第八話 飛び続ける

 私立渋谷煌心女学園における一級呪霊特殊事故の被害について

  負傷者三名、うち一名、重傷。
  以下、被害者リストである。

 教諭 黛春子     東京都板橋区⬛︎⬛︎5-10-3
    メゾン・リュミエール205号
    電話番号 03ー■■■■ー■■■■

 生徒 ……
    ……

  尚、被害者の略歴に関しては次ページに記載する。
  ……

 

 数日ぶりに帰った高専にて、五条は部下である伊地知から渡された書類を眺めていた。
 昨年、渋谷にある私立中高一貫校にて起きた呪霊事故の被害報告書だ。彼が手にしたものは高専内に保管していた原本であり、通常ならば持ち出し禁止となっている書類である。しかし、彼は伊地知に命令して、それを取ってこさせたのだ。
「どうして今さらそんなことをなさるんです」
 伊地知は怪訝そうな顔であったが、五条は、「大人の事情だよ」と言って口を割らない。
「……まあ、言いたくないのなら無理に聞きませんが。しかし、高専内の資料ならともかく、すでに提出済みのものを回収し抹消するとなると正直難しいですよ」
 彼が話しているのは、五条が押しつけたとある用命についてだった。五条がまさに手にしている呪霊事件の被害者データを回収及び抹消すること、それが先輩であり上司である五条が彼に課した極秘任務であった。しかし、このご時世、自分たちの手から離れたデータを回収するなど無理に等しい。五条にこき使われて約十年の伊地知もさすがにハッキング技術は持ち合わせていないらしく、やれることはやったがお手上げ状態であった。
「それをどうにかするのがオマエの仕事でしょうが」
「いや、いくらなんでも横暴な」
「いいじゃん、伊地知ハッカーなっちゃいなよ。ほらフード被ってパソコンの前に座ってさぁ、この際痛烈にデビューしちゃいなよ」
「どんなステレオタイプですか。だから、バレたら新聞の一面ニュースですからね。というか、ハッキングなんてよっぽどの人間じゃないとできませんよ」
「えー、僕できるけど?」
「なら五条さんがやってください」
「ニュースになってもいい? 僕ならこうドーンとド派手にナントカ省爆破! みたいになるけど」
「それはハッキングとは言いません」
 結局めんどうなんだろうなこの人は、と半ば呆れた様子を隠しもせず伊地知は言う。五条は持ち前のマイペースさでつゆにも意に介さず、椅子に座り机に脚を載せながらなおも書類を眺めていた。
「提出先リストはできてるんだよね?」
「ええ。通常どおり、上層部と国、それから都や区の教育委員会です」
 また別の紙を伊地知が渡す。
「うーん、なかなか厄介な相手が並んでるね」
「なにしろ情報の扱いについてはうるさくなる一方ですからね。一年も経っているとなると、報告内容の修正もあやしいですし」
「うん、それでいこう」
「え?」
 信じられないものを見る顔の伊地知に、五条はにっこり完璧な微笑を向ける。
「だから、データを改ざんしてそれを新事実として報告するって話」
「今、私の話聞いてました? 一年も前の報告データの修正を依頼するなんて、疑われるに決まってるじゃないですか」
「だからそれをどうにかするのかオマエだろ?」
 まさに、開いた口が塞がらない、だろうか。口を半開きにして五条を見つめる伊地知をよそに、五条は脚を下ろし気だるく立ち上がる。
「じゃ、被害者リストそっちで適当にでっちあげといて」
「ちょ、五条さん?」
「僕これから任務だから。あー忙しい忙しい」
「って、私も仕事があるんですけど……聞いてないな、ありゃ」

