「結梨、これたたらくん家に届けに行ってくれる?」
夜、夕飯を食べ終えてリビングでまったりとテレビを見ていると、母親が大きな紙袋を手に声を掛けてきた。
結梨はソファから立ち上がってその紙袋を受け取りながら首を傾げる。
「なあに、これ」
「田舎から届いた野菜。食べきれないからお裾分けしてきて」
なるほど、通りで重たいわけである。こうして、祖父母の家から送られたものをご近所さんであり幼馴染の富士田家へ届けるのは今に始まったことではない。結梨が私立中学に通っていたときはもっぱら母や父が直接その役目を負っていたが、高校に入ってからはまた結梨のもとにそれが戻ってきた。
「はーい」と元気よく返事をかえし、結梨はポケットから携帯を取り出して、「今から家行くね」とたたらに連絡を入れた。
「結梨ちゃん、また一段と可愛くなったなあ」
久しぶりの富士田家に訪れると、酔っ払った鉄男がまるで親戚の子どもを見るようにへらへらと笑いながら出迎えてくれた。
例え酔っ払っていても、可愛いと言われるのは悪い気がしない。「そうかな?」と笑いながら礼を言い、結梨は紙袋を差し出した。
「これ、お母さんから。田舎から野菜が届いたからお裾分け」
「お、いつもありがとうなあ。今度またお礼しないとな」
紙袋の中を確かめたあと、鉄男はへにゃりとさらに目尻を下げる。家を出る前の会話を思い出した結梨は、小さく肩を竦めて「気にしないで」と手を振った。
「いつも娘がお世話になってるからって、念押しとくように言われてるから」
「いやぁ、結梨ちゃんなら、いつでもウチに嫁に来ていいんだぞぉ」
「またそんなこと言って」
息を吐いて、靴を脱ぐ。膝を屈めて靴を揃えながら「たーくんに怒られるよ」と続けると鉄男は参ったなとでも言うように頭を掻いた。その仕草が彼の息子とどこか似通っていて、思わず笑みがこぼれた。
「たーくんは?」
「部屋に居るぞ、呼ぶか?」
こくりと頷くと、鉄男は「おーい、たたら、結梨ちゃん来たぞ」と自室に居るという多々良に声を掛けた。襖の開く音がして、すたすたと足音が続く。
「父さんまたそんなに酔っ払って」
呆れたような顔をして多々良が曲がり角の向こうから顔を出した。
「結梨、なんか変なこと言われなかった?」
「ダイジョーブ。ありがとうねおじさん」
鉄男は鼻の下を伸ばしたまま、「ゆっくりしていってな」と言って、紙袋に入った野菜を置きに台所へと消えた。
「たーくんの家上がるのも久々」
「確かに。なんだかんだ暫く来てなかったよね」
「高校生活も忙しかったからねえ」
「結梨は部活あるしね」
多々良の部屋に入ると、結梨は勉強机に備え付けられている椅子に腰掛けた。多々良は畳に足を伸ばして腰を下ろす。いつもこの構図か、二人が逆のパターンだ。
「あぁ、たーくんの部屋、相変わらず落ち着く」
「何もないけどね」
「それがいいの」
伸びをしながら言う結梨に多々良は笑った。
机の上には教科書とノートが開かれたままだった。
「あ、今同じところやってる」
呟きながら、ぺらりとノートを捲る。クラスが違うから進度にばらつきはあるが、見たことのある内容だった。「これ宿題?」尋ねると、多々良は疲れたような顔で頷き、「それと、予習復習」と続けた。
ちょうど、中学の復習も一通り終わり、学校では殆どの教科が新しい学習内容に入ったところだ。授業進度も早くなり、多々良の言うように予習復習がある程度必要になってきたとも言える。あいかわらず真面目だなあ、そんなことを思いながら、自分も帰ったらやろうと心の中で決めた。
それから、並べられた参考書に混じって、ダンス雑誌が置かれているのに気がついた。おもむろに結梨はぺらぺらと捲り始めた。
「兵藤組、載ってたよ」
「へっ、あ、そうなんだ!」
ちょうど兵藤組が出ていないか、確かめようとしていたところだった。それも、ほぼ無意識に。だから、思わず白々しい返事をしてしまったのだが、何から何までこの幼馴染にはお見通しのようで、度肝を抜かされる。
「えっと、確かグランプリ戦の特集ページだったかな」
多々良の言葉に少し指先を彷徨わせながらページを捲っていく。先日の九州グランプリでの兵藤組の写真が載っていた。散々雫からもらったアルバムで二人の勇姿を目にしていたというのに、結梨は胸元で風船がはじけそうになる。どうにか深呼吸をして堪えて、写真をまじまじと眺めた。
かっこいい。今度は、心臓がとろけそうになる。恋心を認めてから、ずっとこんな調子だ。
ちらり多々良のことを盗み見る。
――たーくんは、まだ、知らないんだよね。
知らないから、兵藤組のページをあんなふうに教えてくれたのだ。多々良はややぼうっとしながら天井を見上げている。だが、その指はリズムを刻んでいた。清春のことを打ち明けようか迷ったが、結梨はやめた。そして、今朝千夏と話したことを思い出して、話題を変えることにした。
