※サラリーマン時代の話。
※人を選ぶ話かもしれないのでなんでも許せる方のみどうぞ!
甘い快感をこの身に受けながら、すべらかな肌に浮かぶいくつもの流星を辿る。
大きな肩、広い背中、厚い胸板、逞しい腰。彼のからだに刻まれたその傷痕を、指先で数えて、「すき、」どれほど愛おしさを抱えれば気が済むのだろう。
触れようとするたびに遠ざかり、遠ざかるたびに近づいて、それはきっと永遠の波打ち際。
無情にもやさしい潮騒が鳴り遠くに星が落ちていく。きっと、手にすることはかなわない。
「ななみくん」
「はい」
「ななみくん……」
すき、だいすき。
愛の言葉ですらも、波に呑まれて。
「七海、また大型株売ったってよ」
すれ違いざま、先輩が話しているのを聞いた。やるよなぁアイツ、続く言葉に胸を膨らませながらわたしは廊下を歩く。
突き当たりまでいくとそこが営業部のオフィスだった。
昼休みの半ば、人があらかた出払ったオフィス。今はキーボードをカタカタと打ち鳴らす音もしない。他愛もないおしゃべりが弛緩した空気に漂う中、わたしは並んだラップトップ群からひとつ抜きん出た頭を探す。
(いたいた)
そっと早足で歩み寄ると、わたしは声をかけた。
「七海くん」
将来有望だとうわさされる同期、七海建人。彼は整った姿勢のまま横に立つわたしを見上げた。
「どうかしましたか」
「どうもしない。ただ、七海くんが頑張ってるって話を聞いたから」
堪えきれず声を弾ませるわたしと対照的に、七海くんは淡々と「いつもどおりですよ」と答える。そっかぁ、わたしはつぶやく。
「いつもどおり、七海くんは頑張ってるんだね」
頬を上げて顔をほころばせると、七海くんはやれやれと息をついた。
「昼食は?」
「食べました」
「そっか。今日もカスクート?」
「そうですね」
「いいなぁ。わたしはこれから。でも、その前に一個経理に書類届けなきゃで」
「なら、早く行ったほうがいいですよ」
「そうだね。っと、その前に」
後ろ手に書類とともに持っていた個包装のチョコレートをデスクの上に置いて、おつかれさま、と笑う。七海くんは眼光鋭くこちらを見上げたが、それが威嚇でもなんでもないことをわたしは知っている。
「またね」
つま先立ちで、ちょんとかかとを上げてターンをする。今日もいい一日だ。わたしは羽の生えた足取りで営業部をあとにした。
七海くんと出会ったのは入社式のときだ。二十歳を過ぎると男と女の体に歴然のちがいが見てとれるものだが、七海くんはその中でも今まで見たことがないほどに体が大きかった。
きっと、大きなひとはほかにももっといるのだろうが、広い肩と、背もたれに背をつけず座るその伸びた姿勢が昔見たヨーロッパの城壁のようで、思わず見惚れてしまったのを覚えている。
首すじからなだらかに下る丘陵と、ストライプにシワの寄ることのない背中。照明に瞬く髪は太陽の光を受けた小麦の海にも思えた。
「七海です」
その後、営業と総務に部署が分かれてなかなか顔を合わせる機会に恵まれなかったが、あるとき彼のほうから総務部のオフィスに来てくれたことがあった。
見上げるほどの身長は、座っているわたしからするとさらに大きく、ぐっと首を伸ばして見上げた七海くんの顔は、影を背負った彫刻みたいだった。ぼう、と陶然とするわたしに、七海くんは、「こちらの書類を届けにきました」とホチキス留めされた書類を差し出してきた。
「あ、今月の業績書ですね。ありがとうございます」
総務課一年目の仕事は主に社内の業務を円滑に回す手伝いをすること。七海くんが持ってきてくれた書類もそのひとつで、営業部の新人は月ごとに営業成績と自己評価を提出することになっている。
それをなんで総務が? というと、総務という部署の特性だ。
