トオノヨウコという人間は、おおよそ自分がこれまで接してきたどの種類の人間にも属さない。よく言えばミステリアス、悪く言えば理解ができない。
この世界の人間ではないと告げるその横顔の寂寞は理解ができるのに、かと思えば、たおやかに笑って見せたり。彼女がこれまで過ごしてきた時間やあらゆる空間、それから、なにを考え生きてきたのか、あるいはなにを考えて生きているのか、彼の想像を軽く、そう、軽すぎるほどに裏切っていく。
そして、それが彼の中のあらゆる衝動を掻き立てることを、彼女、そしてダイゴ自身、よく理解していなかった。ある日突然目の前に現れたときから、今日に至るまで、ずっとそうだ。
シルエットだけが壁に映っていて、かろうじてそこに人間がいると脳が理解する。だが実際に手でふれようとすると、実体はそこにはないため結局正体はわからない。
小さな頃、偶然見つけたチリーンに手を伸ばして、あと少しのところで風に乗って舞い上がってしまうあの感覚。
そうだ、それに、よく似ていた。
だから、かもしれない。
空に消える泡沫を見上げる彼女を連れ出そう、と思ったのは。
だが、今となってはその自分の行動になにか誤りがあったのかと思うばかりだった。
夜が明けてしばらく、すっかり乳白色に染まった部屋を眺めて、ダイゴは水を入れたケトルをコンセントに繋いだ。ゴォ、だか、ジュウ、だか形容しがたい音がして、赤いランプが灯る。
湯が沸くまでは当然まだ時間がかかる。その間になにかすればいいものを手持ち無沙汰のくせになにもする気が起きない。
広々としたリビングの一角、一人暮らしにはかばかりか大きいシンクにダイゴはよりかかって立っていた。
ケトルの中で水が熱せられる音が次第に大きくなっていく。いつもと変わらない、シンプルな部屋。悪くいえばなにもない部屋。朝の引き締まった空気の中で、湯の沸く音がやけに響いている。
この部屋から、彼女が出ていった。カイナから帰った二日後。トレーナーズカードを手渡して、すぐのことだ。灰色の景色を眺めるための約束になるはずだった言葉すら、結局戯言に終わってしまった。
これこそがいつもどおりの空間のはずなのに、リビングはやけに静かだった。壁を隔てた先に控えめに鳴る蝶番の音も、すうと床を滑る足音も、それから、波の音さえも、遥か遠くに消えてしまったかのように錯覚する。
これが、ツワブキダイゴという人間の日常だ。自分でそう頭の中で呟く。だが、悔しいことに、ごぽごぽと激しく立つ泡の向こうに、微かな音を探してしまっている自分に気がついて、無性に腹が立った。そして腹が立っている自分にすら、嫌気が差した。
ままならないものだ、何事も。わざと大きく音を立て、ダイゴはインスタントコーヒーの封を切ると、まだ沸き切っていない湯をカップになみなみ注いだ。
チャンピオンの仕事というのは、ポケモンバトルのほかにも数多ある。今年度のリーグの調整や各ジムとの連携、はたまた来年度の予算算出などその幅は多岐に渡る。
毎年同じ時期に始まるリーグで、挑戦者がくるのを待ちその王座を守るために切磋琢磨する、当然それだけでは務まらない。ポケモンバトルでその座を奪うというのに、実際にはその高貴な椅子に悠々と座っていることは少ない。
子どものころはただひたすらに憧れていた。だれもが通る道であった。手にした相棒とともに突き進み、戦いを重ね、経験を積み、チャンピオンロードへ挑む。輝かしい道であった。だがそのころはこんなふうに執務机に座って書類を眺めて、それから海に思考を逃すなど思いもしなかったはずだ。
ダイゴはサイユウのリーグ本部に向かうと秘書から書類や手紙を預かり早々に執務室に篭った。大きく設えた嵌め殺しの窓からは朝焼けが射し込む。それを背にホウエンチャンピオンのツワブキダイゴとしての一日を始める。リーグ主催のイベントや講演などがない限り、事務作業も多い。それに今年度はまだ始まったばかりともあって軒並み挑戦者のチャンピオンロード入りは耳に掠めもしない。
物音ひとつしない平穏な世界でダイゴは書類に目を通しサインと捺印を繰り返す。
他地方とのエキシビションマッチのスケジュール、ポケモンリーグの施設修繕案、スポンサー契約継続の確認文書、そのうちにテレビキンセツからの対談依願書が目に入りダイゴははたと手を止めた。内容は「伝説をめぐる旅」――カントーのファイア、サンダー、フリーザーから始まり、ここホウエンのカイオーガやグラードン、ジラーチはもちろんシンオウのディアルガやパルキアなど、この世に散らばる伝説を追い求め、何週かに渡り特番を組むという。
四週目の題目「次元を超えるポケモンたち」の字面を目で撫でダイゴは受話器に手を伸ばした。
「――どうかなさいました?」
すぐに秘書の声が耳元で響く。
「シンオウのリーグに繋げるかい」
ええ、と返事があった。
「チャンピオンのシロナさんでよろしいですか」
「ああ」
「御用件は」
一瞬、ダイゴは息が止まった心地だった。単に近況を聞く、でも、テレビキンセツの特番の件で、とでもいくらでも言葉は余っていたはずだ。それなのに、なにひとつすぐには出てこなかった。
口内で舌を転がすと、「いや、やっぱりいいや。ごめん」と矢継ぎ早に告げて内線を切った。再び押し寄せたのは耳の詰まるような静寂だ。
しばらく電話機を眺めて息をつく。それから、テレビ特番の出演依願に関する書類は端に避けて仕事を再開した。
正確には、しようとした。
