「たーくん、やっぱりわたし帰るよ」
フルーツの盛り合わせを抱えた多々良のジャケットの裾を引っ張って、結梨は言った。
「ええっなんで」
「だって、ちょっと気まずいし」
「僕としては結梨も居てくれると助かるんだけどな」
「そうかなぁ」
結梨は息をゆっくりと吐き出しながら、そっと手を離した。
今二人は病院に居る。白衣を纏った職員達が忙しなく動き回る中、彼らは一つのドアの前でそんなやり取りをしていた。
目の前の大部屋の名前欄には、兵藤清春という名が記されている。
「兵藤くん、ごめんなさい!」
「……何してるのたーくん」
「謝る練習」
いきなり頭を下げた多々良に、変な目で彼を見たものの、結梨彼の背中にそっと手を置いた。
要発案の替え玉事件は、予想以上に重い処罰を下された。
――選手登録規定違反として、六ヶ月の競技会出場停止。半年もの間、清春と雫は公式の試合には出ることが出来なくなった。
多々良はそれを聞いて以来、見かける度に顔色が悪かった。さらには、胃痛がする、と弱々しい声で結梨に零すこともあった。そんな多々良を結梨は少し心配していた。
半年の謹慎は長いのか短いのか、そして、どんなものなのか、正直言ってわからない。彼女は自分の事に置き換えて考えみようとも思ったが、上手くはいかなかった。ダンスの世界の取り決めだとか、詳しいことは結梨にはわからないからだ。やはり、彼らは自分のとは違う世界の人なのかもしれない。彼らは凄い世界にいるのかもしれない。その考えがぐるぐると頭のなかを回っている。
結梨にはただ、漠然と彼らと幼馴染を案じることしか出来なかった。
――怒ってるかな。
結梨は真っ白なドアを見つめた。
多々良があのフロアに引っ張り出されたのは、要が清春の足の怪我を案じての咄嗟の判断だった、と聞いている。だが、それは逆に清春を煽ってしまった。
多々良のワルツは、清春の中で何かを変えたのだ。ダンサーに於いての、煽り煽られるという言葉が、結梨にはピンと来なかった。だが、多々良の感情を剥き出しにして踊るワルツは、稲妻のような衝撃を感じたのは確かだった。
それが、あの清春の原動力になったと言うのなら――結梨は表札から視線を外して、フルーツのたっぷりと載った籠を抱いて、不安そうに目を伏せている多々良を見つめる。
やはり、自分の幼馴染はすごかったんだ! と彼女は彼を誇らしく思い、目を細める。
彼女としては、幼馴染の活躍がなんだかんだ嬉しかったりもした。それだから、――二人が絶交とかにはなりませんように――と結梨は心から願うのだった。
再び視線を持ち上げて、兵藤清春の名前を瞳でなぞる。
結梨は清春の燕尾服姿を脳裏に思い描いた。
綺麗に撫で付けられた焦げ茶色の髪、キリッとした目元。綺麗で美しくて、まるで絵画を見ているような、光景だった。彼がステップを踏むたびに、ゆらりと揺れるような感覚に誘われる。これまで見て来た何よりも神秘的で、迫力があって、――格好良かった。
熱を帯び始めた身体に、結梨は手を額に当てた
「たーくん、兵藤さんの足、大丈夫だといいね」
「うん」
頷いた多々良の顔は、晴れないままだ。
タンゴを終えて、ぷつりと糸が切れたように意識を失った清春は、救急車で運ばれた。それ以来彼の姿は見ていない。
一先ずは清春が無事であることを祈って、二人はドアに手を掛けた。
「あれ? 兵藤さんなら、今朝早く帰られましたけど」
「えっ」
「ええー!!」
通りかかった看護師がなんとなしに発した言葉に、多々良と、そして、ちょうどそこにやって来た岩熊は驚愕の声を上げた。
結梨は多々良と岩熊とは別れて、電車に乗って自宅の最寄駅まで帰って来ていた。
岩熊とは面識が無い。一緒に過ごすのもどうかと思い、「先に多々良の家に行っているから」と言って、彼女は病院を後にしたのだった。
清春が病院に居なかったことで、結梨は内心ホッとしていた。絶対に、今、彼に会えば顔を真っ赤にして、まともに目を見ることが出来ない自信があったからだ。
