「おや、なんだか顔色が冴えないようだね」
不意に聞こえた声にダイゴはやれやれと肩をすくめた。ドア口にはつい先日も見かけた鮮やかな色彩。立ち姿まではっきりと記憶のそれと重なる。
「それよりもミクリ、君がこうもここに来るとなにかあったのかと不安になるよ」
ルネのミクリであった。今日とて白い肌を晒し、どこもかしこも目映い色彩に溢れた男の姿にダイゴは手にしていた書類を置く。目の前の執務机には変わらず書類の束が山を成して、決して要領が悪いタチではないのに、いくらやっても仕事は尽きなかった。
「なに、今日は本当に別の用事で本部に寄ったまでさ」
「なるほどね。前回はそうではなかったわけだ」
「友人の浮かない顔を見るのもたまには乙だろう?」
食えない男というのは彼のことを言うにちがいない。そのまま空いたソファに促すと、それで、とミクリは長い脚を組みながらこちらを見遣る。
「今日も君は考えごとかい」
「この仕事に就くと、どうにも悩みは絶えないものだよ」
「今まではそうは見えなかったが」
ダイゴはやれやれと立ち上がった。
「先日カイナに行ったんだ」
へえ、カイナか、とミクリは声をたゆませる。
「いいね、あそこは活気があって素晴らしいところだ」
そうだね、肯いてダイゴは窓辺に寄る。大きく空いた窓から見えるのは大いなる海原だ。ホウエンの果て、サイユウシティに位置するリーグ本部からのぞむ景色はトクサネともカイナとも異なる。あちらが生命を育み、文明を営む海だとすれば、こちらはどこかそうした温度に欠けた終焉のそれに思える。青空も海面も遠い水平線も、たしかにホウエンじゅうに続くだろうに、船で漕ぎ出せば魔物が海から食指を伸ばしてくるそんな殺伐とした空気がある。
ミクリが告げたような、妙な気配、嵐の前の静けさ。
「街からふりかえるえんとつやまも、サイクリングロードも。ポケモンセンターもフレンドリィショップも、それから市場や波止場、うみのかがくはくぶつかん、すべてが昔と変わらなくてね」
みぞおちが、心地悪い。ダイゴは話しながら、体の前で手を組んで、親指を合わせた。
トクサネから空を飛んで、海を渡りヒワマキを経由してカイナへ向かった。カイナはダイゴの思い出の場所であった。忙しい父と過ごした中でも洞窟以外に残る数少ない鮮やかな記憶の宝石であった。いつだって彼の中であの街は光を浴びて瞬いている。胸が締めつけられるほどに、目を細めそれを抱きしめたくなるほどに。だから、連れて行ったのだ。
棄てられたロコンのように不安定に時折瞳が揺れるから、なにかを求めて幽かな呼び声をあげているような気がするから、ダイゴはなにもかもを与えてやりたくなった。
家に連れて帰ったのも、そうだ。どこにも行く宛のない、ただひとりの彼女を、自分しか知らないトオノヨウコという女性を、わけもわからず、この手で庇護してやりたくなったのだ。
「ロコンに逃げられた心地だ」
ぽつりとこぼした言葉を、ミクリが拾い上げ、「ロコン?」と眉をあげる。
ああそうだ、とダイゴは思った。
元から手に入らなかったチリーンではなくて、尾がまっすぐ一本の生まれたてのロコンだ。草むらに震えて蹲る、その子に手を伸ばした。
「子どものころ、ポケモンを抱いて、どれほど強く抱きしめたら壊れてしまうのだろうと思ったことはないかい」
ミクリはじいと彼を眺めていた。その真意を探り答えあぐねているようだった。
さあ、どうだろうね、と答えた友に、ダイゴは、なんでもいいんだ、と続けた。
「自分の手の中にあるなにかを壊す想像をする。実際には、そうしないんだけれど」
そこまで言って、ダイゴははっとした。そして、自分の裡に渦巻いていた衝動に潜む本懐を見いだし、「いやなんでもない、忘れてくれ」と口にした。
ミクリと他愛のない会話を終えたあとは、仕事を済ませてトクサネに戻った。
「ヨウコ! そっちのテーブルに持っていってちょうだい」
坂を上がり、街中へ向かおうとしたときだ。威勢のいい声がして、ダイゴは足を止めた。
トクサネのマングローブにほど近い一軒の定食屋。そこに、若い女性の姿があった。
「はい、煮付け定食お待たせしました」
白いブラウスに紺のアンクルパンツ、髪を高く結い上げ、赤いエプロンをつけているが見間違うはずもない。トオノヨウコ、彼女の姿。彼は一瞬呆気にとられていた。それはたぶんそよ風が呼吸を攫うほんの数秒のことだった。
「あれ、ダイゴさんだ」
子ども特有の甘さを含んだ高い声が飛んできて、ダイゴははっと意識を取り戻す。
「こんなところでなにしてんの?」
「やあ、ランちゃんにフウくん。今リーグから戻ってきたところさ」
それぞれソルロックとルナトーンを引き連れて、双子の少年少女が彼を見上げていた。トクサネのジムリーダーだ。非常によく似た二人の顔を見比べながら、君たちは? と訊ね返す。
「ぼくたちはね、今から特訓だよ」
「それはそれは、精が出るね」
「まだここまでたどり着いたトレーナーはいないけど、そろそろくるんじゃないかってルナトーンが言っているの」
「そうか。じゃあ、ボクももううかうかしていられないな」
ひときり話して、少年少女たちはマングローブへと姿を消す。ダイゴはそれを出来る限り見送って、後ろを振り返った。
近所の住民や漁師で賑わう定食屋のテーブルの間を動き回るたび揺れる彼女の髪。思い出されるのは、あの堤防での彼女の顔だった。ぐっと目を細めた、苦い顔。目映さに目を閉じるようにも、あの場からあの瞬間から目を背けているようにも見えた。
果たして今は、どうだろう。生き生きとした、まさに生をこの世に実感しているとでもいったまなざしがひどく彼の目の奥を疼かせた。電流にも近い、わずかな痛み。
彼女はトクサネというこの島を出ると言った。ポケモンセンターに泊まりながらしばらく資金を集めて、定期船に乗ってまずはミナモシティに向かうのだと。宛てはないが、帰る手がかりを見つけに旅をしてみるのだと、たしかな口調で告げた。
青々とした風が二人を断つ。
きっとこれで正しかったのだろう。彼女は自分が庇護しなければならない子どもでもない。いい大人であり、あくまで自分の家に突如現れた不可解な人間。それだけなのだ。そうだ、もとはといえば、最初からこうなるのが自然の摂理だったのだ。
なにごとにも執着しない。来るものも拒まず、去るものさえ拒まぬ。はがねの心で、風を吹かせる。それがツワブキダイゴという男のはずであった。
だが、一人で立とうとする彼女が、自分ではないだれかを頼り歩いて行こうとする彼女が、ダイゴはどうしても許せなかった。
