第七話 駆ける彗星

「甘いものたべる?」
 気を取り直すと、春子は棚からクッキー缶を取り出しながら五条に声をかけた。
 以前、岐阜から取り寄せていたクッキーだ。五条は背もたれから体を起こした。
「ん。てか、これ食べていい? めちゃくちゃ僕のこと誘ってきてるんだよね、このカワイコちゃん」
「いいけど」
 カワイコちゃん、そう言って五条が手にとったのはテーブルの上に広げっぱなしだったラムボールのこと。冷蔵庫から出してしばらく経っているが、チョコレートが溶けてきっと頃合いだろう。
 クッキーと、それから自分用の缶チューハイを持って行こうかと冷蔵庫に手を伸ばして、やめる。
 手のひらほどの大きさのラムボールを、いただきまーす、と軽く口へ放り込む彼の姿を横目に、春子はお湯を沸かして紅茶を淹れることにした。
 しかし、くうー、とまるで居酒屋で駆けつけ一杯やったときの声が聞こえて、春子は手を止める。
「効くね、これ」
「横浜のラムボール。おいしかった?」
「おいしい、うん、おいしいけどさぁ」
 振り向いて春子は目を瞬いた。
「五条くん?」
 なんだか様子がおかしい。ふっと頭をふるったかと思えば、額を押さえうつむく。
 大丈夫? 慌ててそちらへ戻ると、彼はふらぁっと上体を揺らした。
「ラムが入ってるって気づかなかったのは不覚だったな」
「あ、もしかして、ラム苦手だった?」
「ラムっていうかお酒全般。僕、下戸だから」
「ごめん、それは知らなかった」
 いつもよりふらふら頭を揺らす五条は本当にお酒に弱いのだろう。たしかにこのラムボールのラムはかなり強めだが、まさか一個めで酔うとは。だが、アルコールを受け付けない体質の人は、一滴のそれでさえ過敏に反応するのを春子は知っている。
 こんなに屈強そうな……いや、顔だけで言えばどちらかというと繊細に見えるが、なんだかとことんちぐはくでめちゃくちゃだな、と春子は思う。
 ぐらりとソファの背もたれに背中を預け、いよいよ天を仰いだ五条に春子は水を用意してやることにした。
「五条くん、水分とって」
「ん、ありがと」
 グラスを渡す。そのうちにラムボールの箱を閉じて回収することも、もちろん忘れない。
「あとは、お湯沸いてるから緑茶と……お味噌汁でも飲む?」
「んー、春子は気が効くねぇ」
「つらい思いさせちゃったのは、わたしだから。本当、ごめんね」
 こんな姿は初めてだ。勢いよく水を飲む手元もなんだかおぼつかないように見える。申し訳ないことをしてしまったかな、思いながらも、その姿はどこか新鮮だった。
 そそくさとラムボールの箱を冷蔵庫へしまって戻る。空になったグラスを預かると、春子はふたたび背もたれに体を預け天井を見上げる五条をのぞき込んだ。
「なに?」
 どうやら、目は開いていたらしい。反応を示した彼に春子は、ふと微笑む。
「五条くん、案外かわいいところもあるんだなって思って」
「なに言ってんの、僕かわいいの権化でしょ」
「少なくとも、ゴリラのほうがかわいげがあるよ」
「春子も言うね」
 なんだ、意外と余裕そう? 春子は思い、水のおかわりをとりにいこうとする。
 しかし、五条の腕がそれを拒んだ。
「なに、五条くん」
 大きな手が春子の手首を掴んでいる。待って、とも、行くな、とも、なにひとつ言葉はない。ただ五条はあご先を天井に向けたままどこかを見ていて、春子を見ていたかもしれないし、はたまた、にびやかなライトを見ていたかもしれない。手にはさほど力が込もっておらず、ふりはらって、キッチンへ向かうこともできた。しかし、春子にはそれができなかった。
 目隠しのせいでどこを見てなにを考えているかさえわからないのに、その視線から逃れることができない。先ほどまで緩んでいた空気が一瞬にして濃縮されてしまった。呑気な笑い声が、テレビからは響いている。手首を掴む熱と彼の澄んだ横顔に戸惑いながら、彼女は彼の顔を再び覗きこむ。
