第三幕 第八話

そういうわけで、わたしたちは階下のスナックお登勢に訪れた。
「ばーさん、こいつになんか旨いもん出してやって。あと、酒」
 あ、俺にも勿論な、と言い添えながら、銀さんは椅子によっこらせと年寄り臭く座る。
「銀時、アンタそんな金持ってんのかい」
「んなわけねぇだろ、こいつの金だ」
 さも当たり前というように答える銀さんに、お登勢さんは、だろうと思ったよ、と呆れると、棚から一升瓶を手に取った。
「こやつに金がないのは慢性鼻炎と同じようなモンだからね。早速貢がされてんじゃないよ、凛子」
「そ、花粉症はシーズンものだけどな鼻炎ってのは一年中つきまとうんだよ」
「銀さん、開き直らないでくださいね」
 小指で鼻をほじる、そんな男を放って、温めるかい、と訊かれる。
 お願いします、と頭をひょっこり傾げて答えると、お登勢さんはちろりに酒を注いで湯気の立つ鍋に置いた。
 一緒に徳利とお猪口も湯煎する。熱燗の作り方なんて、あまり気にかけたことがなかったが、こうしてみるとやはり趣深い。特にちろりなんてものは、かぶき町に来て初めて見た。
 じ、と眺めていると、銀さんが「それで」と横から言葉を投げかけてくる。
「お嬢さんは、なにそんなしみったれた顔してんの」
 やはり、酷い顔をしているのだろうか。
 お嬢さんなんて歳じゃありませんけど……などと頬を膨らませつつ、熱燗ができるまでのあいだ、胸を覆う靄について話すことにした。
 すまいるのヘルプに入ったこと、そこで、松平さんや近藤さん、そして副長に会い、叱られたこと。それらを掻い摘んで話すと、銀さんは、ふうん、と気のない相槌を打った。
「そんで、そんな世紀末みてーな顔してたわけか」
「情けないとはわかっているんですが、ちょっとショックが大きくて」
 ゆらりゆらりと湯気がたゆたう。
 事のあらましを思い返して肩を落とすわたしに、銀さんは気だるく瞳を半開きにして、こちらを見ることもなくやれやれと肩を竦めた。
「カーッ、典型的な最近の若者だねお前は。ハングリー精神っていうの? それがなくてダメよもう。打たれても打ち返すぐらいしねーと、この先、生きていけねぇよ。これだから、最近の若者は」
「家賃滞納三ヶ月、ギャンブル依存症で糖尿病のアンタに言われたかないね」
「ババア、俺はまだ糖尿病じゃねェ。一歩手前で踏ん張ってんだ」
「どっちでもいいさね」
 まあ、そうだろう。銀さんの言う通りだ。
 自分の不甲斐なさにショックを受けて立ち止まっていても仕方がない。それなのに、わたしは密かに息を吐いた。
 そうこうしている間に酒が温められたらしく、お登勢さんはちろりから徳利に酒を注ぐ。それから、さっと手ぬぐいで徳利とお猪口についた水滴を拭い、わたしたちの目の前に置いた。
「はいよ」
 置かれた徳利からは仄かに湯気があがり、日本酒の甘い香りがする。大きくそれを吸い込むと、またしても涙腺をくすぐられる。
 ――だめね。
 肩を落としていると、横から手が伸びて、銀さんが、「冷めねぇうちに飲もうぜ」と弛んだ声で言いながら徳利を奪った。
「んじゃ、またしても無職になる凛子にカンパーイ」
「まだ、クビじゃありませんからぁ」
 そんなことを言いながら、軽くお猪口を合わせた。
 ちびちびと熱燗を舐めながら、ぼんやり目の前を眺める。お登勢さんはこちらに背を向けて、なにやら食べものの仕度にとりかかっているようだ。
「でもよぉ」
 銀さんが思い出したように切り出した。
「なんでまたそんなことで、あのマヨネーズ野郎はそんな怒ったわけ。松平のオヤジなんか、お前がいたってありゃ相当喜んだんじゃねぇの」
「局中法度にあるんです、副業はダメって」
「へー。別にお前女中だし、んなのそこまで気にすることねーんじゃねーの。次から気をつけりゃいいだろ」
 アイツ絶対カルシウム不足だろ、マヨネーズばっか食ってっから、あれ? マヨネーズってカルシウム入ってるっけ? などと銀さんは首を捻っている。相変わらず邪険に扱うのは変わらないようだ。
 わたしは、それに眉を下げて、「さほど、大目玉を食らったわけではないんですよ」と返した。
