IT GETS UNDER HIS “SKIN”

「ボン、話がある」
 その日ダイナーに向かった俺は、「向こうで待っていろ」と店主に言われる前にそう投げかけていた。
 閉店前の静かなダイナー。ジュークボックスからはボンベロの好きなクラシックだかジャズだかがしっとりと流れている。俺は趣味じゃないからあまりよくわからないが、ともかくこの時間に訪れるとよく耳にする曲だった。
「なにがあった」
 俺の声色になにかを感じ取ったのだろう、ボンベロはカウンターの向こうから視線を寄越した。
 俺は彼の前のスツールに飛び乗った。
「新しくコフィに連れられてきた女がいたな」
「……ああ」
 唐突に話題を切り出したにもかかわらず、彼は動じることもなく相づちを打つ。その様子から、少なからずそのことについてなにかを知っているようだ。
 ボンベロはカウンターで作業をしていた手を止めると、葉巻を取り出して客席までやってきた。
「裏切り者を始末した女だろう」
 マッチを擦って、火をつける。
「そう。その子」
「その女がどうかしたか」
 葉巻を咥え、ボンベロは一日の疲労を吐き出すようにそれをふかした。
 ジュッと音を立てて現れた赤い火は、ボンベロが手首を振るうと一瞬にして消えた。が、その残像は俺の瞳にくっきりと焼きついた。
 煙を纏うボンベロの隣で、カウンターテーブルを指で打ち鳴らす。
「なぜ、コフィは一般人を巻き込んだ?」
 コフィに連れられてきた女――エヴァ。彼女は、自分の愛した男を始末させられた悲劇の女だ。
 ボンベロはなにも言わずに、ぎょろりと目玉だけをこちらに寄越してきた。
 組織の掟は、関係のない人間を巻き込まないことだ。今回のことについて言うならば、彼女は完全にそちら・・・側の人間で、その掟どおり、なにもかも知らないまま、この先も生かされるはずだった。だが、それは思いもよらず覆された。
 組織に裏切り者が紛れこんでいる、その噂が立ったのは数カ月前のこと。
 ボスに頼まれて、その裏切り者を洗い出す仕事をしていた俺は、ある男に目をつけていた。そして、その男の周囲にも。しばらくして、そばに置いている女がいることがわかった。奴は巧妙にその存在を隠しているつもりのようだったが、もとより複雑な身でありながら、そういう存在を持つことがまず間違っている。それが都内の大学に通う女であることを突き止めるのには、そう時間はかからなかった。
 俺は、男を炙り出すのに、その女が使えるかどうかを探った。いつもの仕事だ。裏切り者に関係した人間をすべて洗い出し、始末すべきかそうでないかを判断する。
 それで、彼女はどうだったか?
「殺しも、なにも知らない女を、こっちの世界に引きずり込む必要があったのか?」
 喉元にせり上げる感情をぶつけるように、俺は声を荒らげる。
 女の顔を思い出す。あどけなさの残る、やわらかな面立ち。ふっと微笑む顔は、神々しい眩しさだった。差し伸べられた手のひらは小さく、血など触ったことのなさそうなきれいな手だった。
 だが、次に見たときには、慣れないヒールを履いて、よろよろと覚束ない足取りで歩きながら、迷いもなく引き金を引いていた。
 彼女は男の仕事に関与していなかった。それどころか、彼女はこの世界のことも、男がなにをしているかも、ひとつも知らなかった。
 俺は、それを知っていた・・・・・・・・。たしかに、ボスに告げたはずなのだ。
 彼女は、無害シロだ――と。それなのに。
「知らん」
 ボンベロは気怠く煙を吐き出して、にべもなく口にした。
「そうだよな。悪い、ボンに八つ当たりをしたってどうにもならないのに」
「お前はいつもそうだ。どうでもいいことに余計な情をかける」
 足をすくわれるぞ、ボンベロは言う。彼の吸う煙草の苦い匂いが鼻を掠めた。
 たしかに、ボンベロにはよく言われる。お前は実戦では役に立つのに、そのほかのときには余計なことに気を取られすぎる、と。今はここにはいないが、不憫なウェイトレスに声をかけては彼に呆れられることもしばしば。
 だが、今回は、彼女だけは違う。
 瞬くネオンから遠ざかった静かな街、薄っすらと街灯に照らされた彼女の頬が思い浮かぶ。
「どうでもよくはないんだ」
 ボンベロがぎょろり、視線を寄越した。それでも、俺は繰り返した。
「どうでもよくなんか、なかったんだ」