結梨はあの三笠宮杯で、清春が踊る姿を見て、その場に腰を抜かしてしまった。
あの迫り来る気迫だけが原因ではないのは、彼女にはわかっていた。
清春のダンスを見たのはあの時が初めて――あの一度だけ。それでも、格好いいと思っていた彼の真剣で情熱的な姿を見て、冷静では居られなかった。清春がタンゴを踊るあの姿は、刺激が強すぎたのだ。
脳内が清春だけで埋まって、ひたすら胸の高鳴りを聞いていた。どくどくどくどく。壊れてしまうのではないかと思った。
普段のあの掴み所のない彼とは違う。獲物を捉えて逃がさんとする鋭い眼差しとキレのある首振り、ブレない背筋、そして、彼が吼えた姿、どれもが結梨の中にある清春像を遥かに超えていった。思い出す度、胸がぎゅうと締め付けられ、呼吸が浅くなり、身体が震えてしまう。穴が有ったら、入ってしまいたくて堪らなくなる。
そんな調子で彼に会うのは気まずかった。
「って、考えちゃだめっ」
結局、彼のダンスを考えるのはやめようと思っていたのに、再び清春の姿を細部まで思い描いてしまった。
最寄駅に着いたという電車のアナウンスを聞きながら、頭をブンブンと左右に振った。
「たーくんが煽った、か……」
そして、それを頭の隅に押し遣るように幼馴染の姿をスライドさせていく。ゆったりとした曲調のシャンソンが脳内で流れ始めて、結梨は肩の力を抜いた。
駅を出ると、結梨はアーケードをくぐって商店街を行く。
結梨の着ているワンピースの裾元がゆらゆらと揺れている。冬に近づき始めていることもあって、時折吹く風が冷たい。羽織った厚手のロングカーディガンの袖を伸ばして、指先を隠した。
暫く歩くと、結梨は文具屋の前で足を止めた。
白いはずの看板が薄汚れて茶色味を帯び、昔懐かしい雰囲気を醸し出している。入るかどうか暫し迷って、視線を俯かせる。
だが、意を正すと、結梨は冷んやりとしたガラス戸を押した。
「結梨ちゃん、久々だね」
「あ、店長さん、こんにちは」
カウンターに居た店主に声を掛けられて、結梨は少し肩を揺らしたが、すぐに会釈を返した。
店内はそう広くはないものの、至る所に文具や画材が置かれている。店員は老いた店主だけ。そういえば、時折、奥さんも店番を変わって居たっけな、とぼんやりと頭の隅で思い返す。
「結梨ちゃんの好きな筆もあるし、新しい色もたくさん置いてるからね」
ゆったりとした優しい声色に、結梨はぎこちなく強張っていた頬を緩めて、頷いた。彼女の中で、頑なだった何かがじんわりと溶け出すようだった。
店内の奥にある油彩画コーナーに向かって行くと、見慣れた豚毛の筆と、以前見た時よりも色とりどりの絵具のチューブが並んでいた。
結梨は、「わあ」と目と口を開いてそれらを食い入るように眺める。
――そろそろ新しい筆にしようか、とか、――ああこのブルーは珍しい色だ、とか。あれこれ心の中で呟きながら、結梨は自分がワクワクしていることに気がついた。店に入るまでは、あんなにも緊張していたというのに。
画材店に来るのは久々で、それこそ、絵が思うように描けなくなってからは
あまり近づかないようにしていたのだ。
自分がどんな気持ちになるのか、わからなかった。少し、怖かった。――もし、また塞ぎ込みたくなってしまったら、と。だが、結梨はホッとした。
その場で、ゆっくりと目を閉じる。
今、彼女の瞼の裏にはあの眩いボールルームが広がっている。幼馴染の多々良が、感情を剥き出しにしてワルツを踊り、雫の白いドレスがひらひらと揺れて、彼らの残滓を散りばめて行く。
彼女は三拍子のリズムで指先を緩やかに打った。
どくどく、と心臓が大きく鳴っている。その音に支配されていくように、身を委ねる。大きくうねるような渦に飲み込まれながら――……その鼓動の音は、とても心地が良かった。
結梨は深呼吸をすると、そうっと、カーディガンに仕舞った手を伸ばした。