もともとは営業部で集めて社内ファイルにまとめられていたのだが、寝る暇もない営業部にはだんだんと荷重が大きくなり、結果総務が代わりにそれらをファイリングすることになった。
七海くんは律儀にも書類をまとめて、期限よりいくらか余裕を持って提出しにきてくれた。
書類をザッと確認し終えると、七海くんは律儀にも小さくお辞儀をして去っていく。
「あの、七海さん、ありがとうございました」
なにが、という顔だったが、「いえ」返ってきた声は思いのほか優しかった。
それから毎月、七海くんときちんと顔を合わせるようになった。同じ社内にいる上、同期なのだからその表現はおかしいかもしれない。でも、七海くんと会って話をする機会は本当に少なかったのだ。
ときおり営業部に行っても忙しそうに受話器に耳を当てているし、終業後にのぞいてみると、神妙な顔でモニターを眺めていたり、はたまた帰る様子もなくタオルを目もとに載せて天を仰いでいたりと、話しかける状況じゃないことのほうがほとんど。七海くんという人間がよくわからないまま一日、一週間、一ヶ月、と過ぎていく日々だった。だから、毎月顔を合わせて、目を見て話せるようになってわたしはとても嬉しかった。
なぜ、と言われるとわからない。ただ、そっと七海くんのそばにいるのは、穏やかな波打ち際に佇むみたいで心地がよかった。
「七海さん」から「七海くん」になり、すれ違いざまに、挨拶をするようになり、そして、オフィスで話しかけるようになり、わたしたちは普通の同期という関係にやっと到達したのだった。
「どうかしましたか」
それから二、三ヶ月して、ある日、営業部の入り口できょろきょろとしていると、七海くんがうしろからやってきた。
驚いたわたしはしどろもどろになり、「あの」とか「その」とか口籠もっているうちに、七海くんは手の内にあった書類を見て、「貸してください」と言った。
「安田さん」
なにを確認するでもなく、書類から顔を上げると同期の名前を呼んで、わざわざ彼のもとまで歩いて行く。二、三言話したのか、そのまま入れ替わりで安田くんがやってきて、「ここ、半分寝ながら書いてたから、めちゃくちゃ読みにくかったよな」と手を合わせた。
「七海に怒られたよ。人に見せるものなんですからって。ごめんな、迷惑かけて」
七海くんはすでに自分のデスクに戻って、こちらに背を向けていた。だが、堅牢な背中はとてもやさしく丸い背中に見えた。
*
「アンタさぁ、営業部の七海ってお気に入りなの?」
経理に書類を提出しにいくとお世話になっている先輩がふとそう言った。
「お気に入り?」
「うん。だって、よく声かけに行ってるでしょ」
あちゃぁ、という気持ちだった。べつに、隠しているわけではないけれど、七海くんのことはずっと気になっていた。だが、あくまで同期として、を装っているつもりだった。
「そんなに、わかりやすいですかね」
「ンー、まあ女から見たら? 物好きだなぁって」
「物好きって」
真面目すぎてとっつき辛いじゃん、背デカいから威圧感あるし。先輩はいつもの歯に衣着せぬ物言いで言う。けっして悪口なわけでなく、それが一般論といった様子だった。
「たしかに、はじめはなに考えてるかよくわからないかもしれないですけど」
「打てど響かずっていうの? 仕事はできるけど、女も酒も興味ありませんって顔じゃない」
それは、そうだ。七海くんはいつもこの世界ではないどこかにいる気がする。意識はしっかりしているのに、心がここにない感じといえばいいのだろうか。
入社式の日に、前の席に座る彼を見たときも、その美しいまでの逞しさとともにどこか儚げな印象を受けた。手を離したら気が付かぬうちに消えてしまう。もとからこの世界に存在などしていなかったように。
「ま、がんばりなよ。ああいうのオトすには、強引なくらいがちょうどいいんだから」
