懇親会当日、いつものように店支度を迎えたダイナーは、夜が明けてすぐのすみれ色の空のような、さっぱりともしっとりとも言い切れない空気に包まれていた。
わたしはモップとバケツを手に、トイレに始まりそれぞれの個室、通路、そして懇親会で使う貴賓室、と隅々まで掃除を行き渡らせる。指紋ひとつも許さない、といった調子で、あちこちへ体を動かす様子は随分手慣れていることだろう。おざなりな掃除をしてボンベロに殺されそうになったことが、今ではもう懐かしい。
その間、ボンベロは会場のセッティングと料理に使う食材の受け取り、ジュリアはまだ起きていないようだった。
しばらくして、掃除を終えてホールへ戻ってくると、やっとのこと彼女が姿を現した。ふあ、と欠伸を噛み殺すジュリアに、「遅い」と食材の入った箱を抱えたボンベロがにべもなく告げる。本当に、穏やかな一日の始まりのように思えた。
「カナコ、おはよう」
ジュリアはわたしに気がつくと、まだ眠たげな瞳をとろんと細めて笑った。
「おはよう。よく、眠れた?」
「ううん、まだ寝足りないわ」
首を捻(ひね)りながらスツールによじ登るジュリアに、カウンターの向こうに立っているボンベロは、咥え煙草をしながら、「馬鹿言え、寝過ぎだ」とわざとらしくぼやく。彼女はここぞとばかりに聞こえないフリをした。
特等席に座って、ジュリアは、ン、と伸びをする。体にはまだボンベロのシャツを羽織っているが、ぶらり、ぶらりと、放り出した脚には編み上げのブーツを履いている。
そんなジュリアの姿に、わたしはこっそり頬を緩めた。
「やっぱり、ジュリアにはその靴がしっくりくる」
言うと、ジュリアは脚をぶらつかせるのをやめて、頬杖をついたまま、ふふ、とやわらかく微笑んだ。
「いいでしょう? これ、スキンに貰ったの」
ボンベロが一瞬ジュリアを見た気がしたが、ジュリアは知らずに花が綻ぶように笑っていた。
「スキンが?」
目を丸くするわたしに、彼女はこっくり頷いた。
「はじめは、コフィに用意されたピンヒールを履いていたのよ、すごく有名なブランドのね」
「仕事のときに?」
「そう。でも、それが痛くて痛くて」
うんざりした顔を作ったジュリアだったが、わたしと目が合うと、すぐにふっと表情を緩めた。
「見兼ねたスキンが、わたしを靴屋に連れて行ってくれたの」
「靴屋?」
「そう、殺し屋御用達のね」
殺し屋御用達、物騒な言葉が唇から飛び出しているというのに、もう、全然怖くなかった。もしかすると、それは彼女が言うからかもしれないが。
「好きなのを選ぶといいよって、言ってきたの。でも、どうしたらいいかもわからなくて」
いきなりよ、知らない男に連れて行かれて、さあ靴を選べって、選べると思う? ジュリアは愉しげに続ける。それは……と言葉に詰まるわたしに、彼女はやさしく笑みを残して、視線を落とした。
「ただ立ち尽くしていたら、スキンが、これがいいって」
ぶらり、脚を揺らして、編み上げのブーツをわたしに見せてくれる。
「丈夫で、どこまでも歩いて行けるから」
足首からふくらはぎまで、女性らしさを際立たせるきれいなライン、ヒールは少し高めだがしっかりとしたチャンキーヒールで、とても履き心地がよさそう。
ジュリアは懐かしむように、そして、慈しむように目を細める。
「東のマテバには雑巾男がついている、奴にはくれぐれも気をつけろ、そうコフィから言われていたのに、わたし、王子様に出会ったみたいだった」
真っ黒に塗り潰された彼女の人生に、一抹の光が射した。それが、スキンというひとりの男だった。
ブーツに注がれるまなざしはやさしくて、丸くて、あたたかい。
わたしは、スキンが言った言葉を思い返していた。
――ジュリアは、自分の足でどこへでも行ける
切なさがこみ上げて、みぞおちの奥がきゅっと締めつけられる。すごく、すごく、苦しい。
スキンは、どんな思いで彼女と出会い、生きてきたのだろう。
己を愛することのできない人間が、もし無垢な愛を向けられたとして、果たしてその愛を受け取ることができるのだろうか。もしも、惹かれあい、心の奥で愛し合っていたとしても、呪縛に囚われたその身で、真っ向に愛に立ち向かうことができるだろうか。
彼のことを話すジュリアは、うれしそうに本当に王子に出会ったシンデレラみたいに愛らしく笑っている。
スキンは、どんな気持ちで彼女を見ていたのだろう。どんな願いを抱いていたのだろう。
「……スキンは、本当にジュリアのことを愛していたんだね」
彼女の履く立派なブーツを撫でるようにそうっと見つめて、わたしは唇を噛みしめる。スキンの気持ちが、なんだか、とてもよくわかる気がした。
彼女はなにも言葉にはしなかったが、ゆったりと、幸せそうにはにかんだ。