「そういえば、ノービス戦だっけ? 出るんでしょ?」
机から多々良の方に向き直ると、椅子の下で足をぱたぱたと揺らして結梨は尋ねた。
「ちーちゃんから聞いたの?」
「うん。いよいよ二人の初試合だね!」
ニッと白い歯を見せる彼女とはうらはらに、多々良は、はあ、とため息をつく。
「試合は天平杯以来だから、緊張するなあ」
「そっかあ、じゃあ五ヶ月ぶりくらい?」
「五ヶ月、そうだね」
一、二、と指折りをして数える。多々良は思っていたよりも期間が空いているのを実感したのか、魂の抜けた顔をした。結梨は眉を下げた。
「カップル練、苦労してるって聞いた」
「ちーちゃん?」
「うん」
多々良ははあと今一度息を吐き出すと、ぐてんと肩を落とした。
「それがさぁ、本当、なかなか上手くいかなくて」
「二人でやる競技だから、余計大変だもんねぇ」
「うん。音楽に合わせて足型を合わせてるんだけど、全然合わないし、最悪」
練習のもどかしさを思い出すかのように、天を仰いで下唇を突き出す多々良を結梨は見守る。
千夏との不和はやはり堪えているようだ。
「やっぱり、まこちゃんの時とは全然違うし、自分の力量不足をほとほと実感させられるよ」
そう言って、多々良はありたけの苦い思いを吐き出す。結梨は以前ファーストフード店でシェイクを飲みながら聞いた話をふりかえった。
天平杯の時は、ある意味パートナー勝負だった。それゆえ、多々良は敏感に真子の反応をキャッチして、彼女を花にすることに徹したという。
だが、今回からはそうはいかない。真子と千夏は違う人間。そして、気色の違うパートナーである上、二人ともダンスを始めてから何年も経つが通ってきた道が異なる。
自分の経験のせいで苦労している、千夏がそう言っていたように、リードを学んできた人をパートナーにするということは、一筋縄ではいかないのだろう。
結梨はただ、多々良の気持ちに寄り添うように、柔らかく相槌を打った。
「リードするって、こんなに難しいと思わなかった」
目を数えるかのように指先で畳を弄りながら、彼はぽつりと呟いた。
――リードとフォロー。競技ダンスには切っても切れない言葉だ。
結梨は、競技ダンスについてこれっぽっちも知れなかったが、それでも、二人の関係性が重要ということは承知していた。男女の関係にあるかないかではなく、もっと奥深いところにある、人と人との関わりの真髄に近いような。
初めてダンスを踊った時を思い返す。生まれて初めてのワルツだった。いきなり要に踊れと言われて、仕方なく組まされた今となってはいい思い出のワルツ。ただ、出来映えは千夏に言ったとおり散々だった。しかし、それまで結梨はワルツのワの字も知らなかったのに、ステップを踏むことができた。
それは、本物からははるかにかけ離れたものとは言え、あの時ホールドを組んだのが多々良だったからだろう。
もしかすると、要や賀寿、そして清春も、彼女を簡単に踊らせることが出来るのかもしれない。パートナーの実力も、リード一つでどうにでもなると言う。それでも、傍若無人の要のカウントに合わせて、形なりにも踊ることが出来たのは、多々良の性格や癖、ふとした時の仕草を熟知していたからだ。
「幼なじみのたーくん」だから、安心して意識を委ねることが出来た。
その人生のほとんどを一緒に歩んできたようなものだ。彼は結梨を信頼していたし、彼女も彼を信頼していたから。二人は、互いの微かなシグナルを受け取って、ワルツを踊った。
実際のリードとフォローは、そんなに容易いことでもないのだろうが……。
「リードが全然伝わらないし、ちーちゃんも一筋縄じゃいかないし」
苦々しく歪められた多々良の表情に、結梨は胸を痛める。
競技に真剣になればなるほど、悩むことは増え、苦しくなる。競技だけじゃない、どの物事においてもそうだ。
彼を支えてあげられたら、とは思うが、いい言葉は思いつかない。いつもの調子で大丈夫、と励ますのも、今はなんだが無責任な気がして、軽はずみに余計なことを言ってしまわないように、結梨はゆっくりと息を吸い込んだ。
「相手に、言葉無しで伝えるって、すごく難しいことだもんね」
瞳を思考に沈めるように伏せながら、結梨は言う。
でも、と多々良は沈んだ声で続けた。
「ちーちゃんのリードは、すごく分かりやすかったんだ。だから、余計もやもやして」
「リードって女の人を、振り回せばいいわけじゃないし。相手のことを感じ取って、相手の思うようにすることでもないんでしょう?」
「……うん」
態度に出す訳でもなく、身体の動き、コネクション、言葉にならない言葉で会話をするように、一体感や一瞬の調和を生み出す。考えただけでも、宇宙の神秘について考えるかのように結梨には果てしなく思えた。
「競技ダンスって、凄いね。人生みたい」
