ENTWINE THEIR PINKIES

ホールに戻ると、ジュリアはナプキンを折る仕事を終えていたようだった。いつのまにかグリーンのワンピースに着替え、目元には濃いアイラインが引かれている。相変わらずどこかの魔女みたい。それだけで雰囲気がガラリと変わるものだから、自然と背すじが伸びた。
 四天王が集まるという今日の懇親会、当然ながら気を抜けないこともあって、ボンベロは早々に腕によりをかけた料理の本支度に入った。わたしはと言えば、調理場から聞こえてくる音をBGMに、ホールでこのあと使用するお皿やグラスを磨いていた。ボンベロから教わったように、食器と手を布で繋ぎ、余計な力を掛けずに撫でていく。目の前には、ほんのりむくれ顔のジュリアがいた。
 彼女も最初はグラス磨きをやりたそうにしていたのだが、ボンベロが、「こいつには指一本触れさせるな」と釘を刺したので、渋々わたしがやるのを眺めるにとどまった。
「カナコは、料理が得意なのよね」
 カウンターの向こうで、彼女がわたしの手元に視線を向けながら言った。頬杖をつきながら、きっと脚はいつものように放り出しているのだろう、ゆらりゆらり、体が小さく揺れている。
「得意と言っていいのかはわからないけど……わたしにとって、料理は特別、だったかな」
「特別?」彼女が視線を上げた。
「……唯一できるのが、それくらいだったから」
 布をグラスに巻きつけて、慎重に磨きながらわたしは答える。
 昔から、料理をしていると、嫌なことも世界と自分に感じる違和感も、すべて忘れることができた。料理はわたしにとって、唯一の拠り所だった。いつからかは、はっきりとわからない。けれど、おばあちゃんに料理を作ると、いつもすごく喜んでくれたのがうれしくて、子どもながらに必死で練習した。次第に、いつか自分のお店を持って、お母さんに料理を食べてもらうんだ、と思うようになっていた。
 ボンベロには全然敵わないけどね、と苦笑混じりに言い添えると、ジュリアは手のひらでふっくらとした頬を潰したまま、それだけでもすごいわよ、とまあるい瞳をもたげて言った。
「そう、かな」
「そう。私ね、料理はからっきし、裁縫も、掃除も、どれもあんまり得意じゃない」
 やれやれ、とジュリアは肩をちょこんとすくめてみせる。
「前に、手伝いをしようとして、ここの高いお皿も割ったわ」
「だから、ボンベロはジュリアになにもやらせないのね」
「そういうこと」
 不貞腐れた顔が、しきりに、「余計なことをするな」と口うるさく言うボンベロの姿と相まって、なんともおかしくて、わたしはくすりと笑ってしまう。ジュリアも釣られて、ふっと笑いを零した。
 調理場から聴こえてくる規則的な包丁の音や、じゅうじゅう、となにかが焼ける音、それを耳にしながら埃ひとつ逃さぬようにグラスを磨く。
「わたしね、ここで働いて、やっと少しだけ自分のことが見えてきたの」
 ジュリアの整った眉が微かに上がる。
「いつか、自分の料理をいろんなひとに食べてもらいたい。誰かのために料理を作りたいって、思うようになった」
 生きるか死ぬか、目の前に屍が転がるようなこの場所で、やっとわたしは光を見つけた。
 どこに行けばいいかもわからなくて、ずっとずっと下ばかり見て生きてきた。自分なんか、いてもいなくても同じだって思ってた。誰かのやさしさなんて、笑顔なんて、全部偽りだと思っていた。
 でも、今は、誰かとくだらないことで笑い合えるのも、やさしさを受け取って、その分のやさしさを返すのも、いいものなんじゃないかって思う。
 目の前で、ジュリアはわたしの話をじっと聞いてくれている。二つの宝石のような瞳が向けられて、少しだけこそばゆい。けれど、とても心地好い。
 じゅーっと、グリドルの音がする。とん、とん、とん、ボンベロの美しい包丁さばきが聞こえてくる。それでも、ここは殺し屋専用のダイナーではなくて、この地球のどこかにある、なんてことのないカフェのように思えた。
 いつか、わたしの作る料理を彼女に食べてもらいたい。そんなことを思いながら、話に耳を傾けてくれているジュリアに頬を緩める。
 お母さんは、もういいの。わたしのために、彼女に幸せになってもらえる料理を作れたら――。
 すると、ゆるりと長い睫毛が揺れて、真っ赤なルージュの塗られた唇が、きれいに三日月を描いた。
「カナコはすごいわ」
 グラスを磨く手を止める。思わず、きょとんとした顔をしていたのだろう、ジュリアはくすりと苦笑しつつ、「カナコは、すごいのよ」とゆっくり繰り返した。
「すごい? わたしが?」
「ええ、なにかひとつ好きなことを見つけるのすら難しいのに。それを誰かのためにしたいと思うなんて、なかなかできることじゃない」