「オトすって、そんなんじゃ! ただ、仲良くしたい同期なだけですから!」
またまたぁ先輩は書類を受け取るとひらひら手を振ってわたしを追い払う。むっと唇を尖らせてコンビニへ向かうことにした。
「いらっしゃいませ」
やや疲れた声がわたしを迎える。オフィス街にあるコンビニは昼休みとなると戦争だ、と前に聞いたことがある。今はもうその戦いを終えて、穏やかさを取り戻しつつあるが、おつかれさまでした、心の中で労って惣菜コーナーへ向かう。昼休みもそんなに残っていないから、軽く済ませられるサンドイッチにしようか。
考えていると、見慣れた商品が目に飛び込んできた。迷わずそれを手にとった。
七海くんがそれを食べているのをはじめて見たのは、先輩とランチに出かけるときだった。
会社から少し離れた広場のベンチで、ジャケットを脱いで真っさらなワイシャツ姿でそれをかじっていた。ネクタイを汚さぬように肩へかけて、やや背中を丸めて力を抜いた感じが新鮮だったのをとてもよく憶えている。
その日はなにを食べているかまではわからなかったが、後日それがカスクートというバゲットサンドだということが判明した。
「それ、好きなの?」
再びベンチで一人食べているのを偶然見かけたとき、わたしは訊ねてみた。七海くんはわたしが来たことにやや居心地の悪そうな顔をしたが「そうですね、よく食べます」とちゃんと答えてくれた。
「フランスパンのサンドイッチ?」
「カスクートです。ハムや野菜、チーズを挟んだバゲットサンドの総称になります」
「ふうん、七海くんは物知りだね」
笑ってコンビニで買ってきた紅茶を開ける。彼は感情を押しこんだ調子でそれをひとかじりした。
「おいしそう」
「ひとが食べている姿なんて、あまり、見ても面白いものじゃないでしょう」
「どうだろう。でも、見られてる側はあまりいい気持ちしないよね、ごめんね」
肉を削いだ精悍な頬がそれを含んでゆっくりと動くさまはどこか甘美だった。七海くんの前髪が一すじ額へ落ちる。
「今度わたしも食べてみよう」
はにかみを向けて、またね、とペットボトルを抱えてその場をあとにする。
七海くんの快も不快も示さぬ、かすかに意を突かれた時にだけ見せる彼本来のあどけない顔がわたしは好きだった。
*
カスクートはおいしい。コンビニのサンドイッチだと思って侮ってはいけないと総務課の女の子にわたしはいつも話す。
「でも、角のカフェランチよりおいしくはないでしょ?」
彼女の爪はいつもきれいに整えられて、季節にあった色とりどりのネイルで彩られている。クリスマスが近いからか、クリスマスツリーのモチーフがあしらわれた女の子らしいデザインだった。その指先がやや疎ましそうに高級クッキーをボロボロに小さくして口へ運んでいる。
「そうかもしれないけどさぁ」
「コンビニのサンドイッチに満足してたら、その程度の女と思われちゃうよ」
「そういう問題?」
「そういう問題。健気でかわいいなんて今どきはやんないよ。安く済ましてもいい、都合のいい女なんて印象つけられたら苦労するって絶対」
チョコレートはデパートで、ケーキもやっぱりお気に入りのパティスリーで。悪い子じゃないけど、想像するOL像にぴったりだった。綺麗に着飾って、自分に自信があって、大切にしてもらうためには自分を大切にしないと、というのが信条の子。かっこいいな、とは思う。
対照的にカスクートを頬張って、リスみたいにもさもさと咀嚼する。昼時のラウンジは賑やかだ。
「七海、アイツどこまで化けるかね」
そんな声が聞こえて、わたしたちはすぐそばを通った名も知らぬ先輩を目で追う。
「七海って、営業部のだっけ」
「うん、七海くん。親切でいいひとだよね」
「話したことないや」
