それからまた繰り返しの日々だった。
朝起きて、ジョーイさんに挨拶をしてバイト先へ向かう。通勤ラッシュの電車に乗る必要はないから、ゆったりとした足取りで散歩がてら海岸線を目指す。朝焼けのトクサネはきれいだ。そこかしこが淡く黄色く瞬き、一日のあるいは世界の始まりを彩る。バイト先についたら真っ赤なエプロンをつけて、溌剌とした店主や女将さんたちに迎え入れられながら息つく間もなく仕事へ。
日が昇ったばかりでのれんは上がってないことも多いが、すでに、漁から戻った人たちでちらほらと席は埋まっていることがほとんどだ。できた料理を運んで、水を注いで、綺麗になったお皿をさげて、テーブルを拭いて、暇ができたはお店の前を掃き掃除。海辺ともあって、気を抜くと砂まみれ、潮まみれになってしまう。
掃除のあいだは、マングローブへ向かうそっくりなふたごを見送って、麦わら帽子の少年に相棒のジグザグマを見せてもらったり、綺麗なかいがらを貰ったり、はたまたお店で売っているアイスキャンディーを二本買って一緒に食べたり。
いつのまにか、シャボン玉の少女も加わって、ひとりだったのがふたりになり、三人、四人……皆、お昼を食べにやがて戻る。
「ヨウコちゃん、ミナモシティに行くんだって?」
昼どき、仕事に戻った私に訊ねてきたのは、常連客のおじさんだった。焦茶色に焼けた肌は海の男らしさを示し、それとはうらはらに白い歯が爽やかな印象を与える。
屈強そうな見た目と低くしゃがれた声から初めて見た時は粗暴そうに思えたが、彼の相棒は桃色の愛らしいサンゴポケモンのサニーゴで、サニーちゃんと呼んでいる。
「ええ、次の定期便で向かう予定なんです」
やや鄙びたテーブルの上、汗をかいたグラスにたっぷり冷水をそそぎながら私は答える。
「次っつったら、まだ一週間あるじゃねぇか」
そうですね、と微笑みながら、足もとのサニーちゃんにはポケフーズの入ったお皿を。彼女はよほどお腹を空かせていたのか、たっぷり目を輝かせたあと勢いよく飛びついてきた。
「あっ、オイ、サニーちゃんお行儀よくしねえとダメだって」
メッと窘める姿に思わず眉がさがる。この街はあたたかい。風も、太陽も、人も、ポケモンも。さりげない景色も美しく思えてしまう。
満たされたグラスのふちに射しこんだ太陽の光が反射してきらりと瞬く。
「ねえ、おじさん、写真撮ってもいいかな」
写真? と訝る様子を見せたが、すぐに彼は仕方ねえな、と頬をだらしなく緩めて来ていたシャツや髪を整え始めた。
エプロンに忍ばせていたインスタントカメラを取り出して、フィルムを巻く。口のまわりをポケフーズだらけにしたサニーちゃんを抱いた彼をレンズ越しに眺めると、シャッターを切った。カシャン、と小気味いい音が響いて、心に一枚また蓋を重ねた。
「でも、ミナモに買い物に行くんならオレが船出してやろうか? 豪華客船には負けるけどよ、案外乗り心地悪くねぇんだぜ、なぁ母ちゃん」
厨房から顔を出した女将さんへ目配せをした彼に、私はかぶりを振る。
「ありがとう、でも、まだここにいたいから」
――わからない。けれど、なぜか自然とこぼれた言葉だった。
きょとんとしていたおじさんが、要領を得てなるほどなとどこか残念そうにうなずく。寂しくなるねェと言いながら女将さんが出来立ての焼肉定食屋をカウンターに出す。それを受け取って、「そうですね」答えながら仕事に戻った。
その日は仕事終わりに浜辺に寄った。砂が入るからとかかとが擦り減り始めたパンプスを脱いで、さくさくと砂を踏みしめる。やがて手にしていたそれを落として、ポシェットの中からトレーナーズカードを取りだした。笑みすら浮かべずこちらを見つめる「トオノヨウコ」の写真。それが、この世界での存在証明だ。
このカード一枚でポケモンセンターにも無料で泊まれるし、職にだってありつける。これがあればこの世界で生きていける。
どこまで?
風が、波が囁く。
どこまで生きるの――?
ふと呼ばれるように波打ち際に歩んだ。冷やりとした感触が足を包んだ。寄せては返すさざなみに、押して、引かれ、沖へ向けてゆっくり歩いていく。
地平線は遥か遠く、世界は広い。
――うつくしいものは、まだまだあるからね
甘く低い声が耳の裏を撫でる。それを、見てみたい気もした。否、私はそれを見てみたいのだ。好きなものを好きと、嫌なことは嫌だと、感じる豊かな心がほしかった。取り戻したかった。
空っぽの抜け殻の、ただの容れ物の私を満たしたくなっていた。
「お礼、しなくちゃな」
トレーナーズカードを握りしめて、ザブザブと波に立ち向かう。
遠くに船が見える。遥か地平線、目映き烈日の光。沈みゆく太陽へ向かい、海原へ漕ぎいでていく。あの船に、私も乗るのだ。
ポシェットの中に忍ばせた琥珀を取り出して、夕陽に翳す。燃えるような大地がそこにある。
トクサネが、好きだ。いつのまにか、そう思うようになっていた。あらゆる恵みを与えてくれるこの島が、寄り添ってくれるこの島が、大好きだ。いつか私は、この島になにかを返せるのだろうか。
不確かなものを抱え、ぐらりと波に足を取られそうになる。足首までの水が、いつのまにかふくらはぎまで上がってきていた。ワンピースのすそが触れる、ほのあわいを波が掠める。
「――ヨウコ!」
――私は、やおら振り返る。