「切腹とか、謹慎とかも、言い渡されてもいないですし。ただ、せっかく誘って頂いたお仕事なのに、あまりにも当たり前のことができていなくて、その自分に嫌気が差したというか」
 ――ああそうだ。分け隔てなく接してくれた副長に、わたしは恩を仇で返すようなことをしてしまったことが、情けなくて、切なくて、悔しかったのだ。
 言いながら緩んでいく涙腺を決壊させぬために、笑みを作りお猪口の腹を指の腹で撫でる。
 銀さんはまたしても、ふうん、とやる気のない相槌を打った。だが、今はそれが救いでもあった。
「いい大人のくせして、わたし、ほんとう馬鹿みたい。考えればわかることなのに、調子乗って、考えなしに行動して。至らない点ばかりで、幻滅させちゃいました」
 本当、だめですね、と呟いて酒をあおる。思いがけず、辛味が鼻をつき抜ける。
「お前はそんなモンだよ」
 銀さんは親指と人差し指でお猪口を掲げながら低い声で言った。
「それって、慰めてくださってるんでしょうか」
「えー? 慰められてない? おっかしいなあ」
 そのままお猪口を口に運んで、銀さんはクイッとお酒を飲み干した。空になった白いそれに、わたしはゆるりとした手つきでお代わりを注ぐ。
「本当適当ですよね」
「あー、ったく、一々うるさい女だよお前は」
 文句を返しながら今度は彼がわたしの手から徳利を奪う。
「いい大人とかいい歳してとか言うけどな、小さいころ憧れてた二十歳はもっと大人っぽかったなんてよく言うだろ。人間八十過ぎてもきっとそんなことばっか言ってんだよ」
「たしかに、そうかも」
「だろ? まあ、アレだ。あんなマヨネーズ野郎のことは飲んで忘れろ」
 空になる前のわたしのお猪口に酒を注ぐ銀さん。その目元は、もうすでにほんのり赤らんでいる。お酒に弱いのは相変わらずなようだ。
 かくいうわたしも、少しずつ回ってきたアルコールが、程よく現実を包み込んで、今だけは張り詰めた糸がゆるりと弛む感覚に浸りつつあった。
 ひっそりと横にいる銀さんを眺めて、「オイ、ババア、新しいのくれ」と徳利を振る姿に、わたしは目元を緩めた。

「つうか、前々から思ってたんだけどよ、お前ってちょっとズレてるよな」
 お登勢さんに徳利を渡したあと、銀さんはカウンターに肘を突き、ふるりと銀色の髪を振るいながら言った。
「……そうでしょうか」
 思いがけず、声が小さくなる。銀さんはそのまま頬杖を突くと、横目でわたしを一瞥した。
「ま、本人が一番気付かねぇこったな。お前のこと、言っちゃなんだけど酷い扱いしていた奴のところにわざわざ正面きって行くなんざ、よほどの天然か変な奴しかいねぇよ。天然か、天然なのか、お前。その歳で天然ぶってもかわいくな――」
「今日、もう奢りませんからね」
「なんでもないでーす」
 ふ、と息を吐いた後、手の中のお猪口を見つめる。
「わたしも思うんですよ。元から、信頼なんてなくって、監視のついでに手元に置かれたのかな、とか」
 白い陶器のお猪口は、するりとしていて、口触りも、手触りも良い。酒の透明さが際立ち、一瞬の淀みも見当たらない。
 みぞおちのあたりが、ひっそり疼いた。
「ならなんでわざわざ、引き受けるかねぇ。だから、お前は危機管理能力がないっていうんだよ」
 銀さんは、呆れを含めたからりとした声を横から投げかけてくる。
「……信じてみたかったのかもしれません」
 ゆっくり、視線を上げた。大きな鉄鍋を前におたまを手にしたお登勢さんの背や、湯にかけられたちろり、ほんのりと湯気を纏う、棚に並べられた酒瓶たち。
「この町なら、この世界なら大丈夫だって」
 目の前の世界をぼんやり眺めながら、疼きが伝わって震えそうになる手を口元へ運ぶ。また一口、日本酒に口をつけた。すっかりぬるくなって、先ほどまで鼻に抜けた辛味が薄まり、まろやかな甘みが後に残った。
 銀さんは、はあ、とため息を吐いた。
「お前さ、いつか絶対詐欺にあうだろ。事故に遭ったから金振り込んでとか、この壺を買ってくれとか」
「そんなことをしてあげるほど、お人好しじゃないですよ」
