05

「要さん!」
 一際目立つ大きな背を見つけた。
「遅くなってすみません」という言葉とともに、彼のもとに走り寄る。だが、近付いてみると、妙な空気が漂っており、どうしたものか、結梨は首を傾げた。
「遅えぞ」
 などと言いながら、そんな彼女に要は親指で後ろを示す。
 ひょい、と彼の大きな体から顔を出して覗き込んだ瞬間、結梨は目を見開いて固まった。
「えぇっ、た、たーくん!?」
「結梨……」
 そこには、真っ黒のあの燕尾服を着た幼馴染の姿があったのだ。
「たーくん、出るならそうと言ってくれればよかったのに……」
「これには、ワケがあってね!?」
「プロデュースは俺だ。見れたもんだろ」
 ふん、と鼻を鳴らしながら結梨の肩を抱く要に、多々良は信じられない、と手を太ももの横で握って震わせる。結梨は思わず二人の顔を見比べた。
「よくわからないですけど……パートナーさんは?」
「聞いて驚け、略奪愛成功だ」
 鼻を鳴らした要の視線の先を探すと、優雅なスタンダードドレスに身を包んだ雫が居た。
 ぴっちりと綺麗にあげられた髪の毛と、大人びた化粧、そしてあのひらひらと煌びやかなドレス。いつもよりも神秘的な雰囲気を纏う彼女に、結梨は息を飲む。
「花岡さん、綺麗……」
 ほう、と口元に手を当てる。
「結梨、そのしずくがたたらのパートナーだ」
 ぐっと肩を抱きよせられて、結梨は今の自分の状況に気が付くと、先程の多々良と全く同じように、目を見開いて要を見上げた。だが、すぐに彼の言葉にハッとした。
 ふはは、と笑う彼に結梨はぷるぷると体を震わせる。
「たーくん、花岡さんと踊るってこと!?」
「そうだ。運良く兵藤の代わりを務めることになったわけだ」
「全然、運良くないですよね!?」
 げっそりした多々良を見て、ひええ、と慌てる結梨を肩を掴んで振り向かせる。
「結梨、これで心置きなく兵藤を狙えるな」
「えっ!?」
「これはチャンスだぞ」と悪そうな顔をして告げられると、結梨は言葉を失った。
「全く、揃ってウブな奴らだぜ」
「仙石くんは結梨ちゃんを離しなさい!」
「イテェ!」
 環のお陰で要からは解放されたものの、結梨の脳内は彼の言葉にショート寸前だ。おまけに心臓もこれでもかというほど波打って痛い。
 環に「ごめんね」と謝られるが、ただ、こくこく、と首を上下に振るのが精一杯だった。
 深呼吸をして、多々良にそっと視線を向けると、彼は、おどおどとした調子で燕尾服姿で雫を伺い見ていた。
 そもそもどうしてこうなったのだろうか。結梨は首を傾げてみるがどうにも話が読めない。だが、彼女のリーダーである清春の姿が見えないのは確かだ。
 このままだとあの綺麗に着飾った雫のダンスが見れないのかもしれない。そう思うと悲しくなった。
「兵藤くん、どこいったのかしら」と思案する環に、結梨はあっと小さく声を上げる。
「そういえば、わたし、来る途中に会いました」
「本当!? どこらへんかしら?」
「エントランスからすぐの階段降りたところだったと思います」
「そう、じゃあやっぱりお手洗いの近くかしら……」
「今仁保くんが探しに行っててくれてるんだけど」環が不安げに要を見遣る。だが、要は眉間に皺を寄せて、首を横に振った。
 ――やっぱり、たーくんがやるしかないのかな……と、結梨は再び多々良の背を見つめた。するとその背中の綺麗さに、ふと気がついた。
 幼馴染の彼はいつも自信が無さそうに背中を丸めていたはずなのに。背中に着いたゼッケンがピンと張っていて、すうっと伸びていた。
 自然と気持ちが落ち着いて、肩の力が抜けていく。いつのまにか、あの嫌なドキドキは別の高揚に変わっていた。
「たーくん!」
 多々良が振り返る。
「結梨、うまく踊れなくても、笑わないでね……」
「笑わないよ絶対。わたし、たーくんがあそこで踊るの、見てみたいから!」
 あそこ、とフロアを指差して、結梨は頬を上気させながら興奮気味に言った。
 多々良は尚更顔を青くする。
「結梨……」
 結梨までそんなことを言うのかと多々良は弱々しい声を上げるが、彼は燕尾服を脱ぐつもりはないようだった。
 結梨はガッツポーズを作って、大丈夫と言い聞かせるかのように頷いて見せた。
 ――何かが起こる、そんな気がしたのだ。

 

