第四幕 第五話

 よくあたたまったちろりをお登勢さんから受け取るわたしの横で、やってらんねぇよな、とかなんとか、銀さんはぶつぶつとつぶやいている。
「だから、ちょっと悪かったかなって、思ってるって言ったじゃないですか」
「あーでたでた、最近の若者はすぐそうやって。悪かったとかなんとかいいながら、反省の色を見せときゃいいと思いやがってよ、全然誠意が感じられないんですけどォ?」
「誠心誠意まごころ込めてますう。そりゃ、ちょっと、手のひらに力を込めすぎたかな、なんて」
 だって、銀さんが変なことするから……というぼやきは心にしまい込む。
 日も暮れてすっかり夜の帳のおりたかぶき町。背後で常連のおじさんがキャサリンと話している(喧嘩しているとも言う)声がにぎやかに聴こえる。いつもどおりの景色の中で、少しだけ心は落ち着かない。
 まだ、あのときの感触が手首に残っている――気がする。バニラストロベリーの香水のにおいを嗅ぐために掴まれた感触。いやいや、このお話お色気話じゃないんですけど。お色気担当ヒロインじゃないはずなんですけど、そんなまさか。いやたしかにドレス着せられてウフフアハハしたことはあるけど、まさかそんな。
 どんどん思考が回転していく。忘れたいのに忘れられないって、こんな感じなのかしら。しかしそんなこと悟られるのも嫌なので、銀さんのおちょこへ熱燗をそそぐ前にお酒を飲み干した。
「おーい、凛子ちゃん、俺のは」
「わかってますよ、喉が渇いてたんです、喉を潤わせたかったんです」
「いやいや、銀さん殴ったお詫びなんだから、先に注ぐよね? 主役待つよね?」
「銀さんがまともなことを言うなんて……」
「言っとくけどよォ、俺もこんなこと言いたくねーわけ。いつまで経ってもチャランポランな男でいたいわけ。でもオメーらみてーな脳みそパッパラパーどもが集まってるとな、ホラ、自然とな? 自然とまともになっちまったわけだ」
「髪の毛パッパラパーの奴が馬鹿言ってんじゃないよ」
 ドン、とまかないのチャーシュー丼が出て、それまでのしんみりした空気が吹き飛んだ。――しんみり? 馬鹿言え。というのは、脳内の銀さんだ。いやだ、銀さんが脳内に棲みつくなんて。
「まともな男は、行きずりの女に酒をたかるかってんだ」
「はいはーい、意義ありィ。俺がおごれって言ったんじゃなくて、この暴力女が殴ったお詫びにおごるって言ったんでーす」
「ヘエ、いい機会じゃないか。あと二、三発殴ってもらいな。そのやる気のない顔も引き締まる」
「ハァ? 今どきこういう顔が流行ってるんですう、ダウナーとかアンニュイとか? 深淵の瞳、みたいな? 流行の最先端なんですう」
「ヘエ、ダウニーとアンチョビね」
「ちげーから」
 まったく、いつもどおりの二人だ。バァさんついに耳まで遠くなっただなんだと応酬が始まる横で、さっさと銀さんのおちょこに熱燗をそそいで、レンゲを手にとる。
「……おいしそう」
「あァ、凛子は初めてだったね」
 目の前には香ばしいにおいのするどんぶり。
「はい。お登勢さん特製白髪ネギたっぷりチャーシュー丼、神楽ちゃんに聞いて食べてみたかったんです」
「おーい、お嬢さんがた」
「そうかィ。ならじっくり焼豚こさえた甲斐があったもんだ。横の体たらくな男に取られる前に食っちまいな」
「ダメだこりゃ」
 うそですよ、と、不貞腐れ始めた銀さんにチャーシュー丼を渡す。
「あれ、お前食わねーの」
「昼間、デパートで買い物してきたので、あいにく一杯分しか手持ちがなくて。だから銀さん、今日はそれと、この熱燗飲んだら帰りますよ」
「いや、誘ったのお前だからね。それと殴ったのも」
「細かい男は嫌われるって、このあいだ結野アナが言ってました」
「俺の結野アナがそんなこと言うわけねぇだろ」
 そういうわけで、銀さんを平手打ちしてしまったお詫びのスナックお登勢だ。銀さんのほっぺたにはうっすら紅葉が浮かんでおり、なんだかんだ言いながらすまない気持ちが込み上げる。
 でも、びっくりしたのだ。銀さんがあんなふうに触れるから。――あんなふうに? またもや思い出しそうになって、唇を隠しながらお酒をあおる。
「バァさん、取り皿ひとつ」
 というのは銀さんの言葉で、子どもサイズの陶器の茶碗を渡された銀さんはレンゲを手にチャーシュー丼をよそっていく。
「いいのに、銀さん」
「いや、なに考えてんの? これ、俺が食うやつだから」
「……期待したわたしが馬鹿でした」
 でも、結局、渡してくれるのが銀さんだ。
「金のねー女からたかる趣味はねェ」とかなんとか、どんな矜持だと思うが、これぞ坂田銀時節である。
 渡された小皿にはチャーシュー二枚とネギとごはんと。タレのついたごはんは、神楽ちゃん曰くこれだけで五合は米が食えるアルとのこと。
「おいひい」
 頬張ったわたしの横で、銀さんはお酒をあおった。
「そりゃーよかった。俺ァ銀時丼のが好きだがな」
「銀時丼ってアレでしょう、あんこが載ってるやつ」
「お前いまあんこ馬鹿にしただろ? ごはんにあんこ、最強じゃねえか。PPAPより最強だよ。全国のおはぎ好きに謝れ」
「はいはいごめんなさーい」
 白いご飯にラー油のかかった白髪ネギ、それからお登勢さん特製のチャーシュー。どこにでもあるような単純な丼ものなのに、とびきり特別な味がする。きっと何時間もかけてチャーシューを煮込んだのだろう。お登勢さんのおでんを思い出すような気がしてつい頬がほころんだ。
「ったくよぉ」と、ぼやきながら銀さんも丼をかっこむ。銀さんには、申し訳ないことをした。いや、あんなこといきなりする銀さんが悪いのだけれど。でも、ひとりで長屋に帰るより、よっぽどよかったかもしれない。
 なんだかんだ、救われてしまうのだ。
「次は一個ずつ頼みましょうね」
 多めにもらったチャーシューを一枚銀さんの丼に返しながら言うと、「おー」と気だるい声がかえってきた。

