2-9

 美月たちがエルジュノンでの邂逅を繰り広げている間、クラウドは神羅兵の格好のまま運搬船へと乗り込んでいた。懐かしいと言うには持て余しすぎる感情に苛まれながら船内を歩き回る。そろそろ仲間たちと合流したいところだが、PHSを預けてしまっているためそう簡単にいくものではない。
 イルカジャンプによりジュノンの支社ビルに潜り込んだところまではよかった。だが早々に上官と思しき兵士に神羅兵に勘違いされ、着たくもない制服を着せられルーファウスの歓迎式典パレードに参加させられてあれよあれよとここまできてしまった。パレードもなんとか終えたはいいものの、テレビ局の職員に手榴弾を手渡されたり、リフトではルーファウスとハイデッカーの見送りをしなくてはならなかったりと、散々であった。
 セフィロスがジュノンの街に潜伏していたという情報を平兵士たちの口から聞けていなければ、クラウドは早々に制服を脱ぎ捨てて上官にリミット技の一つでも食らわしていただろう。とはいえ、その男のおかげでこうして運搬船にも忍びこむことができたのであるが。
 もう間もなく、船は出港する。
 それまでにティファたちがこの船に乗ってくれればいいのだが、クラウドは気がかりだった。それはもちろん自分の幼馴染やバレット、はたまたセトラであるエアリスのことではない、ほかでもない美月のことだ。
 ひとり、彼女を残して来てよかったのか、クラウドは懸念を拭えずにいた。もちろん彼女が言ったように、仲間たちが彼女と同行しているため身の危険には及ばないことだろう。歓迎式典ともあれば神羅兵たちも忙しなく動いているし、姿を潜めるのにも苦労はしない。
 ただ、彼女が着いてこなかったことが存外クラウドの嫌悪を煽ったのだ。彼女を送り届けるという依頼を請け負い、そして彼女を守ると彼女に誓ってみせたからか――もしかしたら単なる言葉の遊びと思われているかもしれない。だが、彼にとって美月は『責任』の象徴であり、彼と彼女の間には強い『責務』という糸が繋がっていると自負していた。
 不安定な彼女のそばにいるのは自分が正しい。自分が彼女を見つけ安全なところまで連れていくと約束したのだから――それゆえ、彼女が離れていくのが憂慮であった。不安や危惧などではない。彼女の不在が不思議であり、不快であり、そして、苛立たしくもあった。
 まさか美月が自分が起こした行動によって戸惑っているとも思わず、クラウドは珍しく焦りという感情を載せて船内を見渡す。
 コスタ・デル・ソルへ向かう定期運搬船。豪華ではないが、少しの荒波にはものともしないだろう、大きな船だ。
 このまま、彼女がこの船に乗ってこなかったとしたら。あるいは、彼女が神羅に捕まってしまったら。クラウドは忙しなく動き回っている水兵隊たちの姿を視界の端に留めながら、もしもを案じる。
 昨日彼が彼女になにをしようとしたか、クラウドは気がついていない。引き寄せられるように淡く光に染まった唇を吸おうとしたなんて……。
 いや、ティファも、あのレッドⅩⅢもついているのだ。きっとここまであの女を連れて来てくるはず。クラウドは小刻みに体を揺らして言い聞かせる。
 まさか抱いた懸念がはっきりと形になって現れるとは、このときは思ってもいなかった。

「はなしてください、一人で歩けます」
 レッドⅩⅢとユフィをなんとかその場から逃し、美月は後ろ手に拘束されて運搬船のドッグまで連れて行かれていた。
 前を歩くルーファウスとは対照的な漆黒のスーツが両隣を囲んでいる。長い黒髪に片時も崩れぬ精悍な面立ち、そして、サングラスにスキンヘッド。ツォンとルードだ。
「逃げられても困るからな」
 一切の憐憫も載せず、ツォンが言う。手首は麻のロープで縛られ、後ろの神羅兵によって手綱を握られていた。
 容赦なくきつく結ばれているからか、歩くたびに皮膚に食い込んで痛い。隙をついて逃げられたらと思ったが、これでは難しそうだ。
「わたしを人質にする価値なんてありません。クラウドは助けに来ませんから」
 ミスリルマインでイリーナが告げていたとおり、タークスはあくまでクラウドたちの邪魔をしたいと目論んでいるにちがいない。それならば、どうにか神羅の追手を彼らに向かわせずに済ませたかった。ユフィたちを逃がす際、「わたしは大丈夫だから!」と彼らタークスに聞こえるように言ったが、どうだろう。
「ここで旅を抜ける予定でした。だから、なにも力になれません」
 美月は次々と浮かぶ限りの偽言を捲し立ててみるが、無愛想なルードはおろかツォンすらなにも言葉を返さない。
「こら、動くな」
 手首をよじった美月を神羅兵が叱責する。いっそうロープがきつくなり美月は唇を噛む。
「丁重に扱いたまえ、大事な客だ」
 定期運搬船を見上げてハイデッカーと話していたルーファウスが振り返り、神羅兵がヒッと悲鳴を上げた。
「す、すみません!」
 なんて、冷淡な、いや、初めて見たときと変わらない。美しく悍しいほどの冷えた瞳だ。
「まあいい。ツォン、その女を案内してやれ」
 アイスブルーの双眸が一瞬、美月を射抜き細まる。命令されたツォンは、はい、と淡々と応えると、神羅兵からロープを預かり、美月を連れ立った。

