久々のオフだった。人手不足から京都校に急遽飛ばされ、猫の手も借りたいほどに忙しい毎日を送っていたわたしは、それはもう浮かれていた。
だって、京都だ。そうだ、京都行こう、で有名なあの京都だ。
関東の田舎生まれの身からすると、東京の次に羨望の的となる都市。かつて住みたい場所ナンバーワンだった東京も、十代半ばから堪能し尽くしたわたしとしては、今、京都こそが憧れの都なのである。
術師にとって、千二百年もの歴史をたたえるこの場所は、伝統と言う名のしがらみに縛られ、雅の裏に確かな血生臭さを感じる呪霊の総本山と言えたが、それでも、古都の空気は洗練されているようでどこか気持ちが浮ついた。
仕事面では全く浮つけなかったけれども。
だからこそ、そう、だからこそ、この日を満喫しようと思っていた。
朝起きた瞬間、昨晩の疲れがどっと体にのしかかったが、一日布団の中で過ごすのはごめんだと鞭を打って、シャワーを浴びてバッチリメイクをする。
京都に友達はまだいないけれど、午後、任務が終わったら歌姫先生が行きつけのお店に連れて行ってくれると言っていたから、それまでは市内を観光するつもりだった。
「髪の毛よし、メイクよし、服装も……完璧」
就活ですか? と言わんばかりのいつものスーツを脱いで、足首まで隠れる白いワンピース姿のわたしは、自分で言うのもなんだがまるで別人だった。
スタンドカラーのこのシャツワンピは、昨晩、閉店間際の百貨店に飛び込んで買ったもの。今年は詰襟が人気なんですよと言われるがまま手にとっていたが、どこか清楚でキチンとしていながら、ふわりと風をはらむボリュームスリーブが草原に遊びに来たお嬢さまっぽくて気に入っている。
色鮮やかな春には、とっておきの装いだ。
姿見の前でくるんと回って裾を揺らす。うん、いい感じ、と自画自賛して自然と笑みがこぼれる。髪も普段はポニーテールにまとめているけれど、今日はゆるふわに巻いて、耳には小ぶりのパールのピアス。メイクはブラウンでまとめたけれど、そのぶんツヤツヤに。
そして、口紅はとっておき! ディオールのリップグロウオイルでぷるぷるに仕上げた。おまけに、お気に入りの香水を振りまいて、ショルダーバッグを肩に掛ける。
「今日はいい日になりそう!」
ショートブーツを引っ掛けて、いざ出陣!
――というのが五分前のことだ。
「いや、なんで」
「なんでやろなあ」
エレベーターを降りて、エントランスを飛び出るや、目の前に停まっていたのはなにやらイカつい黒い車だ。それも、高専車みたいな野暮ったいやつではなく、見たこともないエンブレムのスポーツカー。風よりも速く走れそうなやつ。
おまけにボディへ寄りかかって立っていたのは、この世で一番の天敵―禪院宗家の男、禪院直哉。赴任早々、禪院家担当に宛てられ、散々な目に遭わされていたわたしとしては、こんな日に会いたくない人間ナンバーワンだった。
補助監督という仕事に就いて、数年。五条さんよりも面倒なひとはいないと思っていたが、彼こそそれを上回る厄介な人間だった。というか、禪院家、真希ちゃん真依ちゃんをのぞいて皆癖が強すぎるんだけど、いや、もちろん二人も癖あるんだけど、とにかくこの人はその中でも選りすぐりのヤベェ奴なのだ。
「自分、どっか飛んどるけど、大丈夫?」
(笑)でもつきそうな喋り方がまあ癪に障る。
「ダイジョウブデスケド、ナゼココニ?」
「いや、カタコトやん」
そりゃカタコトにもなりたくなるわ。だってわたしは今日という日を満喫しようとしていたのだから!