 

 スナックお登勢を出てから、川沿いの屋台でおでんをつまんで、結局いつものコースで帰路についた。
 朝起きればなんだか体が重くて、さすがに食べすぎたかとしょぼくれる。もう若くねーだなんだと言われることが増えたが、たしかにそうかもしれない。だって、確実に二十歳のころとは体の調子が変わっているのだ。
 あのころはいくらでもカラオケオールできた気がするし、いくらお酒を飲んでも、次の日はほんの少しの二日酔いだけで済んだ。それが、今じゃこれだ。
「さすがに、塩分とりすぎたわ……」
 鏡の前で自分の顔を見てみれば、ほんのり下まぶたがぷっくり。涙袋ならば許せるものの、これは憎きむくみである。食べすぎた身体に天誅! ――そんなCMがあったようななかったような。せめてサプリメントでも飲み始めるべきかもしれない。
 まだまだ若いはずなのに、さすがに齢には勝てないのか。だが、そんなことを口にすればお登勢さんや女中のみなさんに半殺しにされかねない。
 ――まあ、遊び方は考えるべきかしらね。
「寝不足と塩分は女の敵……っと」
 顔を洗って、化粧水をひたひたとつけながらぼやく。でも、それでも楽しくて、ついついいろんなことに手が伸びてしまうのだ。
 かぶき町に生きていること。それが、わたしにはうれしい。そう考えると、今度はひとりでに笑みが込み上げて、どうにも顔の締まりがなくなってしまった。
「今日はお気に入りの帯でいこうかしら」
 昨日買った着物が届くのも、楽しみだ。重たかったはずの体が軽くなって、ついわたしは跳ぶような足取りで居間に戻ると衣紋掛けにかけていた着物を羽織る。
 今日も一日が始まる。
 いつもどおりの一日――そう思っていた。

