しばらく街並みを案内してもらったあとは市場へ足を運んだ。朝一がやっぱりイチオシの時間なんだけれどね、そんなふうに彼は言ったが、それでも街のどこよりも活気に満ち、色とりどりの食材や雑貨が揃う様子には胸が踊った。技マシンやおこうなどのポケモン用品から、パンや果物や野菜、それから海産物。そのほかにも装飾品、果てはインテリアまで揃っている。
鮮やかなテントの屋根とエプロン、人々のほがらかな笑みやおしゃべり、太陽の下で目映く瞬く。
なんだか、パリの朝市みたい。ふと口にすると、彼は小さなそのつぶやきを聞き逃さなかったのか、「パリ?」と前から返してきた。
「地名です。文化と芸術が栄えた、華の都」
パリよりもプロヴァンスやニースのほうがもっと似ているのかもしれない。もっとも、南フランスは行ったことがないからわからないけれど。
「果物や野菜から、焼き立てのバゲット、精肉にバターやチーズの乳製品、それから骨董品とか、パリの朝市はここみたいにいろいろ安く揃うんです」
行き交う人々の穏やかな声や朗らかな顔、呼び止める客引きや客とのやりとり、耳や目から得られる情報が記憶の中のそれと自然と結びつく。
「へえ」彼は言った。
「そういうの、好きかい」
好き――。
そうですね、と答える。
「住んでいたところではこんな市場はなかったので、楽しいですよね」
自分でも、歯切れの悪い言葉だなと思った。けれど、曖昧模糊とした感情を隠して視線を逃すと、ちょうど目の前の青果屋がパイナップルのような真っ黄色の実の入ったカゴをかかげてみせてくれた。
「これは?」
「パイルの実さ! 新鮮朝どれ! さあさスムージーにしてあげるよ!」
ほのかに甘いにおいがして、頬が恥ずかしくなる。みずみずしい実と輝かしいお兄さんの顔。つい、ポシェットからカメラを取り出して、写真を撮ってもいいかと頼んでいた。にこやかに承諾してくれた彼と、色とりどりの果物――ここではきのみか、それらをパシャリと一枚ずつ。
それからパイルの実を指差して、それを、と言うと、「それと、ブリーのスムージーも」と肩越しに声が飛んできた。
「いいね、カメラ。買ったんだ」
はっとカメラを見て、それから、うなずいた。
「すみません、どうしても、ほしくて」
「構わないよ。キミが自由に使うべきお金だからね。それにしても、旧式のカメラか、いいセンスだ」
お兄さんに小銭を渡す前に、彼がスムーズな流れで紙幣を渡す。あ、と思ったが、できあがったスムージーを手にふと笑みを向けられては断る術はなかった。
その後近ごろ流行っているというピタサンドを昼食に食べ、しばらく市場を回ったあとは「うみのかがくはくぶつかん」へ向かった。
そこからは、一日、彼にガイドを頼むのも気が重かったので、頼み込んでしばらく自由行動になった。
そんなふうに言うと、今日が社会科見学かなにかのようにも感じられたが、ほとんど似たようなものだっただろう。
小学生のころ、近くの博物館を訪ねたのを思い起こす。なんの博物館だったかはまったく覚えていない。その街の歴史に関する研究かもしれないしこのうみのかがくはくぶつかんと同じく、海と大地に関してだったかもしれない。
そのころは自分になんの関係があるのだろうと見向きもしなかった。小学生なんて、そんなものだ。博物館の中でスタンプラリーを集めて、教員の立つチェックポイントを通る。それから余った自由時間に外へ飛び出す。興味は博物館の中ではなく、大抵は、外の広大な公園や土産屋、それからアイスを売る売店にあった。
けれど、大人になると、自然と興味が外から内に向くのだから不思議なものだ。広大なる海の起源。大地の成り立ち。海底から発掘された岩。それらが元いた世界と類似していたからかもしれないが、幼少期の体験を今をもって補完するべく私の脳にスッと溶けこんでいくようであった。
「五十円という値段のわりには、あなどれないだろう?」
二階の隅から隅まで見学して、入り口に戻ると彼はすでにそこで私を待っていた。差し出された缶ジュースは、サイコソーダという炭酸飲料で、手にするとヒヤリと冷たかった。水と迷ったけど、と言い添えながら、きっとそれくらいが今はちょうどいいよ、と彼は笑っていた。
博物館を出て、港を歩く。缶ジュースのプルタブを開けて、プシュッと軽やかな音が鳴ると、たしかにそれだけで気分がすっきりした。
日はもう傾き始め、鮮やかなプルシアンブルーが淡く金色に染まっている。目映い光の中を、ジャケット脱いで、ベスト姿の彼が歩いていく。そのあとを、私もゆっくりついていく。
堤防の端までやってくると、彼は脚を緩めた。空を破るように伸びた灯台がぽつりと一本立っていた。
「懐かしいな」
彼はその大きなコンクリートの体に手を当て、優しいまなざしで上を見上げた。私は彼のすぐ横を過ぎて、堤防のギリギリまで歩んで海を覗きながら、サイコソーダを飲んだ。
「きれいですね」
水面に揺蕩う光の綾を眺めながら、私は言った。
いつもは西の地平線、ミナモシティの空に沈む夕日を眺めている。今目の前に広がる地平線は、薄く紺色に染まり、夜の訪れを私に静かに告げていた。一日の終わり。必ずやってくる、朝への兆し。あるいは、魔窟への入り口。私はこの世界でまた一つ、時を進めてしまった。
「そうだろう。ここの夕暮れは格別なんだ」
私は、そう言いながら彼が灯台を眺めている間、こっそり、彼の写真を撮った。目映い日差しが邪魔をして、上手く撮れなかったかもしれない。だが、なんとなく、撮ってみたくなった。彼が言う「美しいもの」を。この世界で私がそれを見た証を。
だが、そのあとすぐ、夜の魔物が手をこまねくことになるとは、思いもよらなかった。
「小さいころ、おやじに連れてきてもらってね」
ジャケットを手にしたまま、やおら振り返った彼の顔を私は直視できなかった。
「あのころから、この夕日が好きだった。少し切なくなるほど、美しい夕日が。忙しい父との思い出を鮮やかに映し出す、夕焼け空が」
どんな顔をしていたのだろう、どんな目をしていたのだろう。どんな想いを抱いていたのだろう。汗をかいたサイコソーダの缶をゆっくりと口に運びながら、潮風に髪が攫われるのも厭わずに、一点を眺めていた。
ザザァン、ザザァン、波の音が静かに鳴る。その何度目かのところで、風に舞った髪をかき集める。
「私、トクサネを出ます」
それはおそらく確かな声だった。
