「たーく……たたら! なんで教えてくれなかったの!?」
茹だるような暑さもその尾を鎮め、からりとした太陽の光と、涼しげな風が人々を包む九月。爽やかなサッカー日和を他所に、呼び鈴と共に、小笠原ダンススタジオ内に可愛らしい叫び声が響いた。
フロントに居た環はもちろん、スタジオ内の要たち講師も皆その動きを止めてエントランスに視線を向けた。
「結梨!? なんでここに!」
少女の目当ての人物である多々良は、シューズをガリガリと削るのをやめて、唖然とした表情で固まっている。
「な、なんでって」少女は言葉を詰まらせた。
「そんなことより! 習い事始めたなら教えてくれたらよかったのに」
「べ、別にいいでしょ、何でもかんでも結梨に話すことじゃないし」
「む、たたらはそんな意地悪なこと言うんだ!」
「そういうわけじゃないけど!」
彼の身内だろうか。言い合う姿はとても親しげだ。
多々良が身内にダンスを始めたことを言っていないのは、この場にいる全員が知っていることだ。兄妹も年の近い従兄妹もいないと言っていたのを頭の片隅に思い出して、――それじゃあ一体? ――と彼と彼女のやりとりを、皆首を傾げて眺めている。
アルトソプラノの声が少しずつ大きくなっていく。多々良は少女にたじろいだものの、彼も彼とて引く様子はない。
「なんだ? アイツの女か? ガキのくせに一丁前だな」
スタジオに居る人々の注目を集めて悪目立ちしてしまっている彼らに、見兼ねた要が、ひょい、とフロントの方へ顔を覗かせながら尋ねる。
静かに様子を見守っていた環は、一度要に視線を向けて肩を竦めて返事を返すと、多々良と少女の方へと向き直った。
「あの、たたらくん? その子は?」
環に声を掛けられた途端、我に帰ったように周囲に目を向ける多々良と少女。
先程まで気色を変えて、お互いに言い争いをしていたというのに、環や要たちの視線に気付くと、今度はもともと大きな瞳を一度開いたと思いきや、しゅん、と小さくなってしまった。さらに少女は多々良の二の腕を掴むと、彼の後ろにひょいと隠れた。
「結梨?」
「やっちゃった……」
「ああ、そっか。そうだったね……」
急に自分の後ろで静かになったのを疑問に思った多々良だったが、真っ赤な顔を多々良の背に埋めてしまった少女に、彼は納得したようで、眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「ええと……この子、僕の幼馴染で」
――幼馴染、と聞いた環と要は互いに視線を合わせると、何かを企んでいるように口元を緩めた。
「たたらくんの幼馴染! お名前は?」
「あの、如月結梨です」
背中から少し顔を出しながら、おずおずと小さな声で言った。
「結梨ちゃんね」
「丁度いい、たたら、こっち連れてこい」
「「えっ」」
要の手招きに多々良と少女――結梨の声が重なる。
「ねえ、たーくん、本当に行かなきゃダメ?」
「あぁ、うーん」
こそこそと話し出す二人に、要は早くも痺れを切らして、ダン、と床を足で鳴らした。
「オイ、たたら、逆らうのか」
「滅相もございません!」
「ひい! たーくん!」
「元はと言えばここにくる結梨が悪い!」
蛇に睨まれた蛙のように飛び上がったあと、多々良は背中に未だにくっついている結梨を逃さないように手で押さえて、一際照明の明るいダンススペースに進んでいく。
「よう、たたらの嫁」
「嫁!?」
「嫁じゃないです!」
二人の息の合った反応に、周囲に居た環や仁保たちは緩やかに笑った。
だがそれに対して結梨はまたしても顔を赤くして、多々良の背中に顔を押し付けてしまう。嫁と言われたことよりも、初対面の多数の人間に注目されることが彼女は得意ではないようだ。
「そんなのはどっちでもいい。結梨、たたらと踊れ」
結梨は要の言葉にびくりと肩を揺らして、恐る恐る多々良の背中から顔を出した。
「あ、の、結梨って、わたしっ?」
「ああそうだ!」
急に名前を呼ばれたことに結梨は動揺して聞き返すが、要は頓珍漢な彼女の反応にも狼狽えず、「結梨はお前だろ」と呆れた表情を見せた。
「どうだ? 結梨」
だが、小動物のように自分を見上げる彼女の瞳を見ると、さも良いことを考えついたとでもいうように鼻を鳴らす。
突然のことに困惑して、多々良の腕をぎゅと掴むと、結梨は彼の顔を見遣った。
要の言うダンスとは多々良が始めたばかりのボールルーム・ダンスのことである。結梨は今まででテレビの中でしかそれを見たことが無い。
――それを踊れ、だなんて。
成り行きでここまで来ただけの結梨には、要が軽々しく言った言葉を実現させるのは到底無理に思えた。そして、多々良も同じことを考えていたようで、驚きと戸惑いの混ざり合った複雑な面持ちをしている。
「いや、結梨ダンスなんてやったことないですよ!」