 ネオンのギラつく通りを越すと、真夜中の×××は、闇に包まれる。
 ボスに言われて、その男を探っているところだった。格下は格下、だが、なんでも、そいつはとある連中と関わりを持つモグラ・・・の疑いがあるらしい。組織はそんな裏切り者一人で崩れる軟弱なものではないが、できるだけ芽は早く摘んでおいたほうがいいと幹部の中で意見が合致した。男の動向を追い、俺は確実な証拠を掴むために動いていた。だが、運悪く俺に気づいた仲間から、銃撃を食らうというヘマをしてしまった。
 男の消えた廃工場を抜けたあと、俺は寝静まった街を歩いていた。紺色の空にはぽっかりと銀色の月が浮かんでいて、無情にも美しい光を放っていた。
 ずきずきと痛む脚と、ヘマをしたという罪悪感を抱えながら、それでもボスに得た情報を報告するために、事務所のある方角へと歩く。のろのろとした足取り。次第に出血の多さから目の前が霞み始め、不覚にも、いつしか俺は地面にへたり込んでいた。
 ああ、早くこんな仕事を終えて、ボンベロの作る飯でも食いに行きたい、そんなことを漠然と考えながら、重力に負け、影すらも飲み込む闇に視線を落とす。荒く呼吸を繰り返していた。
 本来ならば、こんなところで時間を食っている場合ではないのだが、少しの暇(いとま)くらいは許されるだろうか。そう思っていた矢先――いや、実際にはどれほど経っていたかはわからない――鈴の音のような声が落ちてきた。
「大丈夫ですか?」
 重い視線を上げる。銀色のヴェールが視界を包み込み、そこに、一人の女が佇んでいるのがわかった。
「どうして……」
 月明かりをたっぷりと背に浴びているその姿に、思わず声が零れる。
 見間違えるはずがない、彼女・・だった。
 差し伸べられた手は、ひどく白く、穢れを一切知らないかのようになめらかで、月明かりを浴びた頬には慈愛が浮かんでいる。くりんと小動物のように丸い瞳が俺に注がれ、夜、しかも辺りに光なんてひとつしかないのに、とても目映く感じた。
「あの……?」
 訝るように、こてん、と首を傾げた女に、俺は慌てて帽子のつばを下ろした。
「大丈夫、ちょっと、飲みすぎただけなんだ」
 ヘマをして銃で撃たれたとは言うわけにもいくまい。夜の街には、いかにもな言葉を並べると、彼女は疑いもせずに、眉を下げて困り顔で笑った。
 その顔はまるで聖母のようだった。いつか見た、母のやさしい笑みと見紛う、美しい笑み。羽で撫でられるような疼きが全身を駆け巡る。
 ああ、ここが天国なんじゃないか、そう、俺は思った。

「――で、食うのか、食わないのか」
 記憶の海に沈んでいた俺を、低い声が引っ張り上げた。
 店を閉めたいのだろう、その声の主は二本目の葉巻に火をつけている。俺は反射的に、悪い、と謝った。
「そうだな、ここに来たからにはなにか食べないと。簡単なものでいい、お願いできるか」
 そう口にすると、彼はあの涼しげな顔を微塵も動かさずに紫煙を吐き出した。
「どれも同じだ。メルティ・リッチとスフレで構わんな?」
「恩に着るよ、ボン」
 彼はたいしたことじゃないとばかりに眉を上げると、白いサロンを翻した。
 頭がジンジンする。目の前は霞み、店内の照明がやけに鈍く感じる。視線を逃した先に、カウンターの上に転がった真っ赤な林檎が目に入った。ズキ、目の奥に痛みが刺し、皮膚の下を駆け巡る。やがて、酷い疼きに変わった。
 額に手をあてる。べっとり、暑くもないのに汗が滲んでいた。
「スキン」
 調理場に消えていく直前に、ボンベロは立ち止まった。
「コフィの考えていることはよくわからん。だが、ボスデルモニコは奴の今回の騒ぎに関して、よくは思っていないだろうな」
 静かに響いた声に、唇を歪めて俺は天を仰いだ。

スキンの疼き