それから暫くして、結梨は多々良から正式にカップルを組んだ報告を受けた。
部活のない放課後、少しずつ西日がその眩しさを増している中板橋の駅前を歩いていく。携帯に届いた写真を見ながら、よかったよかった、と心の中で安堵していると、トントン、と肩を叩かれた。
「結梨ちゃん、久しぶり」
「しずくちゃん!」
振り返ると、そこには、ブラウンのブレザーに胸元には赤の細いリボンという制服姿の雫が立っていた。
驚きと感動で、結梨は声を裏返しながら、「久しぶり!」と彼女に抱き着いた。雫も初めはきょとんとしたものの、すぐに頬を薄っすらと染めて、結梨の背に手を回した。
「会いたかったぁ!」
「私も。映画以来会えてなかったよね」
「あっという間に三ヶ月くらい経っちゃったね」
聞けば雫も学校帰りで、今日はスタジオには行かないらしい。二人は立ち話もなんだから、と、そのままどこかのカフェに入ることにした。
駅を渡って反対側の出口を出たところに、フレンチ風のダイニングカフェと、白い外装のこじんまりとしたカフェがある。落ち着いて話をするにはちょうどいい。それを思い出して、駅前を少し歩いて、銀行の前で線路を渡った。渡り終えてすぐを左に曲がって真っ直ぐ行くと、古本屋があり、その先の突き当たりにカフェはある。
会えていなかった期間を埋めるように、二人は高校生活の他愛もない話をしながら歩いていく。
カフェ・プースの看板を見つけて、――あれ、そういえば、と少し脚を止めた。
「どうしたの?」
雫が不思議そうに結梨を見た。
「ここ、たーくんのバイト先」
「え、フジ田くんバイト始めたんだ?」
「そうなの。つい最近ね」
「へえ。相変わらず、偉いよね」
多々良の父の知り合いが営んでいるカフェであり、その伝手を通じてバイトとして雇って貰ったという。ダンス費用を工面する為に、レッスンや練習の合間を縫って、シフトに入っていると聞いている為、雫の「偉い」という言葉に、――そうなの! 偉いの! と言いだしたくなる。結梨は自分のことのように笑みを浮かべた。
「一応、カフェ・プースはやめとこっか」
結梨の言葉に、雫も「そうだね」と頷きながら苦笑いを浮かべた。
今日この時間に多々良が居るとは限らないが、流石にバイト先に突然知り合いがやってくるのは嫌だろうと考えて、結梨と雫は隣の小さなカフェに入ることにした。
白い壁と紺色の軒先、綺麗に整えられているガラス窓とドア。どこか今時ながらも、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
ガラス戸を開くと、白いシャツにエプロン姿の店主が「いらっしゃい」と朗らかに迎えてくれた。
内装もシンプルで、白と木目調を基本とした優しい色合いだった。照明も窓から射し込んでくる太陽光に合わせて、ヴィンテージライクな電気傘の下の電球の明かりのみ。それでも、よく晴れた日だからか、とても明るく感じた。
「ここ初めて来た」
「わたしも。でも、なんだかいい感じ」
くるりと店内を眺める雫に、結梨も頷いた。変にチェーン店を選ばずに、少し奮発して冒険してみた甲斐があった。
メニュー表を見ながら、パンケーキが美味しそうだのチーズケーキもガトーショコラも捨てがたいだのと話す。結局二人はそれぞれ気になったものを一つずつ選んで、一口ずつ交換しよう、ということになった。
ケーキと一緒に雫はカフェ・ラテを、結梨は少し背伸びをしてカフェ・モカを頼んだ。運ばれて来たカップには、可愛らしいラテアートが施されていた。
「そういえば、これ、この間のグランプリ戦の写真」
暫くケーキとコーヒーを楽しんだあと、「ちょうど、撮ってもらったのをくれたんだ」と、雫がアルバムを差し出してきた。
結梨が多々良に会いに小笠原ダンススタジオを訪れて――結局、その日は仙石組に会って帰ったのだが――すぐの週末に、熊本でのグランプリ戦があった。兵藤組と赤城組ももちろん出場した大会である。
結梨は賀寿からその話を聞いていたが、まさか写真を見れるとは思わず、ぱちぱちと瞬きを繰り返して、雫からアルバムを受け取った。
「見ていいの?」
「うん、結梨ちゃん専用のアルバムだから、どうぞ」
「わたしの! ?」
目が飛び出そうなくらいに大きくして、パステルカラーの表紙に書いてある「二〇一八ダンススポーツグランプリin九州」の文字と雫の顔を交互に見た。肯定するように、柔らかく微笑んでカフェ・ラテに口を付けた彼女に、結梨は「ありがとう」と思わず声を上ずらせた。