彼女は興味を失ったのか、もとからさして持っていなかったのか、ボロボロのクッキーを口へ運ぶ。きらきら輝く指先はやわい棘となってわたしの心を突き刺す。
七海くんはすごい男なんだから。
だれが思うよりも、優しくてかっこよくて、気高い男なんだから。
「七海くんに聞くと、わかりやすいから助かるな」
ある日、営業部のことで相談があって、七海くんのもとを訪れた。丁寧に説明してくれた彼にお礼を言うと、「基本的なことをお伝えしたまでです」と彼はいつもの仏頂面で淡々と返す。
「七海くんにそう言われると、なんか心に刺さるな」
「総務と営業では役割が異なりますから、そう気にする必要はないかと思いますが」
「でも、もう後輩もできるのに、各部署の知らないところたくさんあるから。まだまだだなって」
七海くんは一瞬視線を上げてわたしを見たあと「よくやっていますよ」と小さくつぶやいた。
目を瞬く。彼はなにごともないように、かかってきた電話をワンコールでとる。
話し相手を失ったわたしはその彼の頭部を斜め後ろから眺める。照明にも瞬く儚き小麦の原が、透き通る白い肌が、その耳の裏に小さく刻まれた傷痕が、脳裡に灼きついて離れない。それから時間差でほんのささやかな甘言の反動がやってきて、顔が熱くなる。手の甲で、口もとを隠す。
「……まだいたんですか」
電話を終えた七海くんが、振り返る。彼はわたしの顔を見てかすかに眉根を寄せた。
「七海! ちょっとこっち」
そこで上司が彼を呼ぶ。唇を噛んで立ち尽くすわたしに、彼は慇懃に頭を下げて席を立った。
「ありがとう、元気がでました」抑えきれない想いをどうにか押しこんで、泣きそうになりながら付箋をデスクに貼る。彼だけが気がつきそうな、キーボードの右端がかかる部分に。ポケットから飴を取りだして、丁寧にふた粒、転がしておいた。
それから、少しずつ七海くんとの関係が変わった。いや、わたしの中で曖昧模糊としていた七海くんだけの場所が、はっきりと定まった、そんな感じだろうか。オフィスを歩いているとき、営業部に所用で向かったとき、自然と彼を探してしまう。斜め後ろからちらりと眺めて満足して、彼の横を通ってほかの営業と話すときには、できるだけ背筋を伸ばして、へらへらと顔を崩すのをやめて真面目な顔。目が合ったら、「おつかれ」と小さく笑って。
七海くんは、相変わらずやれやれといった調子でわたしをあしらってはいたが、「おつかれ」と笑うわたしを見てそれを受け容れたように静かに瞑目してくれた。
あっという間に春に近づいて、社内全体がどこか忙しなくなっても、七海くんとの時間は、穏やかで静かで、晴れた波打ち際に横たわり陽射しを受ける、そんな夢のただ中にいるようだった。
しかし、わたしは七海くんのことをやはりなにひとつとして知らなかった。
*
「カスクートっすか、実はウチ置くのやめちゃって」
昼下がりのコンビニ、店員の気だるげな言葉に肩を落とす。今後も入荷はないっすね、そん心情つゆ知らず、追い討ちをかけてくる彼が少しだけ恨めしくなる。だが、コンビニとて事情があるのだろう、代わりにミックスサンドを買ってコンビニを出た。
通りのソメイヨシノはすっかり青葉を携えて陽光を跳ね返している。そんなのどかな陽気の中コンビニのビニールを手で小さく振り回しながらわたしは歩いていた。
「七海くん、なに食べてるのかなぁ」
七海くんは変わらず忙しそうで、新人相手に丁寧に指導をしたり、先輩たちと顔を突き合わせて難しい会議をしたりしていることが多くなった。本人はどこ吹く風といった調子でデスクに帰ってくるが、以前よりも少し痩せたような気がしていた。
