「あの子、ここを通っていったわよ」
声をかけてきたのは度々世話になっていたカフェのマスターであった。営業時間をとうに過ぎて、至福のひとときとばかりに一服していたのだろう。軒先にやってきたチリーンの音がやわらかに響く。それを風流にも聴きながらひと昔前のカロス映画にでも出てくるような風体で指先のタバコを吸っていた。
「ありがとうございます」と告げてダイゴは通り過ぎようとしたが、雨の中で足を止めてチリーンを見上げた。
「どのくらい前だか、わかりますか」
「そうね、一時間くらい前かしら。それから戻ってきてないわよ」
「そうですか」
ときおり細やかな飛沫を浴びながらもチリーンは心地よさそうに身を左右に振って音を奏でている。今でも、手を伸ばした先からすり抜けていってしまうだろうか。
「追いかけないの?」
感傷に浸るダイゴに、マスターは煙をくゆらせながら訊ねる。
「……追いかけます」
「そう? なら、早く行ったほうがいいとおもうけど」
「でも、すこしだけ、ひとりにしたほうが彼女にとってはありがたいかもしれないな」
こんな夜更けに女性が一人で出歩くのは、比較的治安の良いヒワマキであっても、あまり褒められたことではない。一歩町の外へ出れば野生のポケモンたちの棲み処がそこかしこにあるし、夜のポケモンを求めてやってくるトレーナーたちだっている。しばらく暮らしたとはいえ、彼女はこの土地に明るくないのだから、本当はすぐにでも探しに行くべきであった。
けれど、行ってもいいものかと踏みとどまる自分がいた。
「チャンピオンも、怖気付くことがあるんだね」
そうですね、とダイゴは苦笑した。
「……こんなにも怖いのはいつぶりだろうな」
口に出すとすんなりと感情が転がり落ちて、胸にはまり込んだ気がする。
彼女を想っているというより、自分はまた拒絶されることを恐れている。手を伸ばして、振り払われる瞬間のあの痛みを二度と味わいたくないと思っている。
「恋は駆け引きが大事なんて言うけれど」
紫煙を吐き出しながら、彼女はしめやかな夜の景色を眺める。ぽつりぽつりと灯る明かりは雨に滲み、シャンデラの放つあえかな光のようでもあった。
やはり彼女は瀟洒なアパルトマンの窓辺に佇み、プリズムタワーを眺めるような仕草でゆったりと口にする。
「本当に愛していたら、そんなことできない。だって、その人のことでいっぱいになっちゃうもの」
恋と愛のちがいは、なんなのか。恋を知らないほど、うぶな男でもない。けれど、その向こうにあるものを、堂々と語れるほど玄人でもない。
「真の愛は男を臆病にし、女を大胆にする。だれの言葉だったか忘れたけれど、でも、男とか女とか関係なしに、きっとみんなそう。臆病にもなるし、大胆にもなる。自分じゃ制御できないくらいに……」
彼女はタバコの灰をそばに置いた灰皿の中へ落とした。
「カノジョ、戻ってくるといいね」
恋人同士ではない。昼間のダイゴであれば丁寧にそう説明したかもしれない。しかし、そんなこと今この瞬間にはささいなことであった。
憂いを帯びた唇から紡がれた言葉に、ダイゴは目の裏が炙られる気がした。胸の奥がじりりと疼き、喉もとになにかが込み上げてきた。
――戻って、こないかもしれない。そうだ、戻ってくる確証など、どこにもない。ひとりにしたほうがいいなどと、なぜ自分のもとへ帰ってくる気でいられたのだろうか。
ダイゴは奥歯を食いしばりそうになり、できるかぎりゆっくり深呼吸をした。肺を満たしていた空気をすべて吐き出したとき、それでも指先までに至るあらゆる細胞が、沸き立っている感覚が離れてはくれなかった。
ありがとうございました、と丁寧に告げてダイゴは雨の中を町の出口へ向けて歩き出した。しとしととふりそそぐ雨が、傘を打ちつけた。ときおり風が吹いて頬や肩が濡れるが、彼は厭わずツリーハウスの上を進んでいった。
初めはゆったりとした歩みだったが、次第に早足になり、彼はマスターから言われた方向とは真逆に町を進み、ポケモンセンターの先の119ばんどうろまで向かっていた。そして、夜に灯る明かりの残光が消えたところで、彼は傘を手放して濡れた草むらへ分け入った。
手がかりはただひとつ、自分の記憶と勘だけだ。しかし、朝から十二時間以上は経っている。あの子がまだここにいる望みは薄い。それでも、ダイゴはひたすら探して回った。
身に覚えがある場所は、すべて辿るつもりだった。晴れの朝、ヒワマキから出て散歩した日のこと。雨の夜、あの子を抱きながら低空飛行でここへ帰ってきたこと。空を移動する手段はないはずだから、向かうとしてもキンセツシティの手前までだ。118ばんどうろの先は海である。夜は渡りの船も出ていないから、きっと、辿り着けてもそこまでだ。そうであってほしいと願っていた。
ヒワマキ一帯に降り続いていた雨は、119ばんどうろにやってきて霧雨に変わった。しかし地面は長く続いた雨にぬかるみ、足を動かすたびに泥が跳ね、ダイゴのズボンやシャツを汚していった。
草むらという草むらに踏み入っては草を分け、時には薮を掻き分け辺りを探す。木のうろがあれば、ナゾノクサがいようが身を乗り出してのぞきこんだ。しかしやはり、ひとつ尾のロコンはどこにも見当たらなかった。
天気研究所の常夜灯が鈍く辺りを照らす中、呆然と立ち尽くして鬱蒼と茂る森を見つめる。細雨に打たれながらダイゴは思っていた。それもそうだ、と。朝から何時間も経っている上に、人間が思うよりも密林ははるかに続く。その中を、一匹のロコンを探すのはヒンバスを釣り上げるよりも難しい。
