「……これって」
トクサネシティで過ごすようになって数日、洗面所のランドリーバッグの中に男物の白いシャツが何枚も入っていることに気がついた。
だれの、なんていうのは考えなくてもわかる。だが、あの人の印象からすると、少しだけ意外だった。ただ、朝早くに出て夜遅くに帰るというルーティンでは、もしかするとこういうことはザラにあるのかもしれない。几帳面そうに見えるが、案外、無頓着なところがあるようだ。それか、居候に気を遣って洗濯を回すことができないか。いや、それもおかしな話だ。
「こんなに溜めちゃって」
手の行き届いた身なりからすると、クローゼットに何枚も似たようなシャツがあって、決して困りはしないのだろう。
「どうしよう」
ただ、それはそれとして、このシャツたちをどうするか、私はしばらく洗面所で立ち問答する。
だが、葛藤の末、それらを洗うことにした。
洗剤や柔軟剤は揃っているし洗濯機だって向こうの世界で使っていた様式と変わりはない。なにも困ることはなかった。これがここで与えられた生活かと思うとどこかみぞおちのあたりが疼いたが、気づかぬふりをしてシャツの襟元や袖口に台所洗剤をふった。
たぶんオーダーメイドかなにか、いいところの製品だったが、洗濯可能の表示があったので下洗いをしてから洗濯機に入れた。下着などはどうしたのだろうと思ったが、むやみにさわるわけにもいかないので、ないならないでありがたかった。
自分の洗濯とは分けて、一度洗濯機を回す。ガタン、ガタン、静かな回転音は、整然としすぎた家に生活感を生み出した。
出来あがるのを待ちながら、リビングで過ごす。テレビもなにもないから、ただ、ソファに座ってぼうっとするだけ。しばらくして、光が風にそよぐのを眺めるのにも飽きてきて、ガラスケースの石を観察することにした。
ごつごつとした溶岩石のような塊。この世界に来て、初めて認識したものがそれだった。
黒いスチール枠に傷ひとつないガラスの中に鎮座する彼のコレクションたち。なんだか、この一角だけ博物館みたいだ。それぞれ飾られている石には、採掘されたであろう場所や日付がアルミ板に丁寧にも記されていて、きちんと管理されている感じがした。
「えんとつやま……」
この世界独特の文字を目でなぞり、先日地図で確認した火山だろうかと思いが巡る。だとしたら、これは実際溶岩が凝固した石なのか。鉱石や宝石などばかりを集めているのかと思っていたが、少しちがうようだ。とはいえ、その溶岩石も、不思議なことによく目を凝らすと中にはきらきらと黒曜石のような煌めきが含まれている。もしかすると、珍しい石なのかもしれない。
そんなことを考えながらゆっくりと視線を横へとずらした。
「きれい……」
溶岩石の隣、まるきり正反対の白っぽい石が置かれている。一見、丸みを帯びたただの石灰岩に見えなくもないが、その中央、といえばいいのか、あるいは芯部といえばいいのか、ともかく中に空洞ができており、そこにブルーグレーの水晶がびっしりと埋め尽くされている。形状的には宝石商で見る、天然のアメジストみたいな感じ。でもそこまで色が濃いわけでもなく、厚い氷の張った海みたいにも思えた。
気がつけば吸い込まれるようにして、その碧い深淵を覗き込んでいた。
やがて、ピィーピィーと甲高い鳴き声を上げて洗濯が終わった。洗面所に舞い戻って、自分のと入れ替えに胸に抱く。庭に出ると、隅に物干し竿があったのでシワを伸ばしてそこへ干した。
*
どういう、風の吹き回しでしょうか。
彼女の言葉がこだまする。嫌悪と不安が入り混じっているのに、ふしぎと不協和音にならない絶妙なバランスを保つバイオリンの音色だった。
どういう、って。心の中でぼやきながら、ダイゴは机に積み重ねられた書類に判を押していく。
ここはホウエンの果てサイユウシティのポケモンリーグ本部。すでに開催している本年度のリーグに関する報告書が山と化し、小さな列島を作り上げている。さほど洞窟に篭っていたわけでもないのに、来るたびこれでは気が滅入るいっぽうだ。
淡々とインクをつけては紙に押して、という作業を繰り返していると、コン、コン、と部屋がノックされた。やけに粒の揃った音だった。
「なんだ、珍しい顔をしているじゃないか」
どうぞ、そんな返事をする前に入ってきたのは、ルネシティのミクリだ。
エメラルドのヴェールが視界を掠めて無機質な部屋は一気に華々しくなった。
「せめて声は掛けてくれないかな」