机に向かって画面を眺め、かかってきた電話をワンコールでとって。穏やかな口調でメモをとり、受話器を置いたと思えば次はまたどこかへ電話をかける。わたしはというと、今年もさほど変わらずであった。実際には産休に入る先輩から仕事を受け継ぎ、ガラリと業務内容が変わったのだが、営業に比べたら高頻度で定時上がりをしている。
ちゃんと寝ているだろうか。休んでいるのだろうか、彼の背中を思い出すたび、浮かんでくるのはそんなこと。
春が終わって、話す暇もなくなってしまった。顔を合わせるくらいはできるが、日に日に七海くんの顔色は悪くなる一方。二年目になり担当する仕事も変わったから、営業部へ向かって備品のチェックをすることもなくなり、元気? という言葉をかけることすら、かなわなくなっていた。
夢の終わりは呆気ない。けれど、落ち着いたら今度は、おいしいパンを食べれるカフェに誘ってみよう、そんなことを健気にも思っていた。
ひとりとぼとぼと、袋の中のサンドイッチのことなど考えず腕を振って、以前七海くんがご飯を食べていたベンチへ向かう。
青葉萠ゆる空の中、鮮やかな桃色が視界に飛び込んだ。ベンチのすぐ横、遅咲きの八重桜が花開いていた。甘く、切ない香りが鼻腔をくすぐる。ひらひらと舞う花びらを手のひらで受け止めて、ジャケットのポケットへ大事にしまった。
オフィスへ帰って、持ち主のいないデスクの上に、春を転がした。
「おつかれさま」
いつもの場所に、小さな付箋を添えて。
七海くんが辞めると聞いたのはそれからしばらく経ってからのことだった。思うように関わることもできなくなって、空白がわたしたちを隔ててしまったころ。
用事があって経理部に向かうと、馴染みの先輩が、「聞いたわよ」と井戸端会議の主婦のように椅子のままわたしに寄ってきて教えてくれたのだ。
わたしは驚いた。けれど、なんとなく予感していたいつかが来てしまったのだな、と腑に落ちた気もした。
営業部に向かう。七海くんのデスクはいつもどおり殺風景で、もういなくなってしまったのか、それともまだいるのかもわからない状態だった。遅かったかな、と唇を噛み締めていると、大きな影がぬっとわたしを飲み込んだ。七海くんだった。
いつものストライプスーツに、撫でつけた髪。目元にはまだ、ひどい隈が刻まれている。毎日毎日、飽くることなく身をすり減らした男の顔だった。しかし、憂いを削いだような顔つきだった。
「今日の夜、ごはん食べに行きませんか」
彼が口を開く前に、わたしは小さく告げた。七海くんは静かにわたしを見つめていたが、やがて「いいですよ」と答えた。
.
.
.
静かに、厳かに、七海くんはわたしに身をうずめる。貫かれたそこは鈍い痛みを得たが、同時になんとも言えない幸福感に満たされた。
「最後に抱いてくれ」だなどと、そんな願いを受け入れられるとは、思いもよらなかった。会社近くのレストランで夕食を食べて、「転職おめでとう」と笑って彼を送りだすつもりだった。「七海くんなら、どんな場所でも立派に働ける」「七海くんが少しでも自分らしくいられる場所で、七海くんらしく働いてね」そんな万人が告げられる陳腐な言葉を添えて、別れるつもりだった。しかし、宵の街をレストランに向かう道のりを、七海くんの首すじを眺めながら歩いていたら、馬鹿げたことを口にしてしまっていた。
「食事は」淡々と告げた彼に、わたしはかぶりを振った。きっと、どんなにおいしいカスクートだって、喉を通らなかった。
「もうこれきりにするから、会わなくていいし、わたしのことなんて忘れてもいいから。お願いします」
七海くんの手を掴んで、ごくりと唾を飲み込んで。
強引なくらいがちょうどいいんだから、先輩の言葉が脳裡に掠めていた。