『スタンダード部門、二次予選』
 雫に手を掴まれて、多々良がフロアへと踏み込んだ。清春の不在を知らぬ観客から、歓声が一気に湧き上がる。
 多々良の存在に気が付いた仁保達が要を懲らしめている間、結梨は幼馴染のその姿から目が離せなかった。眩いほどの照明が燕尾服の彼を照らしている。ごくり、息を呑んで、鞄の肩紐を握る手を緩めた。
「右足出して!」
「ナチュラルターンだよ!」
「あいつ、頭ん中真っ白なんじゃねぇか?」
「シャドー練を思い出せ!」
 腕をあげたまま小刻みに震えている多々良に、フロア傍から声を掛ける彼の講師達。
 結梨には、もうその声が聞こえていない。
 ワルツの音楽が鳴り始める。雫が多々良に寄り添って、クローズド・ホールドを組んだ次の瞬間――右足から滑るように踏み出した。
「なっ」
「これって、兵藤くんのバリエーションじゃないの!?」
 多々良は重心を滑らかに動かしていきながら、フロアを舞っていく。それは、慣れたような優雅な足取り――結梨は知らないが、普段清春と雫が得意としているワルツのバリエーション――だった。
 動揺している要達を置いて、結梨は彼に釘付けだった。
 胸の奥が熱い。血液が一気に身体中を駆け巡る。瞬きも惜しむように、大きな目で背番号「20」を追う。
 肩紐を片方だけ肘まで落として鞄を開くと、フロアから目を離さぬまま、鉛筆とスケッチブックを取り出した。そして、素早く表紙を捲る。するりと肩から鞄を床に落とすと、ドサ、と音が鳴った。
 その音に気が付いた要が隣を見て、目を見開いた。
「結梨……お前」
 彼女は一心に手を動かしている。まるで紙を撫でるように、その手に迷いはない。
 彼女の瞳に映る物を探して、要は口元に手を遣る。
 ――そこには、楽しさや幸福、それらの感情を剥き出しにしてワルツを踊る多々良が居た。
 真剣な眼差しで、唇を少し開いたままの結梨の横顔。要の声も視線も、彼女には届いていない。まるで、彼女の周りだけ世界が違うかのようだ。あどけなさの中にどこか凛とした美しさが生まれ、飲み込まれていく。
 それは彼女しか持つことの出来ない空気感だった。
 ――どんな風に、アイツが映ってるんだ。
 どんな気持ちで幼馴染を見ているのだろうか、どんな風に彼女の瞳には彼が映っているのか、思わず垣間見てみたくなって、要が思わず口元を歪めていることに、結梨は気がつく筈も無い。

 

「おい、結梨」
 要の声にハッとして、結梨は鉛筆を離した。
 カラン、と床に転がる細い鉛筆。それを要が拾いあげる。
「あれ、音楽止まってる……?」
「ワルツはとっくに終わったぞ」
「嘘! たーくんは?」
「あそこ」呆れた様子で要は指を指した。
「帰ってきたんですか?」
 くるりとそちらを振り向けば、多々良が環や番場、仁保達に抱き止められて頬を染めている。曲が鳴り終わって、最後にズボンの裾を踏んで転んでしまったものの、彼はあのヒートを踊りきったのだ。結梨はそのことに気が付いて居なかったが。
 いつの間に清春のバリエーションを盗んだのか、と仁保に聞かれて、多々良は照れ臭そうに頭を掻いている。
「たーくん、無事でよかった……」
 結梨はそれを見てホッとしたあと、要に向き直ると、差し出された鉛筆を受け取った。
「お前、そんなの見たら兵藤が悲しむぞ」
「え?」
「急に黙り込んだと思いきや、絵なんぞ描き出して」
 要は、胸に抱えられたスケッチブックに視線を落としている。
「居ても立っても居られなくて」
「アイツの踊ってる姿に?」
「はい。たーくんのあんなところ、初めて見たから」
 恥ずかしそうに目を細めながら、頬を薄っすらと桃色に染めて、結梨は愛おしそうにスケッチブックをぎゅと両手で抱きしめていた。
「そんな表情、させるのがアイツってのも、なんか腑に落ちねェな……」
 要は腕を組んで、気難しそうに眉間に寄った皺に親指を当てる。
 結梨はそれに首を傾げるも、「あれっ!? 鞄がない!」と肩に背負っていた筈の鞄がないことに気がついて、辺りを見渡し始めた。
「バッグなら下」
「あっ、本当だ。ありがとうございます要さん」
 いつの間に置いたんだろう、などとマイペースにも身体を屈めて床に落ちた鞄を拾い上げる彼女に、要は溜め息をひとつ吐き出した。
 汚れてしまったかと鞄の底を払う――その時、結梨の目にある姿が映り込む。結梨は手を止めた。
「清春! どこ行ってたのよ」
「あの、兵藤くん、ごめん。裾が長くて転んじゃって……でも、良かったよ兵藤くんが来てくれて」
 清春に駆け寄る雫と、多々良。
「次、タンゴだよね? その……が、頑張って……!」
 多々良は焦って捲くし立てるように言うも彼は何も返さない。ぼんやりと、やはり彼も多々良のワルツを見ていたのだろうか、と考えていると、結梨は清春と目があった気がした。
 ――鋭い眼差しで射抜かれた一瞬。
 ずる、と彼は床を鳴らした。
「返せ」
 結梨はびくりと肩を揺らして、持っていたスケッチブックを手放してしまうのと、彼が多々良の胸ぐらを掴むのは、同時だった。