「ガジュくんから、結梨ちゃんがダンスを見たがってるって聞いてたんだ」
たしかに、そんなことを話したような気がする。多々良と賀寿と三人でいつものお喋りタイムの時だったか。結梨は彼の姿を思い描いて、苦笑いを浮かべた。
「ガジュさん相変わらず世話焼きだね」
「妹みたいで、放って置けないんじゃない?」
妹――その言葉に、結梨はもごもごと「わたしって妹キャラなのかな?」とぼやく。
「そうなのかもね」
以前も賀寿に似たようなことを言われたが、他の人にも言われるとなると、相当、頼りない印象なのかもしれない。思わぬイメージに、ええ、と難しそうに眉を微かに顰めると、雫はくすくすと笑って、カフェ・ラテを口にした。
結梨は受け取ったアルバムを右手の親指と人差し指でそうっと捲る。「わぁ……」まるで魔法がかけられた絵本でも見たかのように、目と口を丸くして声を漏らした。
「雫ちゃん、綺麗」
「ありがとう」
今回のグランプリはスタンダード戦だったらしく、雫は濃い色合いのオーガンジー素材のドレスを纏っていた。三笠宮杯ではパールホワイトのドレスで純真無垢なイメージを抱いたが、今回は凛とした強い印象だ。どちらにせよ、雫は同い年とは思えぬ程に美しかった。
リーダーの清春も黒の燕尾服に、髪の毛をぴっしりと撫で付けて、威風堂々とした佇まいを醸し出していて、二人の姿は絵になる。
そんな雫と清春――兵藤組がホールドを組んで、ボールルームを舞う姿が何枚もの写真に収められていた。
「なんかもう、やっぱり二人は凄いなあ。写真なのに、今にも動きだしそう」
「カメラマンもプロの人だったし、上手く撮れてるでしょ」
三笠宮杯以来――写真ではあるが――彼らのダンスを見るのは久々だったので、見ているだけでワクワクした。
一枚一枚、彼らは全く違う表情を見せてくれる。華が咲くような笑みを浮かべたと思えば、張り詰めた緊張感を漂わせるかのように眼光を鋭くする。それだけではない。ホールドからポスチャー、そして衣装のはためきまでもが、彼らの踊りに合わせて、その表情を変えている。
綺麗、美しい、格好いい、凄い。それ以外に上手くこの感動と高揚を言葉に出来ないのがもどかしい。
「雫ちゃん、良くこんなに背中がしなるね……」
「これは、スロー・アウェイ・オーバー・スウェイっていう技なんだよ」
「あ、ピクチャーポーズって魅せる時の決め技だ」
「そうそう、良く知ってたね」
「たたらから教えてもらったんだ」とはにかむと、ページを捲る。最後の一枚で結梨は、指を止めた。
雫が次のステップに移る一瞬だろうか。右足を重心に左足をフロアに残して、清春の上体が美しくスウェイしている写真だった。
――見ろ。清春の声が聞こえた気がした。
赤とも茶ともつかない質感の良い髪は撫で付けられ、聡明そうな額が露わになって、彼の造形の美しさを際立たせる。どこかを見上げるシャンパンブラウンの瞳は、きりりと見開かれて、煌めく光を灯していた。挑戦的に笑みを讃える口元には白い歯が見え、まるで「どうだ」とでも言っているかのようだ。
――あの兵藤清春が、歯を見せて笑ってる! こんなに愉しげな清春を初めて見た。
ワルツだろうか、タンゴだろうか、それとも――結梨には分からなかったが、思わず呼吸を止めて、その写真に釘付けになってしまった。
「ふふ、いい写真でしょ?」
雫の声掛けにハッと肩を揺らして、視線を上げる。こくこく、と首を縦に振るその彼女の頬は桃色に染まっていた。
「清春が選んだの」
「これ?」
「うん。最初は私に任せるって言ってたんだけどね」
どれにしようと写真を机に並べて見ていたら――これ、と指をさして一言。
結梨は雫が言うように、清春の声を思い浮かべた。
「清春がそんなこと言うなんて、少しびっくりしちゃったよ」
確かにそうかもしれないと思って、結梨は「兵藤さんが選ぶなんて、明日は雪でも降るかな」と写真を眺めながら呟くと、雫も「言えてる」と言って、くすくす笑った。
「ホント、あんなに面倒そうな顔してたのに、このアルバム見せたら、満更でもなさそうだったのよね」
「ふふ、なんかそれ、想像出来るかも」
「なんだかんだ、結梨ちゃんに見せたかったんだろうね」
そう言われると、正直照れるものだ。
結梨は口元を隠すように、指先で触った。そして、もう一度写真を眺めた。
「……格好いい」
「でしょう?」