七海くんのからだについたいくつもの傷痕をたどりながら彼を受け容れる。どの傷も、ついてからしばらく経っているようだった。耳の裏のたったひとつの流星を見つけたとき、彼を知れたような気がしてどうしようもない優越感と愛しさが込み上げた。けれど、結局、なにひとつ七海建人という人間を知らなかったのだ。
どこで生まれ、どのように育ち、どんな青春時代を送ってきたか。なにも考えずただ船に乗って目的地にすすむ、そんな平凡なわたしからはこれっぽっちの想像も至らない。あのストライプスーツの下に逞しい肉体があり、激しい戦いの遺痕があり、どのような苦渋と辛酸を味わい喪失と絶望を享受してきたか。知った気になって、なにひとつ、理解できていなかったのだ。
どうしてわたしの最後のお願いを聞き入れたのかも、壊れものを扱う手でわたしに触れ、優しく烈しい熱を与えてくれるのも。わからなかった。やさしいひとだから、かもしれない。でも、わたしの中のやさしい七海くんは、「馬鹿なことを言っていないで、帰りますよ」とため息をついて諭してくると思っていた。
それでもひとつわかるのは、わたしにとって七海くんは疾うに愛しいひとだったということ。できることなら喪いたくないひと。隣でそのぬくもりを感じていたいひと。この手で、その額を、頭蓋を、頬をあごを、撫でていたいひと。
「おつかれさま」「がんばったね」「ありがとう」そんな陳腐でありふれた言葉でそっと包んであげたいひと。
「七海くん、」
流星をいくつもたどって、彼の深い眼窩を撫でて、愛しくて愛しくて、堪らなくなって微笑む。きっとこれで最後だと、もう会えないのだと、理解しながら。
小さな春を、彼のデスクに落とした日。こうなるとわかっていたら、いつか一緒に見たいと心に浮かんだあの日の気持ちを伝えていたのに。けれど、伝えなくてよかったのかもしれない。
潮騒が聞こえる。一瞬の、永遠の、遙かなる波打ち際。
七海くんのぬくりもりを感じながら、七海くんを感じながら、わたしはこの世で一番、幸せだった。
七海くんが会社を去ったのは、その日から間もない。
彼が仕事を辞めたあと、わたしもしばらくして仕事を辞めた。
「なんで辞めちゃうの」総務の友人には泣きつかれたが、実家に帰ろうと思って、と半分嘘で半分本当のことを伝えてどうにか宥めた。ただ、先輩だけには、気づかれてしまった。
「七海?」
その名前を聞いて泣き出すわたしを、先輩は何も言わずに抱きしめてくれた。
わたしの中に宿った新しい生命に手を当てて、
「大きくなったら、アンタがお母さんを守ってやるんだよ」
彼女は精一杯やさしく語りかけた。
.
.
.
それからもう二年。あっという間に時は流れていった。
先輩に会いに東京まで遊びにきた帰り道、懐かしくなって会社の裏手にあるベンチまでやってきた。
「あんまぁ」
歩きたがる息子を下ろして、そっとその背を見守る。ようやく自分の足で行きたいところに行けるようになったからか、外が楽しくてたまらないようだ。先輩と公園でピクニックをしながら存分に体を動かしたというのに、まだまだ遊び足りなくて、どこまでも駆けていく。おぼつかない足取りで、それでも一生懸命に前へ進む息子の背中に思わず目を細める。まさに体力オバケね、と言ったのは、先輩だった。
「ケンちゃん、ママはこっちだよ」
少し先回りをして、しゃがんで両手を広げる。ベンチ周辺の並木はすっかり青葉が生い茂っていた。一本だけ花を携えた八重桜が、あの日のように風に花びらを落としていく。
その一枚を手のひらで捕まえて、ほらぼんぼん桜だよ、と彼に見せる。
「まんまぁ」
「ん? これは食べちゃだめよ、おいしそうだけどね」
「あんまぁ」
「ふふ、ママにくれるの? やさしいねぇ」
小さなぷにぷにの手でそれを懸命につまんで、差し出してくる。太陽に透き通る髪を撫でると、彼は切長の瞳をそっと細めて笑った。