結梨が言うと、多々良は目を瞬かせて「人生?」とおうむ返しをした。
「うん。そうやって、たーくんみたいに、伝え方を悩んだり、分かり合えないことに苦労したり、パートナーと関わっていく中で、自分を成長させてく」
”花と額縁”という言葉があるように、スポーツという枠を飛び越えて、ボールルーム・ダンスは芸術でもある。
“花”となるべき“絵”の周りを、その絵にふさわしい額縁が飾ることで初めて“芸術”として完成する。どちらが欠けても「作品」として成立しない。
作品として完成させる為に、美しさをいかに高めるか、あるいは、美しさの為に、男女が互いに何を享受していけるのか。
そして、スポーツでも、芸術でもあり、人との関わり合いを突き詰める、まるで、人生の縮図のようなものなのだと、結梨は思った。
カップル結成は結婚、カップルそのものを夫婦、そんなふうに呼ぶのを以前聞いたことがある。それらが、そういったボールルーム・ダンス自体の在り方から由来していると思うと、なるほど、頷けた。
「人生かあ」
多々良は噛み締めるように、その言葉を繰り返した。
「要さんには要さんの、ガジュさんにはガジュさんのリードがあるし、ちーちゃんにも、そうだよね。だから、きっと、たーくんにもぴったりなリードがあるのかも」
「そうかなあ」
「だって、人生は一人一人違うでしょう?」
十人十色の生き方があるように、リードだってきっと、そうであっていいのではないか。
多々良は彼らとも彼女とも全く違う人生を歩んできたし、性格だって違う。それでも劣っているなどと結梨は一度も思ったこともない。多々良の生き方や存在は、結梨にとっては、大切なものの一つでもあったから。
競技に関して、素人である結梨が偉そうに言えることでもないかもしれないが、それでも、彼女は多々良らしいリードがあると信じて疑わない。
強引に手を引っ張る、そんなリードではなくて――……。
ね? と小首を傾げながら、足をゆらりと揺らした結梨に多々良はうーんと思案するような仕草をした。
「なんか、結梨の言ってること、僕には難しいよ。分からなくもないけどさ」
「正直、わたしも、自分で考えててこんがらがってきた」
そう、やはり、宇宙の神秘を考えるよりも、難しいかもしれない。
張り詰めた意識から解放されるように、ふう、と伸びをしながら言えば、多々良も全身の力をだらりと抜いた。
「でも、そんなスポーツをやってるんだもん。たーくん、本当尊敬する」
「結梨くらいだよ、そんなこと言ってくれるの」
互いに、同じことを前にも言ったことがあるような気がして、二人は目を見合わせて笑った。
「でも、結梨が見ていてくれるから、僕は頑張れるよ」
照れたように頭を掻きながら「ありがとう」と言う幼馴染に、結梨は嬉しそうに息を吐き出し、髪を揺らす。
「たーくんが、見ていてくれるからだよ。二人で、色んなこと一緒にやってきたから。たーくんのこと、放って置けないんだよね」
「放って置けない、って」
「お節介おばさん、みたいな?」
「おばさんって歳じゃないでしょ」
多々良のツッコミに、結梨は笑いながら千夏のことを考えた。
多々良と相性が良くない、千夏はそう言っていたが、やはり、結梨にはそうは思えなかった。例えリードとフォローの相性が悪いとしても、多々良の彼女への関わり方が、どこかそう感じさせる。
不思議と、千夏と居る時の多々良を見るのは、嫌いじゃないのだ。
全く違う存在同士が惹き合った時、どのように科学反応が起こるのかも、人生の胡椒味。それならば、千夏との出会いや関わりの中で、彼がどう成長していくか、羨ましくもあり、楽しみでもあった。
多々良を見てくれる人が、彼が自分を出せる人が、もっともっと増えればいい。
「わたしは、たーくんのファン一号なんだから」
「結梨……」
瞳をゆらゆらと揺らす多々良は、どこか泣き出しそうにも、面映そうにも見えた。結梨は思わず温かな気持ちになった。今だけは、清春のことは隅に置いて、自分のまったりとした鼓動に耳を傾ける。
小さい頃からずっと、自分は多々良のことを見てきたからだろう。一度は二人の間の糸を、自ら断ち切ろうとしてしまったが、それでも、彼を想う気持ちは変わらない。時には、兄妹、あるいは親のように、はたまた、彼を尊敬する人間の一人として、結梨はずっと多々良を見守り応援してきた。これからも、そうだ。
彼ならきっと大丈夫。結梨はそんな確信があった。
「期待してるよ富士田選手!」
拳を握りしめてそう戯けると彼は顔をほんのり赤くして、くしゃりと目尻に皺を寄せた。
「ノービス戦、結果聞くの楽しみにしてるからね」
「うん、そうだね。楽しみにしてて」
とくとく、心臓が優しい音を奏でる。きっと、多々良のそれも、同じように鳴っているのだろう。
結梨はそうっと髪を耳に掛けて、心地良さに身を委ねた。