気が付けば、口にしていたらしい。愉しげな声を上げてこちらを覗き込む雫に、結梨はやってしまった! と心の中で叫び声を上げた。
「いや、その」と焦りながら口籠っていると、「それ、あげるから家でもゆっくり見るといいよ」と言われてしまった。今すぐにアルバムを抱き締めてしまいたくなったが、どうにか堪えて、そうっと閉じた。
「ありがとう、嬉しい」と礼を述べて、ぎこちない手つきで鞄の中にそれをしまう。無垢な瞳が結梨を見守っていた。
くらくらと眩暈がするような思いでカフェモカを飲む。先程まで熱々で飲めなかったそれが、今はもう温くなっていた。
「結梨ちゃん、清春のこと、好き?」
「えっ! ?」
予想だにもしていなかった突然の問いに、大きく肩を揺らして結梨はまじまじと雫を見た。
だが、かえって首を傾げて、確かめられるように、瞳を覗き込まれてしまう。牽制とかそういうものではないことはわかったが、とうとう、この時が来てしまったか、結梨はどきりとした。
心臓が厭にけたたましく鳴り出した。
カップをゆっくりとテーブルに置いて、「えっと……」と視線を泳がせる。どうにも落ち着かない。なんと答えたらよいのか。そして、カップを包む手に視線を落ちつかせると、一つ呼吸をした。
意を決したように唇を開く。
「あの……わかんないの」
「わかんない、の?」
掠れたような小さな声で紡ぐと、雫はどうして? と言いたげな表情を浮かべた。結梨は肋骨の下あたり「蝶々でも舞い込んだのではないかと、疼くのを感じながら、指の腹でカップを微かに擦り、カフェ・モカを眺めた。
綺麗なラテアートが今はもう形を崩してどこかへ行ってしまった。
「わかんない、というか、なんというか……複雑で、うまく言えないんだけど」
ゆっくりと言葉を唇に載せながら、清春の姿を思い描く。きらきらと輝いて、いつだって、胸を温かくしてくれた。だが、それに反して、言葉尻は萎んでいった。
胃の中を吐き出したくなるようなのをどうにか堪えると、胸がずきと軋んだ。
「わたしなんかが好きになっていい人じゃないんじゃないかって、思って。雲の上の人っていうか……」
「……それ、清春が聞いたらきっと悲しむ」
「え……?」結梨は恐る恐る視線を擡げた。
「私も、少し、悲しいな」
物思いに沈む雫の瞳。まるで二人の間にカーテンが敷かれてしまったかのようだった。
不意にきゅっと心臓のあたりを絞られたかのような心地が沸いた。
「結梨ちゃんにとって、私もそうなのかな?」
「ちがっ!」
結梨の声が、狭い店内に響いた。
水を打ったように静まり返って、いくつもの視線が彼女に向けられた。人々の会話に埋もれていたはずのBGMが聞こえてきて、結梨は嫌に波打つ自分の脈に呼吸が苦しくなる。
――そんなんじゃない。言いたいことがあるのに、言葉にはならない。吐き気を催しながら、唇を微かに震わせた。
「一回、出ようか」
見兼ねた雫が出した提案に、結梨は俯いて頷いた。逃げるように荷物を纏めて、会計をする。カラン、とドアの呼び鈴が鳴り終わるまで、二人は黙っていた。
店を出て、夕焼けに包まれる。辺りは穏やかな空気が漂って居た。
それとは裏腹に、考えが言葉にならなくて、ただ結梨は何度も何度も呼吸を繰り返した。感じていた閉塞感が薄れて、空っぽだった肺に空気が満ちた。
「あのね」暫くして話を切り出したのは結梨だった。
「そんなんじゃ、ないの。しずくちゃんはわたしの大事な友達で、確かに、凄い人だと思うけど、それだけじゃなくて」
「大丈夫、慣れてる」
「大丈夫なんかじゃない!」
大声を上げた結梨に、雫が目を丸くした。
「友達なのに、一線引いてるみたいなこと言われたら、傷付いて、当たり前だよ」
「でも、仕方のないことだよ」
「そんなの、やだっ」
雫の言葉を聞いて、そこで初めて、何一つ彼女や彼のことを考えていなかったことに気付かされたのだ。結梨は自分可愛さに、彼らの努力や積み上げてきたもの、そして、彼ら自身を無意識に否定してしまった。
遣る瀬無さに、下唇を歯で押さえつける。
「わたし、大切な人のこと傷付けてばかりで、本当、嫌になる……本当は大好きで、もっともっと近付きたくて、でも、上手く言えなくて、自分から距離を置いてきた」
途切れ途切れの言葉の合間、脳裏に浮かんできたのは、幼馴染の姿だった。
へにゃり笑って、「仕方ないね」と諦めたように頭を掻く彼の目には、薄っすらと膜が張っていて、決して彼女には涙を見せなかったが、酷く悲しそうな眼差しを浮かべていた。自分は彼女に見離されたのだ――と。
