ガラスケースの向こうには、小さな体が力なくベッドの上に横たわっている。尾もまだ一本しか生えておらず、毛も生え揃っていない。おそらく生まれたばかりのロコンだ。
「はい」
ベンチに茫然と座り込んだ彼女にダイゴは缶ジュースを差し出す。自分にはコーヒーを、彼女にはロイヤルミルクティーを。見上げる瞳にはまだ動揺と不安の色が色濃く残っている。
ありがとうごさいます、と受け取って、彼女はそれを開けることなく、両手で包み込んだ。
「少し時間がかかるけれど、きっと回復するってジョーイさんが」
そこではじめて、呼吸を思い出したように彼女は小さく息をついた。
「よかった」
「あと少し遅れていたらどうなっていたことか。キミが気づいてくれて、助かったよ」
そんなことは、と彼女は弱々しくかぶりを振る。
「運んであげることしか、できませんでしたし」
雨上がりの草むらで見つけたのは、このロコンだった。息が遠のいているのもあり、急いで近くのポケモンセンターへ連れてきたのだ。
膝ほどまで伸びた草の間でうずくまり小さく鳴き声をあげている姿を思い出す。ポケモンは人間の言葉をしゃべれない。しかし、その呼び声はどこか、「助けて」と言っているように聞こえた。
白いブラウスが汚れるのも厭わず、彼女はそっとその子を抱き上げた。まるで赤子を抱くように、しかしその瞬間の必死な、悲痛な表情をおぼえている。
「それでも、あの子は救われたよ」
今なお憔悴に近い顔つきの彼女に言って、「隣、座ってもいいかい」とダイゴは訊ねる。彼女は、こっくりうなずいた。
昼下がりだというのに、特別治療室の前は静寂に取り残されたままだった。缶コーヒーのプルタブを引っ張ると、その音があたりに嫌というほど響き渡った。
「あの子は、どうしてあんなところにいたのでしょう」
ぽつりと聞こえてきたのはそんな言葉だ。彼女はいまだミルクティーに口をつけてはいない。それはおろか開けてすらいないのだ。見ると、指先がかすかに震えていた。ひとりじゃ、開けられないのだ。ダイゴは質問に答えるまえにその小刻みに顫動する手を左手で包み、その手から缶を奪った。そうして自分の缶はこぼさぬようすぐ傍に起き、プルを引いた。またしても音が響いた。
「自然の摂理、と言いたいところだけれど、ロコンの生息地とはかけ離れている」
「……と、いうと」
はい、とダイゴは缶をかえす。彼女はそれを見て小さく礼を述べたがすぐにダイゴをまっすぐ見つめた。ダイゴは喉の疼きを感じながら、気づかぬふりをして息をついた。
「おそらく、生後まもなく棄てられたんだろうね」
彼女は一度はっきりまばたいた。驚きより、悲しみのほうが勝っていたかもしれない。室内灯によって、いつもより暗く見える瞳の奥にひとつ光がまみえる。「そんな……」やるせなさが声ににじんでいた。
「よく、あることさ」
手にしたポケモンを持て余し手放すこともあれば、深い事情があって離れなければならない場合もある。その理由はさまざまだ。だが、単に気に食わないから、思っていたのとちがうから、という勝手極まりない理由から、ポケモンを棄てる人間も少なくはない。
とくに、あの近くにはポケモンを繁殖させられる場所もある。たまごを孵して、すぐ、あのロコンは棄てられたのだろう。でなければ、まっすぐ一つ尾のロコンを見ることはかなわない。
半ば苦悶に似た表情を浮かべている彼女に眉をさげると、「ここ数年のリーグの課題でね」とダイゴはコーヒーに口をつけた。
「年々、トレーナーの質が上がっている。もちろんそれは強さとしての質であり、これまで一つ目のジムを突破できない挑戦者が一定数いたのに比べて、近年はほぼゼロに近い。三つ、四つとバッジを獲得し、その中でチャンピオンロードまで挑む者も増えてきている」
喜ばしいことだ。だが、強さを求めるあまり、その代償は大きい。
「この世界は、ポケモンにとっては酷なのかもしれない。……いや、ボクたちがそうしてしまったのだろうね」
彼にしてはめずらしく、弱々しく自嘲したダイゴにヨウコはなにも言わなかった。言えなかったのかもしれない。
ホウエンチャンピオンとして、リーグを背負う大人として、そして一人のトレーナーとして、彼がポケモンを初めて手にしひたすら目を輝かせていたころから目まぐるしく移り変わる世界の中でどう歩んでいったらいいのか。それを彼は心得ている。彼自身そう自負しているところがある。しかしいくら彼が先陣切って前を歩んだとして、世界はよりよくなるどころかより複雑化し絡んだ糸のほどけない状態になりつつある。進化は破壊か。破壊が進化か。
「でも、あなたたちはここで生きてる」
笑うのをやめてふとふり向くと、ヨウコの瞳とかちあった。いつものリフレクターのように薄く頑丈な壁を取り払い、包み込んでくれるような色と温度がそこにあった。
「ポケモンも、ひとも」
彼女はたどたどしく、しかし確りと言葉をつなげていく。
「あの子の、残したぬくもりが、手から離れません」
その手はまだ震えていた。生命の重さを知る手だった。今にもその手からすり抜けていきそうな缶を、あるいはなにかを支えるようにダイゴは手を重ねようとした。それでも、思い止まり、手の中のミルクティーだけを預かった。
「ヨウコはいいトレーナーになるだろうね」
彼女は不思議そうな顔をした。いや、どちらかというとかなり怪訝そうだった。ダイゴはその視線を丸めこむように小さくわらうと、
「現チャンピオンの勘さ。強さでも逞しさでもない、本来トレーナーのあるべき姿として」
そう言って視線をもたげた。治療中のランプが落ちたのはそのときだった。隣で息をのむ音が聴こえ、一瞬のうちに空気がはりつめた。中からジョーイさんとラッキーが診察台ごと廊下へ出てくる。
「すっかりよくなりましたよ」
今度は安堵の息が洩れるかと思いきや、彼女はまだ呼吸をとめたままだった。おそるおそる一つ尾のロコンへ手を伸ばし、その背を撫でる。おもむろに顔を上げたその子の瞳のきらめきを確かめ、ようやく水面に顔を出したように呼吸を再開した。白い手が、震える手がその子を抱き上げ、ガラスを扱う手で抱きしめる。
「どうしようか、ミシロタウンにポケモン研究所があるから、そこに連れていってもいいし」
そこまで言って、最後まで言う必要はないな、とダイゴは眉をさげた。華奢な腕の中で、ロコンが澄んだ瞳で彼女を見上げていた。彼女もまた潤んだ丸い目でその子を見つめ返していた。