 連れて行かれたのは、運搬船のとある一室だった。
 いかにも軍需船のような船の構造とはうらはらに、そこは豪華客船を思わせる優雅な作りをしている。白を基調とした内装に、オーク材の本棚やハイデスク。中央には黒い革張りのソファとガラステーブル、と、なんとも立派な品揃えだ。
 だれかの執務室だろうか。ツォンはドアのすぐ横に美月を待機させた。
 彼らの考えることがわからない。縛りあげたくせに、『大事な客』だと称し、こんな場所に連れてくるなんて。てっきり、牢獄に連れて行かれるかと思っていた。
(エアリスは自由の身だと言っていたけれど、もしかするとちがうのかしら)
 美月は隣のツォンを横目で見仰ぐ。
「なぜ、とでも言いたそうな顔だな」
 この程度の視線を感じとるのは、タークスにとっては造作もないのだろう。美月はぎゅっと肩を狭めてそっぽを向く。
「わたしを捕まえたって、なにも得なことはないですから」
「きみはなにも知らないのか」
 また、それだ。まるで他に自分がいるような言い草に、心底辟易する。
「知らないもなにも、わたしのことはわたしが一番知っています」
 苦々しく言い放った美月にツォンは一瞥を寄越してくる。微かに感情を含んだ瞳だ――だが、それが一体どの感情なのはわからない。
「なんですか」
「いいや。……そろそろ社長がいらっしゃる」
 ツォンの言葉を合図に、ガチャ、とノブが回った。
「ツォン、下がっていいぞ」
 入ってきたのはもちろんルーファウスだ。ツォンは恭しくこうべを垂れると、今度は美月を一瞥すらせず部屋から出て行った。

