トクサネでの新たな生活は、思い描いていたよりも順風満帆に進んでいる。
朝、ポケモンセンターで目を覚まし、それから海辺の定食屋へ向かう。主にその往復だが、働いているというのは存外悪くないもので、だれも、なにも知らないただの女から、アルバイトのトオノヨウコという身分を私はどこかで気に入っていた。
やることもないから日がな一日働いて、終わればポケモンセンターへ歩き慣れた道を辿る。ときおり、お使いを頼まれ街中へ向かいビニール袋片手に戻るなどのイレギュラーな用事が加わることもあるが、ほぼ同じことの繰り返しだ。
だが、この世界に来たばかりの私にとっては、それほどありがたいことはなかった。
トクサネを出るまではあと数日。ここに来たのが、五月の初めだから船に乗りミナモシティに着く頃には、新たな月を迎える。
本当は、定期船が出るのは昨日の予定だった。けれど、波が高いからと欠航になり、また一週間待たなければならなかった。少しだけ焦燥をおぼえたのはたしかで、数える日々が多くなりそのぶんもどかしさが募った。
それはきっとすべてが思い通りに進むと疑わない現代的思考のひとつだった、とも思う。けれど、結局、資金集めにはちょうどよかった。
船を待ち侘びる間にも陽射しは刻一刻と強くなり、風もぬるむ。相変わらず、こちらへ来た手がかりや戻る予兆などは一切なく平穏な日々が続いている。夢であったらと思ったが、ここまで来たら夢ではないのが確かだろう。
どこにも寄りかかる場所がないのは、寂しいことかもしれない。だが、それがかえって酷く楽であった。だって、これ以上傷つかずに済むから。
この日も、バイトを終えてポケモンセンターへの道のりを辿っていた。定食屋からポケモンセンターまでは歩いて十分ほど。聳え立つトクサネ宇宙センターを眺めながら繁華街を抜ける。
春から夏に季節が移り変わったこともあり、夕刻とあっても辺りは明るい。色とりどりのハイビスカスがそこかしこに咲き、かすかに甘いにおいがする。のんびりと青色の薄まった空を眺めながら歩いていると、風に遊ぶキャモメたちの向こうに流線美しい大きな影が横切った。
鳥のような形の、はがね色に瞬くなにか。真っ直ぐポケモンセンターに戻るはずが、気がつけば来た道を戻り、それから海岸沿いに島をぐるりと回るように歩きだしていた。
平坦だった道のりがやがて緩やかな勾配を示す。夕陽は強まり、空はほのかに白んだ撫子色に染まって、海と空の境目が昼間よりも鮮明に見える。だが、あまりに強い陽射しにそのどちらもが溶けて見えてしまう。魔物が手をこまねき始める、逢魔時。今日も一日の終わりへ向けて、空が奔る。
しばらく勾配を上がったところで、いつか見た岩礁にやってきた。小高い丘の上、白いガードレールの先は海。岩肌にぶつかり、白波を立て、還ってゆく。目映い陽射しが辺りを、私を照らし、地面に大きな影を作る。それが、あの日の景色に似ているように思えた。
カイナで観光をした日、私は彼の言葉を遮って、それはおろか厚意さえも切り刻んで、出て行くことを決めた。いつかはそうしなければいけないと思っていた。だが、それはその瞬間ではないと、少なからずシャボン玉を吹かしていたときの私は考えていた。
だというのに、全身に光を浴びた彼を、すべてを手にし与え得る彼を見ていたら、途端に逃げ出してしまいたくなってしまった。
――小さいころ、親父に連れてきてもらってね
そう言う彼の声をおぼえている。風にそっと揺蕩い、耳を包む優しい声だった。すべてに満ちていた声だった。
私はその「すべて」を知らない。彼を、知らない。だというのに、そんなふうに与えられたら、差し出さねばならない。
私には、なにもないのに。なにも彼に与えてあげられないのに。私がどんなふうに生きてきたのか、その日々を思うと彼のもとにいるのがどうしても辛かった。
海面から風が吹き上がる。潮風は甘い。この匂いにも疾うに慣れてしまった。
ミナモシティに沈む夕陽は烈しいほどに視線を奪っていく。灼熱の温度で、はたまた体を抱きしめたくなるような冷たさで。
「あ、ヨウコちゃんだ!」
陽気な声が飛んできて、振り返る。斜面を登ってきたのは以前シャボン玉をくれた女の子だった。母親に手を引かれて、おうい、とひと跳ねする。忽ち母親が「ちゃんじゃないでしょ」と窘めて、頭をさげる。
「ヨウコちゃんこれあげる」
買い物をしてきた帰りだと言った。彼女はふわふわのワンピースを風に遊ばせながら、母親の手にする買い物袋の中から蛍光ピンクとイエローの小さな容器を差し出してきた。
「シャボン玉、またくれるの?」
幼稚な色合いは、懐かしい。そして、その明るさが心を撫でる。しゃがみ込んで受け取ると、小さな頭がこくんと上下に揺れた。
「ダイゴおにいちゃんがね、ヨウコちゃんはとっても喜んでいたよって教えてくれたんだ」
「ダイゴ、さんが……」
「うん! だからあたし、いっぱいシャボン玉買ったの! 今日はおそいから、今度は一緒にやろうねぇ」
私は、ひとりになりたかった。そのはずなのに、温もりを求めてしまうのは、なぜなのだろう。
大きく手を振り、ぴょんぴょんとうさぎのように跳ねながら家路へと戻る少女とそれを見守り丁寧に会釈をする母親の影が伸びていく。ぴったり寄り添い合うように重なって、どこまでも続く。それを見つめて、私も、小さく手をふり返す。
やがて残ったのは、黒々とした自らの影と、朽ち木のベンチと。ハイビスカスのつぼみがひっそりと迫る影に隠れている。振り切るように背を向け、私は丘を降りた。