 そんなこと……浮かんだ言葉とはうらはらに、わたしはなにも言えなかった。だって、うれしかったから。
 はむっと唇を隠すわたしに、彼女は、ね? と微笑んでくる。
 どきどき、と胸がどうしようもなく温かく疼いて、今にも喉から飛び出してしまいそう。すごく、すごく、うれしい。
 恥ずかしさを誤魔化すために軽くかぶりを振って頬の横に髪を落とす。ありがとう、となんとか礼を絞り出すと、彼女は満足げにふふん、と鼻を鳴らした。
「ジュリアは、なにか得意なことはある?」
 こそばゆさはいつまでも取れなくて、グラスを磨く勢いを強めながらわたしは彼女に訊ねた。
「得意なことねえ」
 ジュリアは頬を指でとんとんと打ちながら繰り返す。しばらくして、彼女の口から出た言葉は意外なものだった。
「これといって浮かばないかも。小さいころから、大人になるまで、ただなんとなく生きていたから」
「……本当に?」
 訝るわたしに、彼女は、どうして嘘つかなきゃいけないのよ、と頬杖をつくのをやめて、髪をひと房指先に絡めた。
 たしかに、それもそうだ。でも、正直、信じられなかった。
「カナコが思うほど、私、特別な人間じゃないのよ」
「そう、かな」
「そうよ」
 くるくると髪を指に巻きつけて、それからぽい、と放り出す。彼女の体はゆらりと微かに揺れていた。
「私、夢も目標もないまま、考えることなんてしないで大学まで進んじゃったの」
 彼女はそう言って、再び頬杖をついた。磨き終えたグラスをスタンドに戻し、新たなグラスに伸ばそうとした手を、わたしは止めた。
「そこそこ勉強して、そこそこ遊んで、不自由はなかったけれど、気がついたら、自分の中になあーんにもなかった」
 好きなことも、熱中することも、あるいは、得意なことも、彼女にはなにもなかった。軽やかな物言いに反して、物憂げな声色が、不意にわたしの心の奥を疼かせた。
 だって、わたしの中で、ジュリアはいつも光を放っていて眩しいから。
「だから、この世界に来ることは必然だったのかもしれない」
 特技は射撃なんて、殺し屋がぴったりね、と彼女は戯ける。
「そんなことない!」
 気がつけば、わたしは声を荒らげていた。
「ジュリアは……ジュリアは、素敵な女の子だよ」
 一音一音、はっきりと、彼女を、目を見つめて告げると、わたしに向けられていた瞳が大きく見開かれて、濃く鋭いラインの中で間抜けに揺れた。
 人を認めるようなことをわたしが誰かに言うなんて、今までじゃ考えられなかった。けれど、今、わたしは、彼女から一ミリも目を逸らさなかった。逸らしたくなかった。
「あなたがくれたマドレーヌ、多分、すごく美味しかった」
 むせ返るほどの熱を帯びた胸に、唇から言葉が飛び出す。子どもが、でも! でも! と訴えるみたいに、少し早口になりながら。
「多分って。ボンが作るものなんだから当たり前じゃない」
 ジュリアは呆れて笑う。
 彼女の言うとおりだ。あのボンベロの作るものがまずいわけがない。それに、正直言うと、味なんてわからなかった。けれど――わたしは、かぶりを振る。
「そうじゃない、ジュリアがくれたから」
 きっと、絶対に、美味しかったのだ。はっきりと迷いのない口調で言い切ったわたしに、彼女は、ぱちりぱちりと目を瞬かせる。なおも目を逸らさずにいると、「本当、カナコって、ばかね」とちょこんと肩をすくめた。
「ばかって言わないで」
 言いながらも、ばかね、その言い方がまるで頬を撫でるようにやさしくて、わたしは、慌てて目元に前髪を落として指で梳かした。ジュリアはやさしくわたしを見つめていた。
 やがて、ジュリアは頬杖をつくのをやめると、目を瞑り、鳥のように首を二、三度捻ってから、ぐっと両腕を上げて伸びをした。
 ン、と体を伸ばしきったあとに、ゆっくりと羽ばたきのように睫毛が揺れる。
「いつか、カナコに料理を教えてもらおうかしら」
 薄っすらと開かれた瞼の合間から目が合って、彼女は笑った。
「わたしに?」
「そうよ、カナコに」
 ダメ? 彼女はこてん、と首を傾げる。
「ダメじゃ、ない」
 小さく口にすると、なら決定、と彼女は白い歯を見せた。
 彼女の向こう、ダイナーの壁には、互いに手を伸ばす大きな絵画が飾られている。ずっとずっと奇妙だと思っていた絵。だが、今は、なんだかしっくりくる。
 じわりじわり彼女の言葉が胸に広がって、なにかが込み上げる。なんだろう、すごく、満たされた感じ。
「じゃあ、約束、ね? 絶対にボンベロをアッと言わせてあげる」
 少しだけ緊張しながら小指を差し出す。
 彼女は、そうこなくっちゃ、と自分のそれをするりと絡ませてきた。