「さて、君の名前はなんだったかな」
 ドアのすぐ横で立ち尽くしたままの美月を放って、執務机へと一目散へ寄り、ジャケットの下から小銃を放り出して、ルーファウスは言った。
神羅ビルで見たときは腕ほどのショットガンを使っていたが、護身用に常に身につけているのだろう。だが、だとすればそれを置いた今、テロリストの一味がいるというのに、なんとも無用心だ。
「どうした、それすらも知らないのか」
 答えない美月をルーファウスが振り返る。
 冴えた虹彩がいっそう冷たく光る。答えなかったのではない、答えられなかったのだ。男の一挙一動に呼吸を握られている。ただそこに存在しているだけなのに、なんという威圧感だろう。
 ぐっと唇を噛み締めて睨みつける美月に、ルーファウスは興が削がれたように首を捻って、まあいい、と言った。
「君をこちらへ歓迎したのは、我々としても話したいことがあったからだ」
 手のグローブまでもを外し、ルーファウスはすでに用意されていたティーセットに紅茶を注ぐ。意外な動作ではあったが至極洗練された無駄のない動きだった。
「立っていないでこちらへ来たらいい」
「わ、たし……」
 やっとの思いで絞り出した声はなんとも情けなく掠れていた。ルーファウスは目を細めると、ポットを置いて、美月のもとまで歩み寄ってくる。
「なに、心配することはない。私が君を取って食うとでも?」
 言葉尻に残された、有無を言わさぬ牽制に美月をいっそう緊張させる。
 目の前にやってきた純白のダブルスーツに眩暈を覚えながら、美月はルーファウスを見仰ぐ。白く長い指先が顎をすくうと、しっかりと目が合った。
「いい目だ。その目を見ているとゾクゾクする」
 自分がどんな目をしているか、自覚があった。わたしも、という言葉は固唾とともに呑みこまれる。シルバーに近いほどの氷青の瞳を見るだけで背すじが冷えてたまらない。美月は震えそうになる吐息をなんとかこらえると、「なぜ、わたしを、ここへ?」と言葉を捻り出した。
「なぜ、か。ふむ、そうだなそこから説明しよう」
 この警戒心や敵対心を極限に削ぎ落とした態度がやけに癇に触る。研ぎ澄まされた顔立ちは、初めて見たときよりも穏便そうに見えるが、そんなの仮面だと考えなくてもわかる。隠しきれていないのだ。美月を見る視線や、吐く吐息、それから、足音でなんとなしに感じ取れてしまう。そこに、本当の温情など含まれていないことを。
「砂糖とミルクは?」
「いりません」
「よろしい」
 ルーファウスは美月の顎をするりと撫でたあと、彼女を真ん中のソファへとエスコートした。後ろに縛られたままだから、ソファに腰を据えるのもやりづらい。見た目どおりにふかふかなそれに体勢を崩すと、ルーファウスは美月をしげしげと見下ろしたあと、それを立て直してやった。
「さて、なぜ君をここに連れてきたか、と言ったな」
 目の前にルーファウスが座った。美月がこくりと頷くと、澄んだ瞳が伏せられたあと、長い睫毛を揺らして美月を射抜く。そのたびに、背すじに悪寒が走る感覚が美月を迫りたてた。
「前述したとおり、ほかでもない君に話があるからだ」
「テロリストのわたしに?」
 眉をしかめた美月にふと不適な笑みを浮かべて、ルーファウスは、そうだ、と言った。
「我々は君に協力を願いたい」
 思いがけない言葉だ。
「きょう、りょく?」と狼狽える美月に、ルーファウスは唇を薄くつり上げて額に落ちた髪をかきあげた。
「ああ。そうすれば、君や君たちに危害は加えないつもりだ」
 喜べ、とばかりのルーファウスのその仕草に、美月の顔はさらに苦々しい表情へと変わる。
「協力って、なにを……わたしは、なにもできません」
 それはどうかな、ルーファウスは脚を組み直しながら言った。
「先日、私の会社の研究室でとある資料を見つけたのだ」
 ハッと目を瞠った美月に、ルーファウスは笑みを深める。
「そこには、ある検体の体に我々とは異なる変異細胞を見つけた――と書かれていた。その検体は、成人。髪が長く、肌色素は薄いのに髪や瞳が濡羽色の、ウータイの人間によく似た女。極めつけは、突如猫に変貌を遂げる」
 美月の体は震えだしていた。怯えを隠さずにルーファウスを凝視すると、彼はふっと鼻で笑い、体の前でゆったりと手を組んで指先をとんと打った。
「他人とはちがう、そう感じたことは?」
「そんなの……」
 ちがうところばかりだ。だって、この星で生まれたわけじゃない、別の世界からやってきたのだから。唇を噛み締めると、びり、と鋭い痛みが走った。口の中にじわりと鉄の味が滲んでいく。
「わたしは、ただの人間です」
 それでも、美月は答えた。ただの人間である、『美月』しか彼女は知らない。
「ふむ、一見はそのようだな。無知で、無力、おまけに浅はか――」
 舐め回すように美月を見て、ルーファウスは言葉を切った。心臓の収まりが悪い。どくどくといやな鳴り方をしている。喉元がむずむずするし、頭にかあと血が上る。それなのに、あの恐ろしすぎるほど美しい瞳を見ると体の芯がひゅっと冷える。
「ほんとうに、わたしは、なにも、持ってない」
「それはこれからわかることだ」
 ルーファウスは一度瞳を伏せると、飲んだらどうだ、とテーブルのティーセットを一瞥して顎をしゃくった。
 この男は……とぎりり歯を食いしばる美月を鼻で笑い、「そうか、飲めないのか」と立ち上がる。かつ、かつ、と乾いた音を鳴らして、二歩ほどで彼女のそばに立つと、ルーファウスは美月の腕を縛りあげていたロープを近くにあったライターで焼き切った。
「これで君は自由の身だ」
 スッと、鋭く、そして愉快そうに細められた瞳が落とされる。手は自由になったが、きつく拘束されていたからか、うまく力が入らない。
 だらんと革張りのソファに落ちた手を見て、ルーファウスは、痺れたか、と呟いた。
「ならば、飲ませてやろう」
 あろうことに上体を折り曲げ、彼は長い指先でカップのハンドルを握る。美月は眉根を寄せてかぶりを振ったが、ルーファウスは、遠慮するな、と上等なピオニーシェイプのカップを彼女の唇へやわく押し当てた。
「唇が荒れているな。水分をろくにとっていないのだろう。それから、栄養、睡眠。なんてことだ」
 これは優しさではない、憐憫だ。そして、征服だ。
 飲むまいと頑なに拒んでいた美月だが、ルーファウスが空いたほうの手を顎に沿わせ、繊細な仕草で下唇をなぞると、反射的にだらしなく唇が開いてしまう。咄嗟に閉じようとしたが、もはやあとの祭りだった。ぬるくなった紅茶が唇にあたり、ふわっとダージリンのかぐわしい香りが鼻腔を突き抜ける。本能的に体がそれを欲して、美月はそれを受け容れた。薄く開いた唇の間から紅茶が口内へ入り込み、瞬く間に満ち、ごくりと喉を潤していく。それを認めるとルーファウスはカップを戻した。
「どうだ。最高級の茶葉の味は」
 唇の端からは、飲みきれなかった紅茶が顎へと伝っていた。
 こんな状況ではわかるはずもない。喉越しは普通の紅茶だ。それでも、冷めていたというのに苦味よりも甘味が口の中に残っている。
 無意識に唇を舐めた美月に、ルーファウスは再び優しく紅茶を飲ませてやる。二、三、それを続けると、彼は満足そうにカップを置いた。
「さて、話を続けよう」
 つまり、彼が言いたいのは、神羅に体を差し出せということだった。宝条が残した研究の続きを行うために、サンプルを手元に戻したいのだ。そして、その交換条件として、クラウドたちに手を出さないことを約束すると言った。
「悪くない話だとは思わないか?」
「意図が、わかりません」
「意図?」
「わたしを研究したところで、なんの助けにもならない」
 そうだ。『わたし』はなんの力も持たずのうのうと平和な世界で生きてきた人間なのだ。
 緊張からだろうか、舌がぴりぴりする。指先に感覚は戻ってきたが、まだ動かす気にもなれない。
 顎すら濡らしたまま、美月はルーファウスを仰ぐ。
「ひとつだけ良いことを教えてやろう」
 ルーファウスは指先で甲斐甲斐しくこぼれた紅茶を拭った。
「宝条が置いていった書類には、もうひとつ言葉が残されていた。いや、言葉というよりかは、ある単語と言ったほうがいいか」
 指先をそのまま美月の唇にあてがい、紅茶の滴をそこへ落とす。
「S細胞――とな」
 どくり、心臓がうねる。
「えす、さい、ぼう……」
 ルーファウスは美月の瞳をじっと覗き込んだ。