途端に彼の存在が遠くに行ってしまった気がした。自分が、そうしたというのに。
小学校六年生、寒さが一層厳しさを増した冬のことだった。彼に一言も言わずに、彼女は私立中学への進路を決めた。暦はもうすぐ春になるというのに、晴れやかな気持ちはいつまでも訪れなかった。
――なんて、勝手なのだろう。結梨は、拳を握った。
「もう、そんなのは嫌だ」
声が、震える。
「わたしは、しずくちゃんのこと、大好きだから、もっと仲良くなりたいから!」
頭の中がごちゃごちゃだ。言いたいことが上手く纏まらない。何を考えればいいのかも、どう伝えればいいのかも、わからなかった。だが、結梨は悲しげな雫を見るのが嫌だった。雫が、清春が、幼馴染と同じように、傷付いた顔で平静を装って「しかたない」の五文字を紡ぐのが、嫌だった。
握り締めた拳。爪を手のひらに食い込ませながら、必死で彼女は想いを吐露する。
雫は、開いていた唇を閉じて、真っ直ぐに結梨を見ていた。
「二人は、わたしにとって、輝いてる人だから。わたしなんかがって、どこかで思っていて、この先の関係が壊れるのも、怖くて」
「結梨ちゃんは、素敵なところたくさんあるよ」
結梨は、苦しそうに頭を振った。
「結局、自分のことばかりで、わたし、二人のこと全然考えてなかった」
鼻の奥が、ツンとした。大きく息を吸い込むと、吐息が震えた。
「ごめん、ごめんねしずくちゃ……」
今このタイミングで、泣くなど卑怯だと思うも、溢れ出す感情を塞き止めることは出来なかった。泣き出しそうに震える声、白くなるまで噛み締められた唇。雫の姿が滲む。
「嘘吐いたの、多分、わたし、兵藤さんのこと……」
言い終えぬうちに、彼女の瞳から大粒の感情の結晶が零れて、頬を伝った。
雫は眉を下げてやんわりと微笑んで、彼女の背にそうっと掌を添えた。まるで、大丈夫、と言うように。結梨は言葉に詰まり、しゃくりあげる。それでも、雫は背を撫でるのをやめなかった。
「結梨ちゃん、ありがとう」
何に対しての礼なのか、結梨は分からなくて、首を振る。彼女の優しさと自分の情け無さに涙がさらに零れ落ちていく。
「嬉しいよ、私」
「どう、して?」
「結梨ちゃんが、そうやって打ち明けてくれたこと。それにね、清春をちゃんと見てくれていること」
ゆるゆると揺らめいていた瞳を閉じたあと、「酷いこと言ってごめんね」と、雫は困ったように笑った。だが、どこか幸せそうで、面映さを孕んでいた。
結梨は再び首を振る。唇をぎゅうっと結んで、涙を止めようと、目を何度か強く瞬かせる。滴が何滴か頬を伝っていく。それらを手首で拭えば、雫が水色の綺麗な色のハンカチを取り出して、「擦っちゃ駄目だよ」と、そうっと目元に当ててくれた。
滲んだ世界が、少しだけ、元に戻った。
目元が熱くて、頭が重い。それでも、鼓動はこの瞬間もとくりとくりと鳴っている。
怖いと感じていたのは、日に日に大きくなっていく感情から目を背けて、逃げてばかりいる自分と向き合うことだった。昔のように、自分の気持ちを偽り、封じ込めて、同じことを繰り返すのはもう御免だ。
結梨は深呼吸をして「あのね、しずくちゃん」と、涙に濡れた睫毛を揺らして、少し背の高い雫を見上げた。
「私、兵藤さんのこと、きっとね――……」
もう一つ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「すごく好き」
言葉にした途端に溢れ出す気持ち。腹の底から沸き上がって、喉を突いて外に飛び出たがっている。震え上がりそうなほど、熱を帯びて、指先まで血液が行き渡る。
はむ、と唇を噛んで、照れを隠すように、髪を頬にさらりと落とした。
雫が、目を細めて、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「嬉しい。私、応援するよ」
「あっ、でも、まだ付き合いたいとか、そんなんじゃないの」
目元を赤くして震える声をあげる結梨に、「大丈夫」と柔らかなソプラノが紡がれる。
「結梨ちゃんが落ち着くまで、私は何も言わない。二人の間執り持つような、変なこともしないから」
「気を遣わせて、ごめんね」
済まなそうにもじもじと指先を動かすと、雫はその手をとった。
「気にしないで、大好きな友達の為だもん」
そして、包み込むように握って、無邪気に歯を見せた。
