3-1

 抱き上げた体は小さく、少しでも力を込めれば壊れてしまいそうだった。その感覚が、いまでも腕に残っている。
 ソファの上に敷いた毛布の上で、体を丸めるロコンの背をそっと撫でながら、私は昼間のことを思い返していた。草むらにうずくまっていた小さな体。可哀想に、その体は震えていて、鳴き声は今にも途切れてしまいそうなほど弱々しかった。それでも、「たすけて」と聞こえたその声が、その子のもとへと連れていってくれたのだ。

 シダケタウンに向かう予定は見事崩れ、長いことポケモンセンターに篭りきりだった。雨はとうにあがっていたというのに、ずっと雨の中に閉じ込められたような心地だったかもしれない。扉の向こうで静かにくり返される話し声を聴きながら、ガラスケース越しに治療を受けるこの子のことを見つめていた。一つ尾のキツネのような愛らしいポケモン。産まれたばかりだろう、とダイゴさんは言っていた。きっと、産まれてまもなく棄てられたのだ、と。
 犬や猫みたいだとおもった。気に食わなかったら、手に余ったら、人間の自分勝手な都合で簡単に手放す。命があるというのに、まるでアクセサリーのようにぞんざいに扱う。そんな人間が、少なからずいるのだと彼は呵責をその瞳の奥に抱え込みながら口にした。チャンピオンとしての責務、トレーナーとしての矜持、人としての尊厳。やるせない彼の声が胸を貫くようだった。そのたび、腕にあの子の軽さが蘇った。まるで存在していないのではないかと思うほど、空気なんじゃないかと思うほど、あまりにも軽すぎるから消えてしまうのではないかと感じてならなかった、軽さ。一度触れたぬくもりが簡単に冷えていくことを想像して、私は心底恐ろしくなった。こわかった。かなしかった。どうして人間の傲慢な振る舞いのために、この子がそんな思いをしなくてはならないのだろうと、まぶたを下ろしたままの小さないのちの姿を見て、苦しくなった。
 放っておけたらよかったのに、そのままジョーイさんに預けていけばよかったのに、それだのに、そばを離れることはできなかった。――こわかったのだ。
 菱形にくりぬかれた窓の向こうにはすっかり宵の景色が宿っている。聴き慣れた雨音はなく、静かな夜だった。珍しいことに、ツリータウンも湿気を削ぎ落とし、いつもより鮮やかにポケモンたちの声を響かせていた。
「すっかり落ち着いたようだね」
 シャワーを浴びた彼がリビングへ戻ってきた。リネンのシャツ姿で、タオルを首にかけ髪の毛を乱雑に拭っている。その仕草は普段の彼よりも幾分も男らしい。
「教えていただいたとおり、モーモーミルクをあたためて哺乳瓶であげてみたんです」
 咄嗟に視線を逸らして――不自然ではなかっただろうか――もう一度ロコンの背をそっと撫でる。やわらかな毛並みだった。
「ああ、飲んでくれたかい」
「すこしずつでしたけど、半分は」
 ラグの上に置かれた哺乳瓶を見て彼はまなじりを緩める。
「まだほんのおさない子どもだね」
 その量はミルクを飲み慣れない人間の赤児が口にするものと同じくらいだった。しかしツリーハウスへやってきて、長らくピィピィと喉を鳴らして警戒していたその子が飲むにはじゅうぶんの量だった。
「かわいいな」と、心から吐息がこぼれたような声で彼は言う。その顔はとても優しい。不意に胸を締め付けられる心地がして、私は収まり悪く視線を逃がす。
「ごめんなさい、勝手にこの子を引き取るって決めて」
 軽くて、重い。この子の感触をまざまざと思い出しながら、そっと毛並みに沿って手を動かす。
「どうして」と彼はすぐそばの丸太椅子に座って言った。髪がまだしっとりと濡れている。
「私はとても責任を持てる人間じゃないのに」
 だって、いつか私は帰らなくてはならない。もしかしたら戻れないかもしれないけれど、できれば、そうはならないほうがいいと漠然と思う。それが、私自身の願いかどうかは置いておいて。私の言葉に、「そうかな」と彼は口にした。おもむろに顔をあげると、端正な顔立ちがやわらかに崩れておりしずかに胸が軋んだ。
「キミは、とても責任感があって、思いやりに溢れているとおもうよ。ボクがキミを見つけた日から、きょうまで、キミが不誠実だった瞬間はない。一度もね」
 はじめて会った日、彼が私に向けたあの視線のほうが、よっぽどマシだった。目の前にいる人間を敵だと認識し、踏み込むことも踏み込ませることもしない、冷ややかな視線。落ち着いた、というよりも、極端に色のない尖ったガラスのような瞳だった。彼の場合、はがねのほうが似合うだろうか。とにかく、私はそのほうがよかったとさえ、思っていた。
 心臓のあたりがむずついて、おかしくなりそうで、目の裏が熱くなる。ふと涙が溶けてこぼれそうで、私は唇を舐める。
 手のひらのこの子を放っておけなかったのは、この子が私と一緒でひとりだったから。棄てられた子だったから。……ひとりに、なりたくなかったから。
 目の前に彼がいるというのに、私はなんてことを。でも、私はこの人が怖くてたまらない。この人を頼って、いつか自分がまた棄てられるのではないかと思うと、その手の温もりを、瞳の優しさを知るのが、おそろしい。……そこまで思い至って、めまいがした。
「買い被りすぎですよ」
 そう言いながら、ふと顔を上げたロコンの顎を撫でる。
「起こしちゃった?」
 その子はきゅうんと小さく喉を鳴らした。もの欲しそうに――ううん、寂しそうに私を見上げるから、腕を伸ばして心臓の音を聴かせるように胸に抱いた。落ち着かないそこに、すっぽりとぬくもりが収まった。
 潰さぬよう抱きしめ、ゆっくりとその背をさすりブランケットで包み込んであげる。
「ヨウコ」
 彼の声に、顔をあげた。プラチナの瞳が私を射貫いた。だが、すぐに、「……いや」と彼は小さく前髪を額へ落とした。
「すまない、なんでもないんだ。それより、そのままだと疲れるだろうから、今日はもうベッドに上がってくれて構わない。後片付けはボクがしておくから」
 私は、腕の中のロコンを眺めてから、かぶりを振る。
「ロフトは、危ないので、ここで寝ようと思うんです」
 今度飛んできたのは、きょとんという顔だ。
「ここで?」
「はい。寝ているあいだに起きて、落ちてしまったら、怖いですから。それに、ロフトはまだ慣れてないでしょうし」
 ポケモンという生物の扱い方を私は知らない。犬のようなのか、人間の赤ん坊のようなのか、なにが正しいのかさえ。だが、できるかぎりの配慮をしたところで無駄ではないはずだ。
 そんなことをしたら、とダイゴさんは言う。
「キミが疲れてしまうよ」
 お世辞にも、夜通し過ごすには最適とはいえないソファをちらと一瞥して。
「大丈夫です、こう見えて頑丈ですから」
 どうかな、彼はおかしそうに笑った。つい今しがた、硬質な表情を浮かべたのに、その顔は降参の合図だった。
「では、こうしよう。ブランケットとシーツを持ち寄って、今日はここでキャンプをする」
「……キャンプ?」
「そう、といっても、擬似キャンプだけれどね。二人で一緒にその子を見てあげれば、交互に休みがとれるだろう?」
 そんないきなり、と戸惑いが喉もとにせりあがるが、思い立ったら早い人だ。彼は私の返事を待たずに口角をかすかにつり上げると、大人びた少年の顔をして、待っていて、と寝室へ向かった。