superior優れているか、special特別か、あるいは——Sephirothセフィロスか」

 なんて、茶番だ。
 セフィロス? セフィロス細胞が、『わたし』に?
「そんなこと、ない」
「それは、本当か?」
「ない、ないったら、ないの!」
 美月は髪を振り乱し、ルーファウスの視線から逃れた。いやいやと頭を抱える美月に容赦なくルーファウスは続ける。
「いいや、君自身気づいているのではないか? おのれの異常性に」
「知らない……ほんとうに、知らないの……わたしはただの人間なの!」
 脈が早まる。目の奥が熱く、灼きつくように痛い。
「では、なぜ猫になる? なぜ、魔晄の影響をさほど受けない?」
「知らない、知らない……」
 美月は子どものように繰り返す。

 ――あなたはだれ

「わたしは、わたしよ」
 そうだ、そうであるはずなのだ。それしか、ないのだ。そうでしょう? 小刻みにかぶりを振る美月の唇から弱々しく吐息がこぼれていく。
 心配しなくていい、ルーファウスは囁くように低く言った。
「私は知っているぞ。君のなかに生まれた、深い問いをな」
 がくがくと顎が震えだす。舌の痺れがいっそうきつくなってきた。そうだ、これは恐怖なんかじゃない。あの紅茶に薬を盛られたのだ。抵抗する間もなく美月の脳髄にルーファウスの声が滲んでいく。

「わたしはだれ?」

「わたしはなに?」

「わたしはほんとうにわたし?」

 心を乗っ取られるような揺さぶりだった。

「やめて……」
 美月は必死でそれを振り切ろうとする。

「わたしはだれ?」

「わたしはなに?」

 

「わたしは、ほんとうにニンゲンなの?」

 

「――やめて!」
 気がつくと、美月は目の前にあったカップをルーファウスへ向けて投げつけていた。ばしゃ、と飛沫の上がる音がして、耳障りな声が止む。はあ、はあ、と洗い呼吸を繰り返し、美月はルーファウスを見遣る。
 だが、刹那、白い腕が目にも留まらぬ速さで伸びてきた。