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 出来あがったミックススムージーを手に、市場から出て海岸沿いの広場に広がるパラソルの下へ向かった。陽射しはあたたかいを通り越して、徐々に強さを増している。もう、夏はすぐそこ。白いテーブルにバゲットサンドやスムージー、それからきのみを広げて、カラフルなパラソルに守られながら海を背景にランチを済ませる。長雨のあとの晴天は、なんともすがすがしいものだった。

 その後は、予定していたとおり「うみのかがくはくぶつかん」へ。大人も子どもも五〇円という破格な値段を支払い、受付を過ぎれば、大地の営みを物語る静けさの中にいざなわれた。海はどこからくるのか、どこへ向かうのか。このほしの中核となるマントルには、実は鉱石のペリドットがその半分以上を占めているとか、水があることで、このほしはうつくしく豊かな大地が栄え、そして、さまざまな種類の鉱石が生まれた――とか。
 彼の口から語られるそのほとんどには、「石」のことが含まれていた。静かに、落ち着いた語り口でことばを繋ぐのに、あの彼の部屋にある「天青石」を語るときのように、言葉が口を突いてするりするりと飛び出てしまうのは、止められないのだろう。「すまない、話しすぎたな」と、恥ずかしそうに苦笑して、彼は私を解放した。それきり、彼は真剣なまなざしで、私から遠ざかることもなく、近づきすぎることもなく、すぐそばで一緒になって、だいちの創造を眺めていた。

