六月も終わりに近づいている。梅雨真っ盛り、何日も降り続いた雨ですっかり街じゅうが水に沈んでいるようだった。オフホワイトのカーテンが揺れ、ぬるんだ風が入ってくる。夏が近づくが、まだ梅雨明けは遠い。弱まった雨足は、帰る頃には止んでくれるだろうか。結梨はスケッチブックを膝に抱えながら、鉛筆を走らせる。
「七月入ったらテストじゃん? 結梨勉強進んでる?」
目の前で、机に頬杖をつきながら曇天を眺めるのは千夏だ。先日約束したとおり、彼女の横顔をスケッチしていた。部活や家で、写真をもとに人物を描くことはよくあるけれど、こうしてモデルを前にその場で筆をとることはあまりない。入学したてのころ、三年生の先輩がモデルとなってそうしたレクチャーをしてくれたが、その後は各自の裁量に任されていた。すこし緊張するなと思いながら、結梨は千夏の秀でた鼻梁をかたどっていく。
「まあまかな。なんとか中学時代の復習が多いからいいけど、でも、化学とか無理かも。理数系は平均点取れたらラッキーって感じ」
「あー、なんとなくわかるわ。結梨、ザ・文系って感じがする。ま、私も理数は勘弁だけど」
なんとも高校生らしい会話を続けながら、束の間の時間を過ごす。四限終了のチャイムが鳴って集合してから、弁当を食べるあいだも最近聴いた音楽のこと、ドラマのこと、さまざまなことを話していたのに、女子高生のおしゃべりは尽きない。弁当をしまい、いざ、「頬杖をついて、窓の向こうを見ていてほしい」と頼んでからも、千夏は「こう?」とすこしだけ気恥ずかしそうにしながら、いろんなことを話し続ける。
千夏の横顔は、綺麗だ。鮮やかなアマリリス。日向に咲くサンフラワー。けれど、やはり、こうして物憂げに外を見やる姿は、彼女に落ち着きのある大人びた印象を強く与える。その情熱を下にひた隠し、さらりとしたヴェールを纏う。ヴィクトリア時代の、バッスルスタイルのドレスなんかを着たら深窓の令嬢に見えなくもない。多々良が聞いたら、複雑な顔をしそうだが。でも、ドレスを身につけながら、颯爽と馬を乗りこなしそうなイメージ。あながちまちがいではないと結梨はひとりでに唇をもぞもぞと舐める。
これは、たーくんも同意してくれるだろうか。あぁ、なるほどね、うんそんな感じがするよ、なんて。でも結局、幼なじみの顔を思い出して、すこし苦い思いになっていると、「そういえば」と千夏が言った。
「最近、兵藤さんとはどうなの」
ぎくりと心臓が跳ねた。千夏には、想いびとがだれだか、打ち明けてあるのだった。「あー……」と結梨は歯切れ悪く答える。
「アドレス、交換した……」
「えっ、あの兵藤さんと?」
「……うん」
兵藤清春について、千夏が知っていることは、花岡雫のリーダーであり日本で最も有名なカップルの子息であり、ダンス界の重役の孫であり、将来を期待されたダンサーの一人であること。打ちあけたとき、「なんでアンタがそんな人間知ってるの?」と心底驚かれたものだ。小笠原ダンススタジオを通し、多々良がらみで知り合いになったことを伝えると、「なるほどね」と彼女は納得していたが、それでも結梨とそんなダンス界の有名人が繋がるのは、なんだか意外だったらしい。
だが、今となっては雲の上の超人も、友人の想いびと。千夏はこれまでアンニュイに空を眺めていた目をキラキラと輝かせた。これには結梨も咎める気になれず、思わず苦笑した。
「やったじゃん、ていうか、まだアドレス知らなかったの」
「うん、なんか、緊張しちゃってさ。聞く雰囲気なかったし」
「結梨らしいわ。ね、どっちから?」
「……あっちから」
きゃーっと黄色い声が上がる。「脈ありなんじゃないの?」と千夏は興奮気味に言うが、結梨はスケッチブックで顔を隠して、「そんなことないと思うんだよう」とモゴモゴ。
「ま、メールくらいクラスメイトでも交換するしね。でも、嫌われてはないってことじゃん?」
「うん、そうだよね……」
清春のことを考えると、顔が熱くなるのはもう治らないのかもしれない。一時期は落ち着いたかと思ったが、この頃はまたぶり返している。メールが送られてくることによって、繋がっているのだということを意識してしまうからか。
「で、どんなメールしてるの?」
「どんな、かあ。フツーだとは、思うけど」
そこまで言って、結梨は頭を抱えそうになった。いや、やっぱり普通ではないかもしれない。
たった一枚、ぺろりと貼り付けられた写真。そんなメールはやっぱりまだ続いていた。「写真が送られてくる」というと、千夏は「兵藤さんの?」と期待したが、もちろん、全くそんなことはない。
「……スマホ買いたての老人なの?」
確かにと結梨は顔をしわくちゃにした。
「でも、鎌倉のあじさいを送ったら、キレイだってちゃんと返ってきたし」
言い訳みたいだな、と思うが、事実なので仕方ない。千夏はデッサンモデルになっていることをすっかり忘れて、平たい目で、「だから、結梨、おじいちゃんとメールしてる?」とトドメを刺した。「要介護のイケメン」いつだか環がそんなことを言っていたのを思い出して、否めない結梨であった。