 くすりと自嘲するわたしに、銀さんはそうかよ、と低い声で呟き、同じように目の前の世界を眺めた。ただ、なにを考えているのかは、やはり見当もつかないまなざしで。
 スナックお登勢は、キャサリンの不在もあってか、珍しく静かで、いつもの喧騒が嘘のようだ。
「オイ、ババア、酒まだかよ」
 彼はカウンターの下で長い脚を組み替えると、熱燗のお代わりを催促する。
「ハイハイわかってるよ、今ちょうど出そうと思ったとこだ」などと返しつつ、お登勢さんは迷いのない手つきで、それでいて焦らすようにゆったりと熱燗を用意していた。
 いつものやりとりを眺めながら、わたしは少しだけ麻痺してきた思考で考える。
 わたしは、認めてもらいたかったのだ。この世界で生きている、一人の大人として。
 そして、この世界は、あの人たちは、認めてくれるって、心のどこかで過信していた。同時に、どこか、軽んじていたのだ。この世界で生きるということを。
 ――馬鹿ね、ほんとう。
 ひとりでに、大きく息を吐く。
 すると、だしぬけにほんのりと赤らんだ目元がそうっと向けられた。
 なんです、と言おうとして、銀さんの睫毛がゆうるりと揺れた。
「今日、泊まってけ」
 甘い日本酒の香りの合間をたゆたうような低い声。温かみのある照明に淡く光る瞳。その流し目の艶やかさに、わたしは息を呑む。
「え……」
 あの時と、一緒だ。赤い瞳が、わたしを射抜いている。顔が途端に熱くなる。
「神楽に会いてぇんだろ」
「まあ、そうです、けど……」
「どーせこの調子じゃ、お前、潰れそうだし。おぶってお前んち帰んのだるいから。アイツも喜ぶだろ」
「……じゃあ、お言葉に、甘えて」
 顔を隠すために、少し俯くと、頬に髪がはらりと落ちた。
 歯切れの悪いわたしに、銀さんは怪訝な顔つきをした。
「んだよ、嬉しくねーのか。……って、まさか、凛子チャンったら、銀さんとの熱い夜を思い出しちゃったワケ?」
「な……」
「アンタたち、そういう仲なのかい」
「断じて違います!」
 間髪入れずに会話に割り込んだお登勢さんに否定をしつつ、ぷーくすくす、と先ほどの艶やかさが幻のように意地の悪い笑みを浮かべる銀さんに、余計なこと言わないでくださいよ、とカウンターの下で太ももを殴る。
 それでも意味深に眉をあげるお登勢さんに、違いますからね、と頬に落ちた髪を耳にかけ直すわたしだった。
「ま、こんなことに動揺するんじゃ、立派な大人にゃほど遠いってこったな」
 熱燗が出来上がり、差し出された徳利に礼を述べて、銀さんと、自分のお猪口に酒を注ぐ。
「そんなこと、あるかもしれませんけど」
「つーかさぁ、うじうじしすぎ。うじうじうじうじ、お前は憧れの先輩に告白するか迷う女子中学生ですかコノヤロー」
 銀さんはお猪口に手を伸ばして、零さぬように口に運びながら言う。
「大体ね、お前、人生なんて、そんなモンなんだよ。俺なんか今日もパチンコで大外れ。世知辛いったらありゃしねぇよ」
「また、パチンコ行ったんですか」
「やべ、今のなし」
 ジト目を向けるわたしに、銀さんは「まあともかく」と矢継ぎ早に続ける。
「失敗したことねェなんていうのはアレだ、エジソンくらいだよ。けど、アイツ、失敗してるからね? 失敗って言わないようにして、カウントしてないだけだからね?」
「エジソンって、お茶目なんですね」
「ふざけたジジイだぜ。あーあ、アイツも電気の球じゃなくて銀の玉大量に生み出してくれたらよかったのによ」
「エジソンを近所のお爺ちゃんみたいに言わないでください。というか、銀の玉から離れてください、永久に」
 なんだかんだ言いながら、ちゃっかり慰めてくれている銀さんに小さく、ありがとう、と言う。「別に」と彼はまた一口お酒を煽った。つられて、わたしもお猪口を傾けた。
「……辞める気はねェんだろ」
 ややあって、静かに銀さんは口にした。
 眉をハの字にして、わたしはこっくり頷く。
「俺としちゃ、なんでそんなとこにこだわんのかわかんねェけど。つーかやっぱり給料いいの?」
「まあ、それなりには」
「決めた、俺も雇ってもらうわ」
「バカなこと言ってんじゃないよ」
