結局、私はあの手をとらずにはいられないのだろうか。
空からキャモメの鳴き声が降りそそぎ、水面はのどかに揺れている。しめやかなヒワマキの空気とは一変し、こちらはまさに南国だ。照りつける陽射しをきらきらと撥ね返すのは水面だけではなく、パラソルの立つ白砂も私の目に目映い光を返してくる。ひととポケモンがゆきかうみなとまち、カイナ。潮騒が耳を撫で、遠ざかっては近づき、風に攫われた髪をかけ直す。
「遥子」
そう名前を呼ぶのはあのひとだ。やおらふり返った私に、彼は博物館のチケットを一枚差し出して微笑を浮かべていた。
「先に、ランチでもするかい。少し早いけれど、そのほうがゆっくり博物館を回れるだろう」
表情にぴったり当てはまるような丸い声。それにええとうなずき、彼の足もとからスキップをするように出てきたロコンに手を伸ばす。くん、と、小さな鼻先が手の甲にふれて、こそばゆい。あごを撫でれば、ロコンは自分もおなかが空いたと言わんばかりに明るくひと声をあげた。
長い夜を思い返す。苦しい夜だった。何日も昏い海の中で溺れているような心地だった。船も見つからず、もがいてももがいてもどこにも進むことができないのだ。唇からこぼれる泡が天に上がって、そしてそれが途切れそうになったとき、私は抗うことをやめた。夜の海に身を委ねながら、いっそのこと沈んでしまえればいいのにと漠然と考えていた。息ができなくとも、いつしか苦しみは尽きてなくなる。解放されるのだ。諦めようと思った。だが、大きく水面が揺れ、銀の環をつけたあの手が伸びてきた――。
コテージを飛び出した私を、彼らは迎えに来た。雨に濡れ、泥に汚れた姿が星月夜の光に映し出されたそのとき、胸が大きく弾み、心臓がふたたび動き出したのをもはや感じずにはいられなかった。陸に上げられた魚はもしかするとこんな気持ちなのかもしれない。急に息を吸うから大きな塊となって、かえって苦しいほど。
なぜ。なぜ彼はそこまで私に固執するのだろう。なにひとつ持っていない女だというのに。なにも与えることなどできないというのに。なぜ、私の手を掴もうとするのだろう。ずっと、理解らなかった。
トクサネの浜辺で、海岸線で、私の腕を掴んだあのひとの手の温度を、今でも憶えている。私を貫く目の鋭ささえ。その奥になにが潜んでいるか、知らずにいられるほど純朴でもない。それなのに私は、突き放すどころかその手をとるしかできなかった。きつく胸が締めつけられ、「どこかへ連れていって」と言いたくなってしまった。口に出すことはできなくとも、言葉としてその瞬間脳裡に浮かべることができなくとも、私はきっと無意識のうちにそう物語っていたのだ。
まだ、彼のことが怖いのかと言われれば、そうなのだとおもう。彼の穏やかで品のいい笑みの、その下の石のような、あるいははがねのような心がなにを感じ思いえがいているのか、考えるのが怖い。私の力の及ばないところで簡単に人生を蹂躙される気がするのだ。喉をひたすら掻きむしり、ひとりにしてと耳を塞いで、うずくまって、延々と地面だけを眺めていたくなる。けれど、わからない。なぜだろう。このひとのそばは苦しいのに。苦しくてたまらなくなるのに……。どうしてか、心地よさを憶えてしまった。
夜を越えるためのことばを、温もりを、力を、彼はいともたやすく私から奪って、そうしてまた、与えていくのだ。
「わたし、おもいだしたんです」
沈黙を貫くつもりが、夜のやさしい魔物にそそのかされて私は気がつけば話しだしていた。ロコンを胸に抱き、その子からもらったオレンの実を手にしながら。まだ声はうまく出せなかったが、彼は隣に――天にも地にも幾千と星の広がる世界に、共に立ち尽くしながら私の話に耳を傾けていた。
あの夜、私は歩き続け川を覗き込んだこと。そして、橋から落ちたこと。落ちる直前、だれかが私の首を絞めた。苦しかった。抵抗した。だというのに、まったく敵わなかった。気がつけば、私は水面に身を投じ、この世界へやってきていた。
そのだれかを、ダイゴさんは慎重に訊ねた。私は言葉に詰まったが、ゆっくり、はっきり告げた。カナズミシティで会った男性が、そのひとに瓜二つだったことも。あのひとを好きだと思っていた記憶なんて、もうずっと前のことなのに、その苦しみから今もなお抜け出せずにいることも。