日に日に、この子は彼に似てくる。幼いころの彼なんて知らないけど、たぶんこんな感じだったんだろう。色素の薄いさらさらな絹糸に、彫刻のようにすっきりと高い鼻梁と、涼やかな目もと。まだまだ赤ん坊だというのに、オリュンポスの神々みたいな神秘的な美しさがある。我ながら、親バカかもしれない。それのどれもがわたしの繊細な部分をくすぐり、彼を思い出させ、いっとう愛おしさを膨れさせる。
あの夜、わたしは彼に非道いうそをついた。「薬を飲んでるから」スキンの封を切る彼の手をそう嘯いて止めさせ、胡乱な顔を剥がさない彼の腰に脚を絡めてわたしは彼を無理やりすべて奪った。
「もう忘れていいから」
「思い出さなくていいから」
そんなことを言って、本当はいつまでも憶えていてほしかった。彼はおそらく失望するだろう。いや、すでにあの夜わたしに抱いていた微塵の親切心すら打ち砕き、幻滅したにちがいない。
最低だ、とんだ悪女だ。だれもが聞いたら顔を顰めるにちがいない。ましてや、この子に知られたら、わたしを嫌いになるかもしれない。それでも、七海くんが好きだった。好きで、好きで、好きで。大好きで、もっと彼を知りたくて、手を伸ばしたくてたまらなかった。
「んまぁ?」
花びらを眺めて黙りこんだわたしを息子が覗き込んでくる。煌めく髪が、長いまつ毛に覆われた流星をたどる瞳が、愛おしい。
今はまだ父親の存在などわからないが、いつかきっと聞かれるにちがいない。
ぼくのパパはどこにいるの?
どんなひと?
あるいは、どうしてぼくにはパパがいないの?
そんなふうに責められるかもしれない。言われる覚悟は、できている。彼に迫ったあの夜から、そして、この子に会いたくて独りで育てる決心をしたときから。
あなたの父親はね、格好よくて、面倒見がよくて、他人想いで、どこまでもやさしくて誠実なひとなんだよ。ママとはちがってね。柔らかな毛を撫でる。色素の薄い瞳が細まる。愛しさが込み上げる。
彼はいまどこでなにをしているのだろうか。彼らしく、生きられているだろうか。生きていて、くれてるだろうか。
「あんまぁ、だっだぁ」
小さな体が胸にぶつかってきて、うしろへよろける。尻もちをつきながら、笑ってぬくもりを抱きしめる。
「ケンちゃんも大きくなったねぇ」
ずっしりと重くなった体を抱きかかえて立ち上がると、ほのかに甘い花香りがした。ぎゅっと肩へ押しつけてくる頭に載った花びらを指先でつまんで、上着のポケットに忍ばせる。
春はあっという間に過ぎていく。この子もいつか、こうして抱っこすらさせてくれなくなるだろう。ぽかぽかと太陽みたいな体温は心地よく、背中をやわく撫でているこっちのほうが眠くなってしまいそうだ。ふにゃふにゃ猫みたいな声をあげながら、我が子はまどろみ始める。
幸せな夢を見てくれるといい。抱きしめながら、ゆっくりと歩き出す。腕に感じる重みとぬくもりが今日もわたしを生かしてくれる。きっと、明日も明後日も。
ママはあなたのことを愛してるからね。絶対に、離さないから。この子だけはもう、二度と……。
やわい髪に口もとをうずめてキスをする。静かな潮騒が聞こえるようだった。ザザァン、ザザァン、寄せては返す波打ち際、永遠の痛みと愛情とを抱きしめなおして、一歩、二歩、ベンチから遠ざかる。
「七海、お前こんな場所に思い入れでもあんのかよ」
思わず、脚を止めた。
「勝手についてきてそれはどうかと思いますけど」
「だって、なんもねーじゃん」
「五条さんにはそうでしょうね」
白銀の髪を揺らした男のうしろをすらりとしたグレースーツの男が歩いている。広い肩、伸びた首すじ、燦然とそよぐ小麦の原。桃色の花びらがひらりと耳の裏へ落ちていく。
——ザザァン、潮騒が鳴る。
「七海くん、」
彼は、振り返る。

※コメントは最大1500文字、10回まで送信できます