 博物館を出たころには、日が傾いていた。夏至に向かって、日に日に明るい時間は長くなる。夜が来るには、まだ時間がありすぎる。しかし、朝を懐かしむにも、遠すぎる。西へ渡る太陽が、カイナの街並みを金色に染め上げて、どこか懐かしく切ない気持ちを心に残していく。夏だから、切なくなるのかもしれない。
 防波堤を歩く私の二、三歩あとを彼がついてくる。今日は風が強いなという呟きに、私ははらりと攫われたワンピースのすそを手で呼び戻す。浜辺では子どもたちが無邪気に遊んでいる姿が見えた。海原には、パラセーリングを楽しんでいる人の姿も。
 ホウエンはいつも穏やかだ。防波堤の先までやってきて、遠くに渡る船を眺めていると、彼が隣にやってきてコンクリートに腰掛けた。脚を海へ投げ出し、「この街は、最高だな」とぽつりとこぼす。それに倣い、私も腰を下ろせば、膝の上にロコンが飛び乗ってきた。あぶないよ、とその背を撫でれば、ダイゴさんはははと声をあげて笑った。
「なにもかも、忘れてしまいそうになるよ」
 彼は、多くの人に慕われている。彼を見かけた人々はみな、幸せそうに彼に声をかけるのだ。ホウエン地方のリーグチャンピオン。それがなんなのか、知らないわけではない。幼いころに親戚のお兄さんと一緒になってのぞき込んでいた小さな画面で、かれらは主人公のたどり着く先にいた。数多のトレーナーたちの憧憬であり、彼らの希望の象徴。そしてかれらは、「主人公である私たち」にとって、越えるべき一つの壁。あのころは、その背後に隠されたものなど、当然考えたこともなかった。
 そうですね、と相づちを返した私に、彼はふと相好を緩め、シャツのポケットからなにかを取り出す。
「……シャボン玉?」
 ピンク色の瓶状の容器に、緑の吹き具。彼がそれを持ち出すにはあまりにファンシーすぎて、その先のことばをなくしてしまった。
「キミが、あのトクサネの家で吹いているのを思い出したんだ」
 吹き具は二つあるからと彼はもう一つを胸元から取りだして、一つを差し出してくる。
「あまりに気だるそうに吹くから、思わず見惚れてしまってね」
「……見惚れた、と、言うのでしょうか、それは」
 それもそうかと彼は一笑して、黄色いふたを開ける。
「シャボン玉なんて、いつぶりだろう」
「子どもでもいなければ、そう吹くものじゃないですよね」
「そう。市場でこれもお願いと言ったら、隣の少年におどろかれたな。ダイゴさんもシャボン玉やるの! ってね。もう何年、何十年ぶりかな」
 何十年は言いすぎではないかと思うが、先に差し出された容器に礼を述べつつ吹き具を挿す。シャボン液を垂らさないよう慎重に口へ運び、ふうと溜め込んだ息を吐いた。風に乗り、シャボン玉は空高くのぼっていく。
「きれいだ」
 隣でつぶやいた彼の、その言葉にそうですねと七色の珠を見上げる。くるりくるりと円を描きながら、眩い太陽の光を浴びて、海原を飛ぶ。ひとつ、ふたつ、彼も吹いたのか、いくつも連なりシャボン玉の道がえがかれる。
「空があおいこと、風が花みたいに甘いこと――」
 ふしぎと、喉のあたりをやわい羽で撫でるようなそんな感覚になる声だった。
「石が太陽にきらめき、ただ呼吸をしているだけで幸せに思うこと。キミは知らなかったと言っていたけれど、きっと、ボクもそうだった」
 彼は、空を見つめながら口にする。
「こんなにも、この街がうつくしく、ただ風に舞うシャボン玉が天使の贈りもののように思えるだなんて、ボクは、ちっともしらなかった。キミに、もっと美しいものがあると言っておきながら」
 そうしてふりむき、自嘲するように肩を揺らした。
「でも、キミをいろんな場所に連れて行きたかったのは、正直な気持ちさ。もっと、見つけてほしかったんだ。この世界の美しいもの、眩しいもの、心を揺さぶって、たまらないもの。……幸せにしたかった。それは、今でも変わらない。そしてこれからも。キミが幸せになること、この先もずっと変わらない、ボクの願いだ」
 父みたいな、兄みたいな、それとも、それらとは全然ちがうまなざしで、声色で。ぽたり、吹き口の先からシャボン液が垂れて、ワンピースにシミを作った。震えるくちびるで、「あなたは、よくわからない」そう口にすれば、彼はたちまちそうだねと笑った。
「ボクにとっては、キミがよくわからなかったよ」
 それは、すっかり澱のこそぎ落とされた顔のようにも思えた。
 ぽたり、またひとつシャボン液が垂れる。彼の手が伸びてきて、そっとそれを預かる。コンクリートに、倒さぬように器用に容器とそれとを並べて、彼は再び、手のひらを差し出す。
「ボクは、ツワブキダイゴ。きみは?」
 突如始まった自己紹介を、どこかうろんに、そしてこそばゆく感じながら。
「……遥子です。遠野遥子」
 私も、その手をとる。握られた手のひらは熱く、彼の鼓動を感じた。「遥子か、いい名前だな」と彼は言って、優しく微笑んだ。まるで、小学生に戻ったみたいな、礼儀正しくて模範的な自己紹介。しかしそれはきっと彼なのだろう。唇を隠す私を、彼は咎めることもなく笑みで受けとめて、次はこう告げた。
「遥子、キミの好きなものを教えてくれるかい」
 好きなもの――そのことばが、じわりと胸にほどけたときには、はっと呼吸が一瞬止まっていた。
 好きなものなど、とくになにもなかった。思えば、私は空っぽの人間だった。「なんだろう」と弱弱しくわらうと、対して彼はみじんも笑わずに訊ねてきた。
「カフェ・オ・レは?」
 ――すき。
「砂糖もミルクもたっぷり、だね?」
 ――うん。
 ぽつりぽつりと、繊細なレースを一目ずつ丁寧に編むように、ゆっくりことばが繋がる。
 トクサネの海、ヒワマキの青いにおい、シダケの灰あつめ、カイナの夕陽。――うん、ボクも好きだ、と。
「ボクはね、このホウエンという土地も、そこに生きる人々や、流れる時の流れ……キミと同じだ。でも、そうだな、特に石が好き」
 ひとりでにうなずいたあと、照れくさそうに目を細めて。
「……知ってます」
 私がそう言えば、「そっか」と、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。ぎゅうぎゅうと固く身体を縛りつけていたものがほどけていく。ゆるやかに血がめぐり、太陽の光の中に隠された風の冷たささえも敏感に感じとれる気がしてしまう。ふっと吹き出し肩をゆらす私を、丸い目でロコンは見上げた。その頭をそっと撫でて、おかしいね、私はわらう。
「もっと、好きなものを見つけにいこうか」
 立ち上がった彼のその誘いに、銀の指環に触れるように手を伸ばす。
「帰ることが、辛くなるかもしれません」
 彼はやわらかく目を細め、わずかに呼吸を止めてから幼子をなだめるような落ち着き払った低い声で言った。
「向こうでも、同じように好きなものを探せばいい。ひとつずつ増やしていけばきっと、辛いことなんていつか忘れてしまうから」

 ――ヒワマキを出たのは、翌日のことであった。