉服問屋の跡継ぎに拾われて昼夜構わずネバネバねっとり納豆プレイ(はあと)――としけこもうとしたところ、東雲の姉さんが現れまさかの修羅場NTR展開、と」
「なんだと、NTRプレイとはけしからん!!!! だが、羨ましい!!!!!!!!」
 飛んできた鼻水を迷惑そうに山崎さんでかわし、沖田さんは挙句、生あくびを噛み殺す。
 この状況をどうするのかと視線を送っても素知らぬ顔だ。今度は口笛まで吹き出した。
「だいたいね、清純派きどって何様のつもり? 弱った銀さんの世話を甲斐甲斐しくしちゃって! バナナなんか差し入れて! なによ、そういうプレイでもするつもり!? バナナを使ってナニ!? あっ、銀さんだめよ、わたしの中のバナナ食べちゃ……的な!? 私を差し置いて、羨ましいじゃないのよォォオオオ!!!」
 そうよ、清純派を名乗るヤツほど裏でえげつないことやっちゃってんのよ!!!! と乱心した彼女の前に、一枚の封筒が差し出される。
「なによ、これで示談でもしろっていうの?」
 東雲凛子様と、いびつな文字が見えた。
「この手紙に覚えは?」
 は、と息を呑むうちに、土方さんが訊ねた。
「ハァ? あるわけないじゃない」
「……だろうな」
 土方さんはおもむろに取り出した煙草に火をつけた。「山崎、連れてけ」ひと声続けるや、大きく煙草を吸い込んで、静かに深く煙を吐き出した。
 ――いなや、幹部室が爆散した。
 
「あーあ、こっからがイイところだったってのに」
「どう考えても地獄だろ」
「なんでィ。小さな子どもから大人まで大人気、『納豆売りのマゾ女』に途中まで涙ぐんでた人間がよく言うぜ」
「涙ぐんでねえよ。つか、ンなモン世に蔓延らせるんじゃねエ」
 襖の前で立ったまま、沖田さんは唇をちょんと突き出して後ろ手に手を組む。サラサラツヤツヤの金髪も、いまや立派なアフロヘアーになっている。
 あられもない状態になった襖が、ごとりと床に落ちて、頭が痛いとばかりに土方さんが上体を揺すりながら腕を組んだ。あぐらをかいた彼の頭ももちろんチリチリだ。近藤局長も、山崎さんも。となるともう、もちろんこちらもチリチリ一択である。
 登場人物全員大きな頭を抱えるという異様な状況のまま、話は続いた。
「それで、山崎。件の男の人相に見覚えは」
「身なりだけ考えれば、どこぞの藩お抱えの医者のせがれってところですが。どうにも、実際に医者であるかも疑わしいですね」
「こちらの意識を欺いてまで、達成したいなにかでもあると言わんばかりだが。それにしては、正直、脇が甘くてキナ臭ェ」
 洩れなく当たる、アフロヘアー! のほかにも、女性の残した置き土産で散り散りになった紙片を指先で捕まえて眺めた。
「……わたし、囮になります」
 視線が集中したのがわかった。
「凛子さん、すまないがそれだけは聞き入れられない」
「でも」
「さっきも言ったはずだ。相手がなにをたくらんでいるのか、そもそもどういうヤツが裏にのさばるか定かでもねェいま、事態を煩雑にするだけだ」
「……そう、ですけど」
 もう終わらせたい。
 終わらせられないのだろうか。
 そんなふうに、わがままで幼稚な思いが胸の裡に込み上げた。
「いいじゃねェですかィ」
 ふたたび俯きかけたわたしの視線を、引きずりあげたのは沖田さんだった。
「テメェは話を掻き乱すな」
「掻き乱してませんぜ。本人がその気なら、これほどの好機はねェでさァ。こっち側に足突っ込んだ以上、それぐらいの気概でいてもらわねェと、俺たちも張り合いがないってモンだ。泥濘に足取られて動けなくなってる以上、これを利用せずとなにを利用するんでィ。それとも、女一人守れねェって言うんですかィ、土方さんは」
「……アァ?」
「総悟、トシ、いい加減にしろ。真選組の面子なんざァこの際どうでもいい。凛子さんを犯人の前に一人突き出して、危険な目に合わせるわけにはいかない」
 ふっと浅く鼻で笑う音がする。
「やだなぁ、近藤さん。俺はなにも、東雲の姉さんに囮になれって言ってるワケじゃねェでさァ」
 得意げなというよりも挑発さえ滲む澄まし顔で、沖田さんはちらと背後をふり向いた。

「お、オレぇェエエエエエエ――――!?」
 

送信中です

×

※コメントは最大1500文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!
2026年1月31日たゆたえども沈まず第四幕 春にわくのは虫だけじゃない