 それが、五条が春子の家を訪れる一週間前のこと。今は、もうそれから約二週間。春子の家を突撃訪問しておよそ一週間経っている。
 光陰矢のごとし。昏れなずむ陽射しの中、五条は大都会渋谷を見下ろしていた。
「それで、今日はどこの窓から報告が上がってるんだっけ」
 多くの人間が行き交う。それは波となり、渦となりまた人々を飲み込んでいく。なんとも奇妙な光景だった。
「本日は新宿です。なんでも歌舞伎町のビルらしいのですが、そこが少々厄介でして」
「歌舞伎町か、また新鮮かつおどろおどろしい呪いが見られそうな場所だねえ、ウン腕が鳴るよ」
 伊地知からの言葉を流しながら、五条はなおも眺め続ける。
「全八階、下から五階までは現在も営業中の居酒屋が何店舗か入っています。上三階は空きテナントで、およそ五年前に以前入っていた店舗の店長が殺されて以来ずっと空いているようです」
「おーこわ。なかなか香ばしいにおいがするね。オッケー、あとで住所送っておいて。下見して、生徒たちに任せられそうなら伊地知にバトンタッチするから」
「ですが、五条さん大丈夫ですか?」
「なにが?」
「そこのビル居酒屋しかはいってませんけど」
「いやいや居酒屋を舐めるなよ。最近はデザートもおいしいんだから」
「やはり酒は飲まない前提なんですね」
 五条は風に髪を遊ばせ、渋谷の雑踏に背を向ける。
「ところで、あれは順調?」
 あれ——伊地知に頼んだ、もとい押しつけた、渋谷煌心の被害者リストのことだ。
 伊地知は心底疲れた様子で、だが、言葉尻は引き締めてうなずく。
「すでにリストに挙げた団体には変更及び既存データの削除を依頼してあります」
「さっすが伊地知。僕が見込んだだけあるね」
 電話口の向こうでため息が聞こえた。
「そういえば、煌心とはまた別に近ごろ渋谷周辺でどうやら女性を狙う呪霊が現れているみたいですね。ご存知ですか?」
 五条はその渋谷煌心女学園のある小田急井の頭線神泉側を見据えた。
「知ってる」五条は言う。「ちょっと気になってたんだ。毎日不特定多数の場所で三級あるいはそれ以下の呪霊が突発的に発生している。それも、種類はさまざま。次の日になると、忽然と消える——だろ?」
「ええ。さすが五条さん、情報が早いですね」
「まあね。僕、天才だから。幸い怪我人はさほど出ていないけど、それも時間の問題だろうね」
「ええ。それで、気になって調べたところ、狙われた女性の身体的特徴に共通点があることがわかりまして」
 へえ、五条は唇を舐める。
「年齢は二十代半ばから後半、背は一六〇センチ前後。髪型はハーフアップ、あるいはサイドテール。どちらにせよ結い髪ってところかな?」
「おっしゃるとおりです。しかし、なぜ……」
「ん? ただの僕のカンだよ。特級呪術師のね」
 神泉側、いわゆる奥渋谷と呼ばれる界隈はスクランブル交差点側からすると、夜明けだ。ネオンまたたく夜の街よりも、静かに、そしてしめやかに始まりを告げる。
 こんなはずじゃなかったのに、五条は舌を転がす。
 あの夜だってそうだ、ただ彼女の後を追いかけてその動向を探っていた。彼女をというより、彼女の「周りの」と言ったほうがいいだろう。ほんのそれだけのはずだったのに、あの窓を叩いてしまった。
 よほど、困憊していたのかもしれない。
 辟易していたのかもしれない。
 ただそれは、五条悟のみが心の奥深くで知ること。
「その件、面倒なネズミが動いてるかもしれないから、ちょっとアンテナ張って見ておいて。ま、僕がいるから平気だろうけど」
 彼を知ってなお、彼女は彼を受け容れるだろうか。まだ、“救世主”などと甘言を紡ぐだろうか。知らないくせに——それでもなお、止まり木を手放した鳥は飛び続けなくてはならない。
 彼は乱暴に電話を切って、黄昏の狭間から消えた。