「春子」
 やめて、そんな声で呼ばないで。それはわたしには毒だ。
 しかし毒にいざなわれる蝶のごとく、体がうまく動かない。目で彼の造形を模って、春子は息を呑む。天を真っ直ぐ向いた鼻頭に、そこから美しく広がる丘陵。頬はすべらかで、思わず指をすべらせてみたくなる。
 ほんとうに、きれいな顔だ。春子はソファの開いたところへグラスを置いて、そっと指を沿わせた。あごや頬、それから鼻梁。目元は隠れているくせに、ひとつひとつのパーツが繊細で緻密で、フランス人形のように彫り深い。なによりも目につくのは、女性よりもぽってり潤んだ唇だった。
 目を奪われそうになりながら春子はなんでもないふうを装って瞳を伏せる。そうしてまた彼の顔を観察した。いつもは血の気を感じさせぬ白磁の肌が、いまはうっすらその下に生命の流れを感じさせ、色づいている。
 彼はなにを見ているのだろう。春子は指を滑らせ、顔の大半を覆っている黒布へと伸ばす。もはやそれが春子の意志かもわからず。ただ静かな熱に浮かされた脳が指令を出す。
 真昼の窓際、影が浮かんでいる。その薄いレースのカーテンをめくるように、人差し指でゆっくりと目隠しを払う。
 ——彗星が、駆ける。
「春子」
 おねがいだから、そんなふうに名前を呼ばないで。
 砂糖菓子のように溶けた瞳が、春子を見上げていた。中に煌めく星の輝きはなんて果てしないのだろう。これ以上はいけない。踏み込んではいけない。そう思うのに、それでも指先がとまらず双眸を隠していた黒布を額へ押し上げる。
 息が止まる。視線が絡む。まつ毛が揺れる。虹彩が瞬き、そこにたしかに一人の女が映っている。その瞳が果てしない宇宙が春子を捕らえて逃がさない。こらえきれず、熱い吐息がもれる。春子の腕を掴む力が強まる。
「春子」
 そんな声、出さないで。そんな眼でわたしを見ないで……。
 しかし、それを合図と知らぬほど、初心な女ではない。目隠しが彼の髪をすり抜けるのと同時に、春子の中で築いてた砦が崩れ落ちた。音も立てずに、ゆっくりと。
「ん……」
 五条の薄く開いた唇に、春子は自分のそれを重ねた。
 初めは熱のないキスだった。ただ互いを押し付けただけの、皮膚のふれあい。しかし、最初に踏み込んだのは春子だ。かすかに口を開いて彼の唇を食む。やさしく、何度も、だれもが触れたことのない繊細なガラス細工に唇を寄せる。舌先で彼のそこをなぞって、また唇のあわいを食んで。次第に熱のこもった吐息がまじりあい、ちゅ、ちゅ、とあえかに淫靡な音が立つ。空いた手で五条の輪郭をなぞり、耳を撫で、髪に指を通す。いつのまにか春子の舌は五条の口内をやわく蹂躙し、彼を強く模るようにして頭蓋をその手のひらに包んでいた。
 どれくらい、そうしていただろうか。
 やがて離れた唇から、どちらの唾液かもわからぬ糸が伝う。
「……は、ずるい女だね、春子は」
 掠れた、熱い吐息だった。春子の髪が外界と彼らを隔つ中、碧い瞳が彼女を射貫いている。それは、閉ざされた世界に煌めく儚くも烈しい光だ。
「やだな、春子サンのキス、そんなによかった?」
 ほんとうは、こっちのほうが腰を抜かしてしまいそうだったのに。せめてもの強がりで唇を薄く引いて笑うと、うなるように五条は言った。
「ちょっと黙って」
 次の瞬間、春子の視界は一変した。ごとり、ラグになにかが落ちる音がする。室内灯の眩しさが目に刺さる。途端に焼かれた目を細めると、彼女の口を五条が塞いだ。
 先ほどのキスなど、まるで小鳥の戯れだとばかりに勢いよく噛みついて、互いの熱を魂を貪っていく。わけがわからない。本当に、どうしてこうなっているのだろう。しかし、それでいてすべてがわかってしまうような気がする。
 五条の体温を感じながら、五条の舌を受け容れ、そこへ自分の舌を絡ませながら春子はなおも彼に手を伸ばした。