あのひとは、私が一番じゃなかった。愛してるだなんだと言っておきながら、いつのまにかもっと大切な人ができたから、私はすぐに要らなくなった。
重たいんだよね――その言葉は今もなお鉛となって全身にのしかかる。
「馬鹿みたいだと思います」と私はかれに言った。
そんなことをずっと引きずっているなんて。さっさとすべて忘れて、前へ進めばいいのに。……それなのに、思い浮かぶのは、あたたかなダイニングキッチンの、射し込んだ光や風や、甘いにおいだった。
「……私は、たぶん、きっと、あの人のことが大好きだったから」
夜風にそっとささやくように、そっか、と彼は言った。泥だらけの格好で、髪すら無造作に額に張りつくのをそのままに。
「なぜ、彼はキミを襲ったのだろう」
力なくかぶりを振った。
「……わかりません、でも、私のことが憎かったことだけは、わかります」
まとわりつく指は、蛇のようにさえ思えた。何匹も何匹も重なって、大蛇のような力を生み出す……。彼は納得のいかない様子だったが、また、そっか、と言うと、空を見上げた。
「この空がどこかへ続くように、この世界の海とキミの世界の川は、きっとつながっていたんだな」
……私が、ミナモシティへ行った日、天の川を見上げて涙した理由をこのひとは理解っていたのだろうか。あの世界で見たことのある星が、はっきりとそこに瞬いていたことを、知っていたのだろうか。
彼は私にそっと手を差し出し、「かえろう」とやさしく微笑んだ。そして私は、その手をとった。
繋がった手のひらの熱は、これまでのどんなものよりも、あたたかい気がした。
カイナの市場は、朝一番の書き入れ時を過ぎたこともありどこか穏やかな空気が流れていた。漁へ出て帰ってきたのだろう、魚屋などはすでに店じまいをしている最中で、チラリと視線を転じた際に目が合えば、「また明日、いいヘイガニ獲ってくるよ」と白い歯を見せてくれる。精肉店屋チーズ専門店、さらにはパン屋、まだまだ開いているお店も多い。けれど、せかせかと忙しく動き回るわけでもなく、互いに談笑をしたり、店先に出てお客さんに試食を渡したり、相変わらずパリの朝市みたいだとどこか懐かしくあった。
「スムージー、前も飲んだよね」
その中で、きのみを売る露店の前で、つやつやの果実たちを眺めていたらバゲットサンドを買いに向かっていたはずのダイゴさんが背後に立っていた。「はい、これ」と差し出してくれるのは、ブリーのジャムとバターのサンド。彼はどうやら生ハムとチーズのものにしたらしい。
「パイルの実、でしたよね。パイナップルみたいで、おいしかった」
「そっか、キミの住んでいたところではそう言うんだね。ブリーもなかなかだったな。でも、ジャムがブリーだから、すこししつこくなってしまうな」
真剣な表情で、顎に手を当てて考える。ただスムージーを選ぶだけなのに、まるで家でも選ぶみたいだ。なんだかおかしくなって小さく吹き出すと、彼は、「なんだい」と不思議そうにこちらを向いた。いえ、と口もとを隠して、きのみをクロスで拭いていた店主に声をかける。
「今日のおすすめは、なんですか」
「おすすめ、全部ってところだね。提携しているきのみ農家のおやっさんが丹精込めて作ったきのみたちさ」
「それは困りました」
そうすれば、いつの間にか私も同じような仕草をしていたらしく、気がついて恥ずかしくなる。私を見上げるロコンに、誤魔化すように、「どれにしよっか」と声をかければ、かれはこてんと首を倒した。
「苦手なものはあるかい」
ダイゴさんが隣に並び、私に訊ねてくる。すこし背の高い彼を見あおぐと、彼はふと口もとを緩めて、「おまかせって手もあると思ってね」といたずらっ子のように笑った。
「これはこれはダイゴさん! 今日はリーグはお休みで?」
「そうでもないんですがね。なかなかチャレンジャーがやってこないものだから、これを機にホウエンを満喫してみようかと思いまして」
軽く雑談を交わしながら、彼は自然な仕草で「おまかせ」を二つ頼む。店主は有名人に会えたのがうれしかったのか、終始頬を上気させて興奮ぎみにきのみを選んでいた。そつなく会話を運ぶ横顔をそっと眺めていると、彼は視線だけを寄越して、「ん?」とでも言うようにきれいなカーブを描いた眉をちょこんとあげた。