 ごとり、わたしたちの目の前に、小鉢が置かれた。中には大根と、がんもと、こんにゃくと、はんぺんと、たまご。合わせだしのいい匂いがする。
「アンタみたいな公務員が居たら、いよいよこの国は終わりさね」
「んだとコノヤロー」
 諍いを始める二人をよそに、わたしはその匂いをぐっと吸い込んだ。匂いに釣られるがままお箸を握り、いただきます、と手を合わせる。だし色に透き通った大根に、お箸を通す。すっとすぐに切れた。
 そして、口に運ぶ。
「美味しい」
 とろけるような舌触り、噛んだ途端にじゅわ、とだしが染み出して、奥の深いだしの味わいが口の中に広がった。
 先ほどまで話していたことも忘れて、わたしは大根をもう一口と、がんもと、と一種類ずつ口に運んではじっくり味わう。
「お登勢さん、美味しいです」
 銀さんと言い争いをしていたお登勢さんは、すっと着物の袂を整えて、そうかい、と煙管を咥えた。
「あの、これどうやって作っていらっしゃるんですか?」
 おでんは、簡単なように見えて結構難しいのだ。見よう見まねで作っても、思うように大根に味が染みなかったり、はんぺんが崩れてしまったり、練り物の味が抜けてしまったり、それなりの出来になってしまう。
「料理には、守らなければならない手順ってのがしっかりあるのさ」
 紫煙をくゆらせて、お登勢さんは静かに言った。
「手順……」
「ああ、適当にやって、それなりには作れる。けれど、守ったらよりよいものが作れる」
 なるほど、そんなふうに唇を半開きにしているうたに、こっちに来な、と誘われた。椅子を降りて、ふわりと浮きそうになる足をしっかりと踏みしめる。
 カウンターの中へ入って、お登勢さんの横に並びながら、おでんの煮込まれたお鍋を覗き込んだ。
「お出汁のいい香り」
 ふわっと身を包んだ香りに、わたしはうっとりと頬を綻ばせる。
 鍋の中には、崩れることもなく、いい塩梅の色合いに煮えた具材が出汁の海から顔を出していた。たまごはつるりと美しく、はんぺんは出汁を吸ってふっくら。見るだけでも美味しさが伝わってきた。
「そう、おでんには出汁が命。料理は出汁で良し悪しが決まると言っても過言じゃない。だが、おでんには大切なことがもう一つある」
 なんですか、お登勢さんを見上げる。彼女は薄っすらと瞳を細め、唇を微かに弓なりに引いた。
「決して煮立たせないことさ」
 煮立たせないこと……? 目を瞬かせるわたしに、お登勢さんは続ける。
「美味しいおでんの掟さね。煮立たせたとありゃ、出汁が濁り、その上風味が逃げちまうからね」
「でも、しっかり煮込まないと、味は染みませんよね?」
「まあね。だから、おでんは弱火でじっくり煮るのがいいんだよ」
「弱火……」
 半信半疑のわたしに、お登勢さんはコンロのツマミを勢いよく右へと回す。カチカチ、とガスコンロが鳴って、火がついた。轟々と燃え盛る。慣れたてつきで今度はツマミを左に回し、「このくらいさ」とお登勢さんは火を小さくした。
「こんなに弱くていいんですか?」
「ああ。弱火で長い時間をかけて、味を染みこませる」
 わたしはじっとその火を眺めた。
 息を吹きかけたら、消えてしまいそうな小さな火。でも、そう容易く消えることなく、青い火が鍋底をそっと撫でている。
 胸の内に、ひとつの光が宿ったようだった。
「ま、何事もそうさね、強火で一気になんて楽考えるんじゃないよ」
「老婆は一日にして成らずっていうしな」
「テメェ熱々のこんにゃく、その口に突っ込んでやろうか」
 横槍を投げた銀さんがブーメランのごとく返ってきた低い声に、へいへい、と言ってお猪口に口をつける。
 お登勢さんは居住まいを正すと、丁寧な手つきで、出汁をすくった。
「じっくりじっくり、様子を見ながら煮るんだ。材料も、最初から全部入れるんじゃないよ。入れるべきタイミングってのがあるもんだ。ひとつひとつ丁寧に、じっくり気持ちを込めて。そうしたらきっと味が染みて、舌だけじゃなく、心にじんわり溶けるような奥の深い味わいになる」
 濁ることなく、綺麗に金色に透き通った、出汁。
 お登勢さんの言葉をひとつひとつ胸に刻むわたしの後ろで、銀さんはこちらを眺めながら、静かにお猪口を傾けていた。