「僕はさ、愛だとか恋だとか、そんなのずっといらないと思っていたんだよ。そんなのまやかしだ、戯言だ、この手には邪魔なだけだって。むしろ、今でもそう思ってる」
 自分を見下ろす瞳をまっすぐに受け止めながら春子は、うん、と相づちをうつ。
「でも、なんでかね、いくら突き放したって、離れてくんないの。いつだってオマエの影がちらつくよ。仕事が終わって、疲れて、っていっても、疲れることなんてあまりないんだけど、でも、ああいっそすべてを壊してやろうかなって思うときに、春子の声が聞こえるんだよ。五条くんって。もしかして、僕、春子に呪われてる?」
 そのすべてを持つ瞳の底知れない闇に見据えられながら、彼女はおかしくなって笑った。
「そうね、呪ってるかも」
 よくわからない人だった。よくわかろうともしなかった。絶対的な力を持ち、それを司る。春子にとっては命の恩人であり、ただ唯一の救世主。それ以上でも以下でもない、そう思っていた。
 しかし、春子の知っている常識はこうだった。腕を折ったら痛いし、喉を掻き破られれば血が噴き出す。歩き続ければ脚は疲れ、腹は減り、意識は朦朧としてくる。人は傷つき、困憊し、そして、死ぬのだ。
 彼の世界がどうだかは知らないが、春子の知るそれらは現実でありまた太陽が沈みまた昇るのと同義の紛れもない事実だった。
「五条くん」
 目もとへかかる髪をよけてやる。
「なにも知らないくせに」
「うん」
「なにも、わからないくせに」
「うん」
「なにもかもわかったような顔して、心底春子がむかつくよ」
「うん」
 そのまますべらかにこめかみをなぞって頬を撫でて、そして親指でそのまぶたを閉じてやる。
「わたしは、なにも知らない。わからない。理解してあげられないかもしれない」
「だろうね」
「でも、ここにいる。わたしも、五条くんも」
 彼の首へ手を回して、後頭部に指を這わせて抱き寄せる。首を、肩を、背中を、果てなく広いそこを春子の小さな手が模る。
「わたしたちは、それ以外のなにでもないでしょ」
 はっきりと自覚した恋心に蓋をする。恋なんて、きれいなものではないだろう。愛というにも、ひどくいびつだ。好きだ。彼が好きだ。きっと、どうしようもないくらいに、好きでたまらないのだ。どうにかなってしまいそうだ。
 それでも、言葉にせず彼を受け容れる。
 いつからこうなってしまったのか。どうして、こうなってしまったのか。もっともっと、きれいな関係だったはずなのに。ねえ、どうしてキスをしたの。どうして、ここに来てしまったの。そうでなければ、なかったことにできたじゃない。春子は泣きたくなる。それでも、しあわせに思えた。なんて身勝手な女だ。
 重なりあった箇所から熱がほどけ、ひとつになっていく。自分でも、どうしたらよかったのか、よくわかってはいない。ただ、体が、頭が、それでも彼を今離したがってくれない。
「あーあ、そうやって何人たぶらかしたんだか、わっるい女」
 胸もとでくぐもった声が聞こえる。
「千人かな」
「ビッチじゃん」
「今すぐ出てってくれる?」
 ふっと笑みがこぼれ、のしかかる重みが増した。
「——もう少し、このまま」
 春子はただそれを受け容れる。
「……五条くんがもういいって言うまで、いくらでも」
 カサついた指先が春子の顔をたどる。おぼつかない足どりの小さな少年が、まるでそこにはない泉を求め宵闇を歩くように。
 テレビからは他愛のない笑い声が響いている。天井に見知らぬシミができている。背中がかすかに疼く。胸が痛い。外に風は吹いているだろうか。空はきれいだろうか。今日、何人の人が死んだのだろうか。しかし、そんなのはどうでもいいことだ。
 やがて、彼は、彼らは再び互いを見つけ、熱を分かちあう。深く、重く……。

 ——あと何回、キスをしたら彼を救えるだろう。
 春子は思った。