「遠慮なら、無用だよ」
朝、お金を返す私に彼は困ったように眉根をかすかに寄せて言った。
「必要なものがあるはずじゃないのかい。ここを出てからの旅の準備だって、まだできていないだろう」
こちらに来たときに着ていた洋服を纏い、初期投資として購入した肩掛けのポシェットを背負った姿を見て言っているのだろう。たしかに、旅に出る格好ではないが、ほかになにを買えというのか。簡単な化粧用品だって、初めに買ってもらってしまった。
「十分すぎるくらいです。それに、旅に出てからなんとかしますから」
あまり、世話になりたくないのが心情だった。もしかすると、これが女性だったらまた違ったのかもしれない。結局、男女差別か、と心の中で荒んだ声が響くが、そう簡単な問題だったならば、どれほどよかっただろう。
難しそうにむっつりと唇を結んで岩のようになった彼をよそに、心配はいりません、と肩をすくめて、私は家を出た。
行くところは決まっていた。丘を下り、繁華街を過ぎて浜辺へ。今日はそれからさらに奥へと進んだ。白浜をザクザクを踏み鳴らし、青々とした木々が樹生する場所へ。マングローブだ。
浅瀬に大きく張り出た根、赤いカニのようなポケモンが細く天に伸びる幹を這っている。いかにも熱帯らしいその風景に、私はシャッターを切った。
透明度の高い水面から伸びる立派な根は、それだけで芸術だ。いくら彫刻家が木を切り出しても目の前の複雑に絡み入り組んだ根の迫力を表現することはできないだろう。潮の香りのなかに、青々としたやさしい森と土の匂いがする。いつも眺める海が偉大なる母ならば、こちらは雄大な父と言うべきかこれだけで、絵になる。
パンプスを脱いで、裸足になってマングローブの幹を触る。思いのほか冷たくて、しっとりとしている。
かれこれ一週間とちょっと、いや、もうすぐ二週間、トクサネで過ごしているが、また新たな一面を見たような気分だった。それと、沖縄でよく見る自然豊かなマングローブとポケモン、なんだかふしぎな気分だった。
喉が渇いて浜辺から上がると、麦わら帽子の少年に声をかけられた。
「お姉さん、なんの写真撮ってたの」
ツバの影が落ちた頬は、こんがり焼けている。「マングローブ」と答えると、少年はふうんと興味なさげに相槌を返してきた。
「ホエルコウォッチングのほうがいい写真とれると思うけどな」
「ホエルコウォッチング?」
訊き返すと少年は目を爛々とさせて、この時期は少し沖合に出るとホエルコの群れが見えるんだ、と教えてくれた。
「一日に一回、船も出てるはずだよ」
「それって観光船ってこと?」
「うん。ミナモシティに向かう定期船もあるけどそれとはルートがちがうんだ。もしホエルコウォッチングがしたいなら、波止場に行ってみたら」
私を観光客と思ったのだろう。今日はこれから出るはずだからと教えてくれた親切な少年に礼を告げて、浜辺とは反対の波止場に向かった。
海を渡る風が吹く波止場は、磯の香りが強くした。浜辺よりも、もっと純度が高く、海産物のすえた匂いもしない。ザプンザプンとコンクリートに打ち付ける波の音を聞きながら、一隻のクルーザーが停留しているのを見つけた。
「ねえちゃん、ホエルコウォッチングかい」
サングラスをかけた海の男がクルーザーの上から潮騒に負けじと叫ぶ。私は少し迷ったがやがてふるりとかぶりを振った。
「ミナモシティに向かう定期船もここから出るのか、訊きたくて」
きょとん、と意をつかれた顔をしたおじさんだったが、すぐにサングラスを額に上げて、そうだよ、と教えてくれた。
「みんな海を渡る手段を持ってるから、なかなか使うひとがいなくてよ。今さっき出ちまったところさ」
ほら、と視線を飛ばした先には、一隻の船。どうやら、今日がその定期船の出る日だったようだ。かなり沖合にでているからその正確な大きさはわからないが、ホエルコウォッチングのクルーザーよりかは長い海路に耐えられそうな船だった。
「来週も、嵐が起きなきゃこの時間に来るはずだぜ」
ニッと日焼けした肌によく映える白い歯を覗かせて、おじさんは言った。万が一を考えて早めに来とくといい、とも。記念にホエルコウォッチングはどうかと誘われたが、ありがとうございます、と厚意だけを受け取って町に戻った。