アンタのせいですべてパーだわ! ……というのは、心だけにとどめておく。
「それで、どうしてこんな場所にいらっしゃるんですか?」
京都市の片隅、閑静な住宅街。それも、わたしの家の前。
「どうしてって、約束したやん」
「は?」思わず、低い声が出て慌てて口を押さえる。
と、ハハッと乾いた笑いが響いた。
「賢明な判断や。今の危なくどついたるとこやったで」
いや、全然笑えないんですけれど。もういやだこの人、と内心泣きながら話に戻る。
「約束って、いったい……」
「ン? 昨日したんやけど、覚えとらんの?」
「昨日……?」
ホワンホワンホワンホワン……と、遡ること十数時間、この特別一級術師サマにお手伝いしていただいた任務を思い出す。
朝、高専に着くや、学長のおじいちゃん(五条さん命名)に、「禪院の方が付き添いなさってくれるそうじゃ」と言われ、通夜のような気持ちで向かった京都有数の心霊スポット。かつては処刑場であり、今は火葬場のあるトンネルでの呪霊討伐任務だった。
本当ならば他の一級術師が担当する予定が、相次ぐ負傷により人手不足となり、急遽猫の手ならぬ禪院の手を借りることとなった。一番借りちゃいけないところだろ、と思ったが、おじいちゃんに口答えできるはずもなく。
とにかく、待ち合わせ場所に着いたらすでにこの男がいて、「会いたかったで♡」などと心底胡散臭い笑みを向けてきたのだった。
そんなふうに迎えたくせに、「五分遅刻やな、俺は三十分前から待っとったんやで。忙しいお人やっていうのに、この責任どうとってくれるん?」だなんだ。知らなんがな、というツッコミは呑み込んで、今日がオフという事実を胸に、スミマセンでした、と平謝りをして流した。
「ホンマにすまんと思うとる?」
「思ってますよぉ、ほら、この顔」
「ブッサイクやなあ」
「あははぁ、知ってますぅ」
失礼極まりない男である。こんな男は真希ちゃんにコテンパンにされてしまえ! と思いつつ、逆らえないので、あの手この手を使ってご機嫌とりをしながら任務の説明に移ったのだ。
「それで、本日は、禪院特別一級にはこのトンネルと上の火葬場に発生した呪霊を祓っていただきたく……って、聞いてます?」
タブレット片手にできるだけ簡潔に、わかりやすく伝えるわたしをよそに、男は小指で耳をほじっていた。あまつさえ、「あ、なんや、俺に話しとったん?」だ。
「あなた以外、だれがいらっしゃるんですか」
「すまんすまん、禪院特別一級なんて呼ばれ慣れてへんから、わからんかったわ」
うそをつけ、この狐野郎! ……という暴言は腹に落として、画面を叩き割りそうになりながら、ニコニコと平謝りする。
「すみません、それで、特別一級には……」
「あぁ、今日の三十分あったら、もう一個別の呪霊さん祓えとったわあ。家の仕事もあったんになあ、どないしてくれはるんやろ」
「……直哉さんには、本日、現場に現れた呪霊数体を祓っていただきたく存じます」
「ほな、わかったわ」
今すぐ東京に帰りてぇええ……と、思いつつ、今日のオフを楽しみにわたしは乗り切ったのだ。
そこまでは、そう、そこまではいつもどおりだった。これでいつもどおり? と思うかもしれないが、ところがどっこい、いつもどおりだ。
おじいちゃんや歌姫先生から半ば無理やり「禪院家(直毘人四男)担当」にさせられ早数ヶ月。この姑もびっくりないびりにわたしは耐えてきた。
出会った瞬間から、「自分、芋くさいなあ、ホンマに東京モンなん?」と言われ、「喉乾いた」「俺、コーヒーは無糖って決めてんねん」「今日はカフェオレが飲みたい気分や」「これちゃう。あかんわ、もうイノダ寄って」エトセトラ、エトセトラ……。
これを乗り越えたわたしは、ちょっとやそっとじゃへこたれない。
そういうわけで、昨日も帳を下ろし、御武運を祈って送り出したのだが。
「そういや、明日自分休みなんやて」
「は?」
「あ?」
「ンンッ、はい、明日は僭越ながらお暇いただきます」
「ふうん、そんなら今日は早よ終わらしたるわ」
「え?」
「ん?」
「え? 今、なんと……?」
「だから、嬢ちゃんのために早う終わらしたるって」
「神様……?」
聞き間違いかと思った。いや、今思えば、なんでわたしの予定を知っているのかツッコむべきところだったのだが、「ええわあ、悪うない。もっと言ったって」とにっこり邪気を取り除いたあどけない笑みに完全に騙されていた。
「神様仏様直哉さま、この御恩は一生忘れません」
「言うたな」
「女に二言はありません」
「ほな、三十分で終えたらご褒美もらおか」
「わたしにできることならなんでも!」
そうだ、もうわたしはここから重大なミスを犯していたのである。オフという目先の幸せに目が眩んで、その背後に潜む絶望にまで意識が及ばなかった。
「なんでも?」
「なんでも」
「俺、欲しいもんがあんねんな」
「なにがなんでも買ってきます」
「まあ、金で買えるもんやないんやけど。……もらってもええやろか?」
「もちろん!」
「交渉成立やな。ほな、ゆびきりげんまん」
帳を前に小指を絡められ、不覚にもドキッとしたのもつかの間、背を向ける彼に、「御武運を!」と叫んだ。
……ゆびきり、げんまん?
