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 途中、女の子の落とし物を拾ったりしながらのろのろと丘を上り、彼の家に着いたころには汗が額に滲んでいた。
 いよいよ、本格的に夏へ向かっている証拠だろうか。日本の気候と同じように湿度もわりと高い。もしかすると夏の前に梅雨が訪れるかもしれない。比較的晴れていることが多いから、雨の存在をすっかり忘れていたが、気候区分を考えるとそういった雨季があってもおかしくはない。
 しとしと雨粒の降り注ぐこの街は、どんななのだろう。
 シャワーを浴びて、汗をかいた服を着替えると急いで洗濯を回した。日が暮れる前に干してしまおうと庭先に出ると、風が心地よかった。なにもかもがどうでもよくなる、そんな感じのやわらかな風。
 下着以外を物干し竿に干して、私は庭に面した大きな窓に腰掛けた。白いブラウスのすそが風に揺らぐ。鳥ポケモンや蝶ポケモンが視界を過り、心なしか、甘い緑の香りがした。西へと渡る太陽からは絹の日差しが注いでいる。
 シャンパンのようにまったりと金色に染まる岩や草花を眺めながら、女の子からお礼にともらったシャボン玉を吹くことにした。
 ピンクのプラスチック製の瓶の黄色い蓋を外して、緑色のストローを挿す。一回、二回、とこぼさぬように丁寧に上下させると、口に咥えて、息を吹いた。
 ププププ、と音もなく吹き出す泡たち。風に乗り、くるくると回りながら青空に舞い上がる。陽光を浴び、七色に光りながら、高く高く飛んでいく。

「きれいだね」
 突如、後方から飛んできた声に私は飛び上がった。
「ごめん」と気配もなく現れたのはこの家の家主。白いシャツに、赤いスカーフ、それからベスト姿だった。
「おかえりになっていたんですね」
「というより、朝から家にいたかな」
 ぱちぱちと瞠目を繰り返しながら、物言いたげな顔を向ける私に、彼は困ったような参ったようなそれでも人好きのする笑みを浮かべる。
「なにしていたんだい」
「シャボン玉です」
「それは見たらわかるけど」
 手についたシャボン液を地面へと落としながら、「意味はとくにないんですけど」とぼそっと呟いた。
「ただ、きれいだなって」
 いつのまにか、シャボン玉はすべて消えていた。名残惜しくなって、もう一度吹く。人差し指と親指でつまんだ幼稚な色のストローから、飛び出していく脆い宝石たち。じっと見つめながら、ゆっくりと肺を新鮮な空気で満たす。
「こんなこと、思わなかったんです」
 わからない、ずっと昔はそう思っていたのかもしれないけれど、私の中からはすっぽりとそれが抜け落ちてしまっていた。
「空があおいだとか、風が花みたいなにおいがするとか、なんの変哲のない石が、太陽に煌めく様だとか、ただ呼吸してるだけで幸せに思うなんて全然気がつかなかった」
 朝起きて、会社に行く。日が暮れて、家に帰る。そんな毎日の中で、世界が美しいと思うことなんてなかった。人生が美しいだなんて、思ったこともなかった。だけどこの瞬間、私はそのどちらも感じることができていた。
 なにもないのに、すべてがここにあるような感覚。
「そのわりには、やけにこう、気怠げだけど」
「そうですか?」
 ふたたび、ストローを瓶に挿して、宝石箱のように慎重に瓶を扱いながら、シャボン玉を吹く。
「タバコをふかすみたいにシャボン玉を吹く人、初めて見たよ」
 彼はしなやかな動作で隣に座ってきた。く、と忍び笑いを浮かべる彼を横目で一瞥して、なおもシャボン玉を空に放つ。
「吸うの?」
「吸ったことは、ありますけど。吸わないですね」
 あなたは? 訊ねると、やわく笑みを浮かべながら、ボクもだよ、と彼は答えた。
 くっつきはしないけれど、拳ひとつでも詰めればきっと肩が触れてしまう距離。空に舞う七色の珠を私たちは言葉もなく見つめていた。
 くるり、くるり、地球の自転のように回りながら、太陽の腕に抱かれて高く上がっていく。風は青く、やさしく私たちを包んでいる。ただ、ときおり掠める彼の香りに、喉の奥がきゅうっと狭ばっていく。
 シャボン玉を吹く。懲りずに、何度も何度も。彼に言わせればまるでタバコをふかすように。あながち、間違いでもないかもしれない。紫煙を吐き出すのと同じで、心の中の行き場のない感情を風に載せている。
「この世界には、まだまだ、美しいものがたくさんある」
 彼は言った。風のささやきに紛れぬ、低く、豊かな声で。
 いつのまにか、彼は私のことを見ていた。
 目映さの彼方になにかを見出したようにやわく細められたまなざし。半身に伝わるかすかな熱。私はそれらすべてに気づかぬふりをして、ただただ七色の珠に吐息を吹き込んだ。

 次の日、彼は私を連れてトクサネを飛び立った。