「ああ、すまない。どうせ君のことだから、私だとわかると思ってね」
そこまで超人のつもりはないが、あながち間違いでもないのでダイゴは続けて判を押した。
「それで、なにか用かい」
ホウエンは、桜が散り新緑の季節となっている。スバメたちがじゃれあいながら生い茂った木々を飛び移る様子は、まさに初夏に向かう光景だった。きっと、外はなかなかの暑さなのだろう。ひと息ついて、手首を捻る。
ミクリは、ああ、と髪を流すと、「近頃、海の様子が妙でね」と言った。
「どういうことだい」
「いつにないほど、静かなんだ」
「キミが言うのだから、それは相当なのだろうね」
「ああ、ここまでははじめてだよ。あのミロカロスでさえ警戒するほどに。近く嵐がきてもおかしくはないかもしれない」
とはいえ、彼らは漁師ではない。なにが言いたいのか、指先で書類の端をなぞると、ミクリは声を潜めて続けた。
「妙なことが起こりそうな気がしてね」
こういうときのミクリの勘は、自分のものよりも優れている。わざわざ伝えに来たあたり、その直感は殊更強いのだろう。
トクサネの海はさほど変化はなかったが、ダイゴがミクリの言葉を疑う余地はなかった。
彼女の存在だ。ある夜、自宅に姿を現した、異国の女。ちがう、異国ではない。異世界あるいは別次元からきた、女のこと。
彼女の身に起きた現象はまさに嵐にも匹敵するだろう。むしろ、それ以上。
ただ、そうなるとミクリの予感はすでに現実に起きていることとなる。
「ルネの民に言われては、見過ごせないな」
わざとらしく首を捻ってみせると、ミクリは優雅に唇を弛ませた。
「頼んだよ、我らがチャンピオン」
書類の一番上に置かれた一枚の申請書をリングをつけた指が避ける。
「で、君のほうは?」
言われて、 ダイゴは青空へと意識を飛ばすように、窓を見遣った。
「……いや、家に帰るのが憂鬱だな、と思っただけさ」
なんだそんなことか、ミクリはやれやれと肩をすくめた。
その日の午後、ダイゴはリーグでの仕事を早々に切り上げてトクサネに戻った。そのまま洞窟を探しにエアームドで飛んでいってもよかったのだが、ミクリから釘をさされたからか少し彼女の様子を確かめようと思ったのだ。
海は相変わらず穏やかに凪いでいる。これが天変地異の前触れだとしたら、さぞ恐ろしい。
ダイゴは気難しい顔をしながら、気の向かない道のりへと足を進めた。
渚から街へ続く道は、なだらかに彼を自宅へと誘った。途中近所の子どもたちが元気よく声をかけてきては、無邪気に彼の周りを走り回る。それににこやかに返事をしながら、丘を上り終えた。
穏やかな潮騒が耳を撫でる。太陽は海の上に浮かび、辺りを眩しく照らしていた。ダイゴは鍵を開ける前に、庭になにかを見つけた。
白いシャツだ。いち、に、さん――それはたぶん新たな同居人が増えてから自分が纏ったシャツの数と一緒。夜遅くなにかをするのも億劫で、洗面所に放り出していたやつだった。どうせ、クリーニングに出すからいいとタカを括っていた。
西の空から注ぐ光がまっさらなそれに跳ね返される。生温い風にそよいでは、また元の場所に戻って。ダイゴは目を奪われていた。ひらひらとはためく純白のシャツに。いや、そこにゆらりゆらりとたゆたう影に。
あの日もそうだった。
昏れなずむ浜辺は美しく、水面がいっそう強くなる日差しをはね返し、波に合わせて色を変える。空には淡いグラデーションがかかり、すべての荷が降りるような爽やかな風が海から吹いていた。
そこへ佇む彼女の背は、そのときは特別それをなんに喩えようかとも思わなかったが、儚い空気に溶け込んでしまいそうな雰囲気がたしかにあったのだ。
自分はこの世界の人間じゃないと告げる、波の音に紛れてしまいそうな弱々しい声。それから、震える瞳。放っておいたら海の魔物にでも攫われるだろう、そう思った。だが、一瞬で彼女はそれらをしまい込んだ。
今も、少しでも近づけば、あの頼りない影は消えるだろう。ならば、なぜ、自分は彼女の腕を掴んだのか。
弱者を救う正義感?
それとも、困窮者を放っておけない親切心?
――まさか。
ダイゴはしばらくそれを眺めていた。真っ白なシャツの向こう、見えそうで見えない彼女の輪郭を描きながら。
あの日、遠ざかっていく彼女の背が、宵闇にゆらりゆらりと溶け込んでいく彼女の背が、知らず識らずのうちに彼の中の小石をころりと蹴飛ばしていたことだけは、たしかだった。