「なんだ、お前ベーシック・ワルツは完成させたんだろう? 結梨を相手に俺に見せてみろ」
「そ、そんな無茶な」
「また、名前で……」
結梨は二人の会話など耳に入ってこないようで、要の口から自分の名前が連呼されるのを気にして、赤い顔で多々良に助けを請うような視線を向けている。
「で、出来るかわかりませんよ!」
「なんだ。結梨はどんと構えてるぞ」
実際はそうではないのだが、要は、「お前にリードして欲しそうに見つめてるだろう」と多々良を唆す。狡いことに、こういった時の要の表情はいつになく真面目そうに見える。
多々良も多々良で戸惑いを隠さないまま、結梨を見返してごくり、と息を呑んだ。
「結梨、踊りたいの?」
「え?」
「そうだろう、結梨!」
多々良と要の顔を交互に見ながら、結梨は目を瞬かせる。
「はいって言え、結梨!」
「はい!」
半分ほど会話の内容が頭に入ってきていないまま、結梨は要の剣幕に押されて、大きく頷いてしまったのだった。
「なんでこうなってるの!?」
「結梨がはいって言ったんでしょ!」
そう言うわけで、今、多々良と結梨は要たち小笠原のスタッフ一同の前で、ワルツを踊る為にホールドを組んでいる。
中学生女子の平均的身長である結梨は、多々良のことを困惑の表情で見上げていた。
ダンスなんて、小学校の運動会や、キャンプファイヤーでの催しくらいでしかやったことがない。そもそも、そのダンスとは訳が違う。
大丈夫だろうかと不安になって喉がからからしたが、一方で、多々良は幾分か落ち着いた様子で結梨を見ていた。
「あれ、思ったより組みやすいかもな……」とぼそりと呟くのが聞こえた。
「本当にやるの?」
恥ずかしさと戸惑いに、結梨が瞳を伏せる。
「ここまで来たら、やるしかないよ」
「やったこともないのに……」
「僕がなんとかリードするから」
多々良は済まなそうに眉を下げるも、大きく深呼吸をする。リードが何だかもわかっていない結梨だが、多々良の言葉に小さく頷いた。
「仙石くん、大丈夫なの?」
「またアンタはたたらを実験台にして……」
「まあ見とけって」
緊張した面持ちの環と仁保とは裏腹に、要はオーディオのスイッチを入れた。
優雅なワルツの曲が流れ、要の手拍子と共にカウントが始まった。
「ひゃっ」
小さく悲鳴をあげる結梨。だが、その足は不思議なことに、するりと一歩踏み出していた。
何故足が自然に動いているか、そこまでは考える余裕はなかった。――たたらくんに意識を委ねるように、と、始まる前、環に言われたことだけを念頭に、必死で意識を集中させている。
「あれ、踊れてる……」
「下手くそだがな」
環の感心するような声に、要は腕を組んで仁王立ちをしながら鼻で笑う。
非常にぎこちないモーションではあるが、二人は、ワルツのリズムに合うようにステップを踏むことが出来ていた。
――スロー・スロー・クイック。
結梨にそのベーシックな足型を教えたわけでもないのに、多々良と彼女はワルツを踊っていた。
「あれ、フジ田くんがカップル練してる」
ちょうどそこに、雫がやって来た。
ワルツを踊る二人を見て、鞄を背負ったまま、興味をそそられたように少し目を丸くして、「ここの生徒さん?」と環に尋ねる。
「ううん。彼女、たたらくんの幼馴染なんだけれど、仙石くんに即席カップル組まされちゃって」
「へえ。じゃあ、初心者?」
「そう、全く未経験のね」
「仙石さんも無茶苦茶するね」
要の横暴さに苦笑いを浮かべる雫だが、多々良と結梨のワルツを愉しげに眺めていた。
要のカウントは未だ止まない。表情は無く、一見つまらなそうに彼らを眺めているが、微かに目が細められている。
結梨は全くの初心者だ。競技ダンスの「き」の字も知らない。今も初心者にありがちなように、ホールドを組む手や肩が時折震えてしまっている。
だが、何故だか、目が離せなかった。
始める前に、環を通してアドバイスをしたのが功を奏したのか、結梨は必死な眼差しで多々良を見上げていた。多々良もそれを受けているのを理解しているのか、先程までの戸惑った表情は無く、時折結梨を見返しては、教わった基本の足型を頭いっぱいに浮かべてステップを踏んでいく。
多々良のリードは、リードと言っていいものかどうかは曖昧なところだ。だが、実際に結梨を導いている。
要は彼の互いの仕草や癖を熟知した上での動き方に興味を惹きつけられていた。カウントをする手が一向に止まない。
――カランカラン、と鈴が鳴る音がして、もう一人ワルツの見学者がやって来た。
「ふああ」と、気怠そうに欠伸をしながら頭を掻いている。だが、フロアを前にすると動きを止めて、瞳だけを擡げた。
「だれ」
「あ、きよは……」
「うわぁっ」
雫が声を小さくあげて振り返ったその時、二人がバランスを崩してフロアに転げてしまった。