「凛子ちゃんどうかしたのかい」
 屯所について、女中部屋で支度をしていたわたしに声をかけてきたのは一番年長の先輩女中だった。ここへやってきたときからよくしてくれている人で、齢のせいかこのごろは洗濯を干すのが辛くてねと言うが、女中の中でだれよりも仕事が早く彼女の板張りの技術は一級品だ。
 柔和な雰囲気ながらきびきびとした動きでやってきた彼女は、のんびり袖をからげていたたすきの紐をきゅっと縛りあげる。
「すみません、ちょっとぼんやりしちゃって」
「なんだい、好い人でもできたのかい」
「そうだったらいいんですけどねえ」
 巾着からのぞいていた一通の手紙をサッと中へ押し込んで、笑みをかえす。
「男には気をつけなよ、ちょいと優しくすれば、すぐつけあがって。凛子ちゃんは特に押しに弱そうだからね、いいかい、連帯保証人にだけはなっちゃいけないよ」
「連帯保証人」
「そうそう。あれは破滅への第一歩だからね」
 人生の先輩に言われると、なんとも重みがあるものだ。
 そのあとも、恋愛心得の指南はいくらか続き、「肝に命じておきます」と言うと、それじゃと先輩女中は部屋から瞬間移動のように消えて、ひとり取り残される。
 あいかわらず、疾風みたいだ。それとも風神さまか。ひとつ息をつくと、先ほど仕舞い込んだ手紙を取り出した。
 宛名はない。送り主の名もない。ただ、なんの変哲もない、白い手紙。封切ったそれを開くと、ひと言。

《――昨日の男はだれ?》

「凛子ちゃん、そろそろ昼餉の支度初めてもらっていい?」
 部屋の向こうからそんな声がして、わたしは顔をあげた。
「すみません、いま行きます」
「頼んだわぁ。松平さんからたんまりふきのとうが届いてるから、今日は忙しくて」
 手紙を再び巾着の奥に隠す。
「ふきのとう、春の味ですね」
「そうそう。凛子ちゃんはご飯炊きながら、ふき味噌用意して」
「わかりました」
 ――間違いだろう。そう思い、個人用ロッカーに鍵をかけ、女中部屋をあとにした。

 仕事が始まってしまえば、考えごとをする暇もないほど忙しくなる。広い屯所内を駆け回って、掃除洗濯炊事、遅番だったこの日は隊士たちのお腹を満たすのに欠かせない白米を大鍋で炊くことから始まった。加えて、先ほど同僚が言っていたとおり、ふき味噌づくりだ。
 たんまりと籠いっぱいに積まれたふきのとうを、ひたすら洗って下処理。アク抜きのために水に晒したあとは、湯がいて水気を絞りみじん切り。量が量だから、他のおかずの支度をしながらふき味噌を作るだけで午前が終わってしまった。
「いいにおいがするなあ」
 と、食堂へ入ってきたのは近藤局長で、見ているこちらがふと肩の力を抜きたくなるような屈託のない笑みを浮かべていた。
「松平さんからたんまりふきのとうをいただいたんですよ」
「ああ、そうだったな。とっつぁんが凛子さんにと張り切って摘んだと言っていたよ」
 まさか直々に摘んだものとは思わなかったが、新鮮な春を一番に味わわせてくれたようで、胸があたたかくなる。
「ごはん、大盛りにしておきますね」とひと言添えて炊き立ての白米を茶碗によそう。においにつられて、沖田さんたち一番隊の隊士の方々も続々と食堂へやってきた。
「そうだ、凛子さん」
 食べ終わった食器を戻しながら、近藤局長は声を落としてわたしに話しかけてきた。
「明日から、例の仕事が始まる予定です」
 あ、と思い、濡れていた手を布巾で拭って居住まいを正す。
「はい、存じております。万事屋には内密に、ですよね」
「なに、そんなに堅くならずとも構いません。ただ凛子さんのお耳にも入れておいたほうがよろしいかと思いまして」
 信じていますから、と迷いもなく彼は言う。それをこそばゆく思いながら、わたしは眉をさげてきれいになった食器を預かった。