…………。
………………。
………………………。
「あの約束!?」
悪夢から戻り、ハッと声を荒げると、直哉さんは腕組みをしたまま首を捻った。
「覚えとったやん」
「いや、待ってください、ちょっと待って。ステイ!」
「俺に指図するん」
「イエ、ドウカオマチクダサイ。クッジューウェイトアミニッツ?」
「はは、無駄に発音エエの腹立つわ」
一体全体どうなっとるんや。あっ、動揺で関西弁話しちゃった、どうしよう関西の方たちに怒られる。でもでもだって、あの約束がどうなったら、今日に至るの? たしかに三十分で討伐は終えたけれど……。ちなみに、結局、その後も任務任務任務に追われて終業時間は八時手前だったので、わたしとしてはプラマイゼロどころかむしろマ〜イだったわけなのだけれど。古いってツッコミはどうか容赦してください。もうそれどころじゃない。
「なんでここにいるんですか⁉︎」
「そこ戻る?」
「戻ります! どうして! わたしの! 家の! 前に! いるん! ですか!」
どこぞの帝大生ですかというような書生服でなく、ちょっと清楚なディーゼルボーイみたいな服装で。いや清楚なディーゼルボーイってなんだ。よくわかんないけど小洒落ているのに行きすぎず、綺麗めな感じを残しながら気持ちラフな服を着ているってことだ。絶対お高いんだろうな。よくお似合いです。
とにかく、わたしはもはや自棄だった。
「約束は約束や。なんでもくれる、言うとったで、自分」
「それは、そうですけど、でも、今日なんておっしゃってなかったですよね?」
「今日じゃないとも言っとらんで」
「屁理屈!」
「へえ、ええんや。約束破るんや、自分から女に二言はないて言うとったくせに」
そこまで言われてはぐうの音も出ない。唇を結んで悔し紛れにじろりと見仰ぐと、彼は鼻で笑って車のキーを開けた。
「ま、悪いようにはせえへん。欲しいもんがあるんや、ちょっと付き合うてや。自分、どうせひとりで暇しとったんやろ」
「そんなことないですけど」
「ふうん?」
「あーっ、そうだ、今日歌姫先生と待ち合わせしてたなあ! 待ち合わせに遅れちゃうなあ! いっけなぁい!」
スッと横を通り抜けようとして、腕を掴まれる。
「携帯見てみ?」
慌てて鞄から取り出したそれには、一通のメールが。
《ゴメン(泣き笑いの顔文字)》
笑いごとじゃないんですよ、歌姫センセェエエ……。
「そうと決まったら早速出発や。昨日の三十分の詫びもしてもらわんとあかんし、ご褒美もきっちりもらわんと。ああ忙し」
「……詐欺師」
「なんか言うた?」
「ナンデモアリマセン!」
わたしの預金で足りるだろうか。それとも、臓器ひとつくらい売ったほうがいいだろうか。むしろ、そんなんじゃ足りなかったりして。
本当にいけすかない、ヤな奴!
トホホ、と肩を落としながら携帯をしまい込むと、急に影が落ちてきた。
「あの……?」
にゅっと、目の前にそれはもう端正なご尊顔がお目見えして、わたしは思わずドキッとしてしまう。だって、この人、顔だけはいいのだ。顔だけ。いや、あと、声と体型も実は超、好み。見ているぶんには、目の保養なのだけれども。
「直哉、さん?」
まじまじ、涼やかな瞳がわたしを見つめている。そんなに見られたら、ダメ。いくら相手があの禪院直哉だとしても、ドキドキしちゃう。
これ以上は、本当、だめだって。
ほんとう、だって、好きになっちゃ――。
「自分、化粧上手いなあ」
前言撤回。
超、超、超、超、ヤな感じ。
(笑)が聞こえてきそうなしゃべり方にわたしの堪忍袋の緒は切れた。ぷっつんと切れた。でも、ムッとする間もなく、ぱくりと唇を食べられて、「ごちそうさん」彼はスポーツカーに乗り込んだ。ええそれはもう颯爽と。
「な、な、なん……」
「早う乗れ」
「ちょっ、待って」
「今ここで犯されるんと、後で犯されるん、どっちがええ?」
「乗ります!」
ここでまたわたしは重大なことに気づかなかったのである。
どっちにせよ、貞操の危機が迫っているということに。
「ほな、出発〜」
「しゅっぱーつ……」
「なんや、俺とドライブデート嬉しないんかい」
「わあ、うれしいなあ! 直哉さんとデートなんて、わたし、ドキドキしちゃう! はやく行きたーい! 今すぐ行きたーい! どこでも行きたーい!」
「そやなぁ。ほんなら、とりあえずこのまま役所行くか」
「なんで?」
「え?」
「は?」
「ん?」
「ちょっ……」
「出発〜」
「下ろしてぇえええええっ」

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