小さな雨の粒がいくつも重なって、肩にのしかかっていた。自分のしたことの重さに比べたら、これは軽すぎる。髪は濡れてすっかり額に張り付いていた。髪だけではなく、シャツやズボンもその下の皮膚を浮かび上がらせるように、水を吸って力をなく肌に張り付いていた。足もとや膝、腕、あらゆる布が茶色く染まり、爪のあいだには泥が詰まっていた。汚れることには慣れている。だが、おそらくかつてないほど、チャンピオンなどという肩書きからは程遠い姿だった。
しかし彼は額を汚れた手のひらで拭うと、ふたたび草むらに分け入ろうとした。
「チャンピオン?」
昏闇のさなか、背後から彼を呼ぶ声があった。うろんに振り向くと、まず飛び込んだのは閃光だ。闇に慣れていた目を灼くように、投げつけられたのは懐中電灯の明かりだった。
あまりの痛烈な光に手で視界を遮る。すみませんと言う声がすぐに届き、明かりはダイゴの視線から逸らされた。太陽のようにチカチカとまぶたの裏にこびりついた残光が次第にこそげ落ちて、ようやく男の姿が見えた。紺色のビニール製のレインコートに、その下には白衣が見える。右肩のあたりには、あまみずフォルムのポワルンが浮かんでいた。おそらく、天気研究所の職員だ。
「こんな時間に、どうかなさいましたか?」
ダイゴは答えるが迷ったが、今一度濡れた顔を手のひらで撫でつけると、「ロコンを見ませんでしたか」と訊ねた。
「ロコン?」
「ええ、まだ生まれてさほど時間は経っていないんです。二週間か三週間か、それくらいです」
「はぐれてしまったのですか?」
「……いえ」深呼吸とともに、口にする。
「ボクが手放してしまったんです。人として、あるまじき行為だった」
なぜ、あんなことをしてしまったのかという問いは必要がない。今更自分の行動を弁解する余地などないからだ。もはや事実しか手のひらには残らない。ロコンを逃がしたという、紛れもない事実。
「……すみません。ボクはこれで」
「待って」
重たいまぶたを持ち上げれば、目の前の彼はレインコートを脱ぎ、その肩に背負っていたリュックをおろした。
そこから顔を出したのは、ロコンだった。開いたままだったリュックの中から、つぶらな瞳でダイゴを見つめている。
「見つけたのは、夕方です。この先の薮にひそんでおりまして」
ダイゴがおそるおそる手を伸ばすと、彼はきつく威嚇をしてその指先を噛んだ。ちくりと痛みが走った。
「あ、ああ、なんてこと!」
「……構いません」
子ども特有の小さくて鋭角な歯が皮膚に食い込む。
「思う存分、やってくれ」とダイゴは言った。
「ボクは最低な人間だから。痛みを知るべきだ」
しかし、ロコンはじっとダイゴを見つめていた。じりりと指先を締めつける圧迫感が離れ、やがて小さな舌がやさしく指を舐めた。
驚くほど鈍っていた触覚が、ようやく戻ってきたようだった。ロコンの下はあたたかく、そしてかすかにザラついている。研究員の男が懐中電灯で照らすと、指にはくっきりと歯型がついていた。血も滲んでいたようだが、それをロコンが懸命に舐めとっていた。
「……ごめん。怖かっただろう、寒かっただろう、寂しかっただろう。本当に、すまないことをした」
こそばゆさに似た感覚とともに、胸がどうしようもなく圧迫され、吐息が揺れた。目の奥がひのこでも放たれたかのように熱をもっていた。
「ごめん」
ダイゴを見上げる黒曜の瞳に、光がぐるりとめぐる。
「……いっしょに、迎えに行ってくれるかい」
またひとつ指先を舐めたあと、ロコンはリュックから這い出てそれから今度は頭を突っ込んだ。口に咥えて中から取り出したのは、青くて丸いきのみだった。
「ああ、薮の中で見つけたときから、ずっと抱えて離さないんですよ」
ロコンはオレンの実を指先に押しつけて、ダイゴを見上げてくる。黒くて丸くてまっすぐな瞳に、ダイゴはその実を受けとった。それは、彼女が何度もロコンにあげていたきのみだった。
「ヨウコを、迎えに行こう」
研究員たちと分かれたあと、ダイゴとロコンはメタグロスで夜空に飛び立った。まだ雨は降り続いていたが、ロコンを濡らさぬように自分の胸に抱きかかえて、ヒワマキの上空を突っ切った。
生い茂る緑を――今は鬱蒼と続く昏闇を通り過ぎて、ダイゴたちは120ばんどうろにやってきた。洞窟をふさぐ大きな岩戸は池の上で露に濡れ輝いている。雨足は弱まり、やがて水が尽きたように雲のあいだに月があらわれた。月だけではない、ホウエンを見守る幾千の星々……。
いつか、ここを旅したときのことを思いかえす。あの空はどこへ繋がるのだろう、この星たちはどこからくるのだろう。宇宙で燃えるその星の光はどこまで届くのだろう、そんなふうに思ったときのことを。空を見上げるだけではなく、至るところに星は散らばり、彼を囲んでいた。
そうだ。いくら立ち止まったとしても、下を向いて歩いたとしても、ここでは――このホウエンでは、いつか必ず光を見つけられる。
「――遥子」
ダイゴは手を伸ばす。そして、この先何度だってそうするだろう。
「――――……」
だって、彼女を愛してしまったのだから。
どうしようもなく、苦しいほどに、愛しくなってしまったのだから。
ふり向いた小さな宇宙の中で、ひとつ、星が流れた。