デッサンに戻るうちに、刻一刻と時間は過ぎて、まるで結梨の奏でる鉛筆の音に吸い込まれていっているようだった。真っさらだった画用紙には、すでに千夏が佇んでいる。窓際の席で頬杖をついて、どこか物思いに耽るように窓の向こうを眺めている。
「ちーちゃん、たたらとうまくいってる?」
ふと、唇からこぼれたのは、そんなことば。近頃は多々良も、そして結梨も忙しくあまり連絡をとっていない。もともと、頻繁にメールをする幼なじみ同士ではなかったし、学内で会っても手を振る程度。
「まあまあかな」と、にべもなく答える千夏に、そっかと結梨は笑う。
多々良と千夏がカップルを結成して、ひと月。組んだ当初は、「リードの難しさ」を悩み結梨に吐露していた多々良だったが、要の出場した日本インターを見に行って以来、彼は口を閉ざした貝のようにひたすらダンスに取り組んでいる。
部活がえり、反対側の歩道を走る幼なじみの姿。日が暮れても公園でトレーニングに勤しむ背中を何度隠れ見たことだろう。「新しい教室に行くことになったの」と教えてくれたのは、たまたま駅前で出会った環だった。
結局、鎌倉のお土産も渡せていない。ふたり、お揃いのポストカードだなんて、今さら、恥ずかしいと思うかもしれない。だって、高校生だもん。結梨はひたすら鉛筆を走らせる。
なんでもかんでも、報告するのが幼なじみではない。寂しいけれど、わたしがなにか口を出すべきじゃない。出していいわけがない。だって、わたしだって、そうだったのだから。
たーくんの人生は、たーくんのもの。自分で決めたい、自分で進みたい理由がある。それは、痛いほどにわかる。だから、わたしは見守るだけ。だって、幼なじみだもん。
けれど、結梨はそれでいて、わからないと駄々をこねたい気もした。さみしいものは、さみしい。たーくんが離れていく。手の届かない、遠いところに行ってしまう。もう二度と、会えなくなってしまうのではないか。不安でいっぱいで、あの手を掴んで、「待ってよ、たーくん」と言ってしまいたかった。……きっと、そんなこと、ないはずなのに。同じ高校に通っているのだから、今だって、同じ校舎の中で過ごしている。地球の裏側にいるわけではないのに。
多々良が自分になにも言わないのは、彼がなにかと戦い、そして自分の足で進みたがっている証拠だった。彼の性質を、結梨は自分でもおどろくほど理解していた。
「ちーちゃんは、たたらとぶつかってあげてね」
だから、今はそう千夏にお願いするしかない。千夏はもの言いたげに結梨を見たが、「気が向いたらね」とだけ言って、ふたたび窓の向こうへ視線を投げるのだった。結梨は、くしゃりと眉を下げて笑った。
放課後、期待とはうらはらにやはり雨は上がらなった。室内練をしていたのだろう野球部がジャージ姿で通り過ぎていくのを横目にしながら、結梨はぼんやりローファーを取り出していた。
「また一人で残ってたのかよ」
と、だしぬけに聞こえてきたのは室井の声で、結梨は昇降口の柱の近くに彼がいるのを見つけると、ゆるりと口もとを緩めた。
「うん、今はちーちゃんの絵を描いてるんだ」
「緋山かよ。部活ねーのに、好きだなお前も」
そういう室井はどうしたのだろうとローファーを履いて見上げると、彼はたまたま残っていたのだという。
「じゃあ、一緒に、帰ろ?」
室井は、一瞬黙り込んだが、「べつに、構わねえけど」とポケットに手を突っ込んだ。
雨足はいまだ弱まらず、二人並んで傘を差す。結梨は小さなリボンがドット状に並んだオフホワイトの傘を、室井は透明のビニール傘。「止まないね」とぼたぼた垂れる雨粒を見つめながら結梨が口にすると、室井はああとそれとなく相づちを打ってくれる。
「雨の日って、荷物が濡れるのがいやだよね」
特に、学校がある日は教科書やノートがスクールバッグに詰め込んである。どうにか濡れないように抱きかかえても、結局かばんはびしょ濡れになるのだ。
「荷物がなければ、好きなのに。室井くんみたいに傘を大きくすればいいのかな」
言ったそばから、スクールバッグには大粒の水滴が転がり落ちていた。それを手で払ってしょんぼりアスファルトを進む。
「……変えるか」
「なにを?」
「傘」
「え、いいよ。室井くんが濡れちゃうから」
だが、結梨が前髪を撫でつけるうちに室井がリボン柄の傘を奪い、上から透明の傘をかけてやる。
「少しはマシだろ」
「でも……」
「さっさと行くぞ」
ぶっきらぼうな言い方とはうらはらに、愛らしい傘がひょっこり前を歩く。結梨はそのときはっきり自分が落ち込んでいたことを理解したが、室井のそのちぐはぐな姿に、胸がくすぐったくなって唇を大きく噛み締めたあと、うれしさを抱きしめるように笑って彼を追いかけた。
六月の雨は切なくて、ほんのり甘いにおいがした。