スキンがなによりも守りたかった微笑み。白いシーツの中で迎える朝、まろやかな陽射しがとびきり似合う。誰かを愛することから、決して逃れようとしなかった彼女のその顔は、わたしにもちょっぴり眩しい。
「おい、話をしている暇はないぞ」
そんな話をしていると、いつのまにか調理場へ姿を消していたボンベロが戻ってきた。相変わらず気配を感じさせないものだから、しんみりとした空気に浸っていたわたしはぎくりと体を縮こめる。あら、ボン、なんてジュリアはいつもどおり呑気だ。
ボンベロは呆れたまなざしでわたしを見ただけで、カウンターに座るジュリアの前に赤い布をどっさり放った。
「ジュリア、お前はそれを畳んでおけ。それくらいならお前にもできるはずだ」
ジュリアは、まあね、とでも言うように肩をすくめた。
「ほかにもなにかやろうか?」
「お前の仕事はそれだ」
「これ以外には、触らないほうがいいってこと?」
「宴の前に、店をボロボロにされちゃ困るからな」
「いけず」
二人のやりとりに、一瞬の緊張も忘れて、わたしは思わずくすりと笑ってしまった。
すると、ボンベロにはやや不躾な視線を向けられる。わたしは慌てて腰を曲げて、なんとかそれをかわした。それから、足元で物欲しそうに、ハアハアとベロを垂らす菊千代をひと撫でして、
「ジュリアに苺をもらったらいいわ」
と、誤魔化しがてらジュリアに助け舟を出した。
「そうね、餌やりもできる」
ジュリアも名案だとばかりに得意げな顔を浮かべた。
菊千代に向かって、おいで、と手を伸ばすジュリアに、やれやれと息を吐くボンベロ。わたしはどうしても笑いがこらえられなくて、口元に手をあてる。と、ボンベロが、表情を引きしめてこちらを見た。
「カナコ」
低い声に背すじが伸びる。
「そろそろディーヴァを冷やさねばならない」
懇親会まで、あと少し。
わたしはこっくり頷いた。
ボンベロを引き連れて、わたしは倉庫へと向かった。相変わらず薄暗く、鬱蒼とした雰囲気に、肌がじゅっと冷える。厳重な金庫の前まで彼を連れて行くと、彼はあからさまに眉をひそめたが、お構い無しにツマミを回して鍵を開けた。
そこには、仰々しい美しさのディーヴァ・ウォッカの姿があった。
「どういうことだ」ボンベロは唸る。
「あなたが確認したあと、ここに戻したの。いつバレるか、気が気じゃなかった」
わたしを殺したら絶対に見つけられない、などと言い触れておきながら、絶対に見つかる場所に隠すなんて酷い勝負に出たものだった。彼が少しでもわたしの言葉を真に受けてくれたのが本当に救いだった。
いやに動きを早めた心臓に手をあてると、ボンベロは、「本当に、扱い辛いやつだ」とため息をついた。
「ボンベロ」
彼がディーヴァに手を伸ばすのを眺めながら、わたしは言う。
「わたし、スキンがジュリアを突き放した理由が、わかった気がする」
伸ばされた手が動きを止めた。
だが、それは一瞬で、彼は、「そうか」と相づちを打つと、慎重な手つきでディーヴァを胸に抱いた。わたしは構わず続けた。
「スキンは、ジュリアに愛されるのが怖かった。母親以外からの愛を知らなかったから。愛して、壊してしまうのが、恐ろしかった」
愛は時として、憎しみよりも重く、怒りよりも激しい。
スキンはわたしに言った。俺は彼女にふさわしくないんだ、と。
無垢な愛を知らないから、彼は彼女の愛に報えるかわからなかった。憎しみと、嫌悪に塗れ、自分を罰することで生きてきた狂気の人生だったから、愛がどれほどの感情かを知り、彼は彼女を突き放すほかなかったのだ。
スキンはとてもよく自らの性質を理解していたんじゃないだろうか。
「少し違うな」
ボンベロは言った。
「たしかにスキンは恐れていたかもしれない。だが、それ以上にジュリアが幸福になることを望んでいた」
「スキンと一緒になることが、ジュリアの幸せなんじゃないの?」
すかさず訊き返したわたしに、彼は、いいか、と諭す。
「殺し屋の末路は殺されるか死ぬかだ。そんな男とともになることが、本当に幸せか?」
「それは……」
言葉に詰まると、ボンベロは、ふっと自嘲するように笑った。
「くだらん見栄だ。結末がわかり得ているのに、女を繋ぎとめるほど、馬鹿な真似をしてみせたくなかったのさ」
ディーヴァ・ウォッカの装飾をひとつひとつ撫でる。なにかを確かめるように。その横顔はたしかにいつもの精悍な顔つきなのだが、どこか物憂げにも見えた。
「とはいえ、あいつはかなりズレているところがある、俺にも真意はわからんがな」
呆然と彼の言葉を飲み込もうとしていたわたしに、ボンベロは言い添える。
「……男って、よくわからない」
小さく唸ると、ボンベロはなんとでも言え、とでも言うように、顎を上げて唇を微かに歪めた。
ボンベロは、どうなのだろう。
ふと、思ったが、妖しい輝きを放つディーヴァを睨みつけて、わたしは唇を結んだ。
