PARADISE LOST

 望みが叶わないことが生きる希望になっている奴もいる。ボンベロの言葉だ。それは、わたしの心に重く、重くのしかかり、深く沈んでいった。
 スキンのスフレからコインを抜き取ったのは、わたし。だって、完璧なスフレを食べたがっていると思ったから、よかれと思ってやった。だが、彼にとっては、それが幸せとは限らなかったのだ。
 わたしは二つの光を奪ってしまった。
 彼にとっての望みと、彼女にとっての希望を。
 ああ、楽園は、遥か遠く――。

 彼女が愛するひとを殺した日――わたしは自分の意志でここにいることを決めた。その日から、確実になにかが変わり始めて、下ばかり見ていたわたしの視界は、少しずつ、少しずつ、いろいろなものが見えるようになっていた。
 しばらく姿を現さなかったジュリアが突如ダイナーへ訪れたのは、懇親会まであと僅かというところだった。
「ようこそ、ダイナーへ……」
 ボンベロに言われて客を入り口まで迎えに上がると、わたしは自分の目を疑った。
「ジュリア……!」
 血塗れの体をよろめかせて、虚ろな瞳を浮かべた彼女の姿がそこにあったからだ。
「ボンは? ボンベロはどこ?」
 雨でも降っていたのだろうか、濃いアイラインがドロドロに溶けて、まるでホラー映画みたいにうわ言を繰り返している。思慮深いダークグリーンのドレスはところどころ煤汚れ、赤黒い大きなシミを腹や肩のあたりに作っている。
 編み上げのブーツが不規則に床を鳴らす。焦点の定まらぬまなざしで、まるで彷徨う亡霊となり、彼女はわたしの横をすり抜けようとする。だが、突如力尽き、その身を崩した。
「ジュリアッ」
 慌てて、彼女の体を受け止める。肌にぬるりとした感触がはりつき、酷い匂いが突き刺さる。アォン! と事態を見守っていた菊千代が大きく吠えた。
「なにごとだ」
 突然の騒ぎに、調理場からボンベロが顔を出した。いつもの感情を削ぎ落とした顔が、この光景を見た途端、一瞬で変化した。
「ジュリア!」ボンベロが声を荒らげる。
「ボン……」
 わたしの肩口でジュリアの吐息が漏れる。彼女の体には、もうほとんど力が入っていないようだった。
「もう、自分で、歩けないみたいなの」
 必死で彼女の体を抱えながらボンベロに涙声で告げると、彼はつかつかと大股でこちらへやってきた。
「カナコ、倉庫からウォッカを」
 わたしの体からジュリアを引き剥がすボンベロに、こっくりと頷いてみせる。彼は眉を微かに動かすと、彼女を抱えて店の裏へと立ち去った。
 取り残されたわたしの服には、べっとりとジュリアの血がこびりついていた。鉄と、泥の匂いの中に、微かに、彼女の香りが混じっている。
 わたしはぎゅう、と体を抱きしめ、鼻をつくその匂いに瞳を閉じた。
 それから、倉庫へとウォッカを取りに向かった。

「食え」
 ボンベロの手当てを受けたジュリアは、あの日のスキンと同じように、ソファの上でだらんと身を預けていた。その瞳はまだ虚ろで、精緻なフランス人形に見えなくもない。顔にこびりついた汚れはボンベロによって落とされ、あどけない彼女の素顔が露わになっていた。
「もう、いらないの」
 開いたドアの隙間から、ボンベロに差し出されたマドレーヌに、ジュリアがゆっくりとかぶりを振るのが見える。憔悴しきった姿は、痛々しくも、どこか神秘的な雰囲気を醸しだしていた。
 断られたボンベロは眉根をきつく寄せると、マドレーヌを自ら齧り口に含んだ。いくらか咀嚼したあと、ジュリアの顎を掴む。そして、あろうことか、彼女の唇に、自分のそれを押しつけた。
「ん……っ」
 だらん、と力を失ったジュリアの体が微かにみじろぐ。ボンベロはジュリアの頭がクッションから落ちないように支えて、ジュリアの唇をむりやりこじ開けているようだった。
 やがて唇が離れ、ジュリアの喉元がゆっくりと上下するのを見守ると、彼は言った。
「誰にやられた」
 互いの唾液がついたままの唇を拭いもせず、ボンベロは彼女をまっすぐに見下ろしている。
 わたしは、ごくりと唾を飲み込んでいた。
「しらないわ。コフィにたのまれたしごとをしただけなの」
 たどたどしい話し方が、やけに彼女の虚ろな表情に似合っている。酒を飲んだようにも見えるし、はたまた非合法な薬をやったようにも見える。コフィ、仕事、彼女はそう口にしたが、その実その意味をあまり知り得ていないような口ぶりだった。
 ボンベロはわたしにも聞こえるくらい、大きく舌打ちをした。なにが彼の癪に触れたのかはわからないが、コフィというのがたしか組織の偉い人の名前だったと思い出す。
「なにかが、うごきだしてる」
「……ああ」
「ボン、どうか、むりしないで」
「お前に言われても説得力がない」
 まるで、兄妹にも親子にも思えるやりとりだ。だが、今のわたしには、それ以上のものにしか思えなかった。
 厳しい顔をしていたボンベロが、彼女の言葉に口元を緩めている。ホラー映画に出てくる殺人鬼さながらのあの唇の歪め方ではなく、ただの男がするような、自然な筋肉の動き。
 ああ、なぜもっと早くにわたしは気がつかなかったのだろう。
 ジュリアの瞳はまだ虚ろで、なにを映しているのかはわからない。だが、ボンベロの瞳には彼女が映っていて、その奥になんらかの炎が灯っているようにも見えた。
「ねえ、ボン」
 ジュリアが手を伸ばす。力が入らないのだろう、だらりと指先を曲げたまま。
 ボンベロは彼女の埋もれるソファの前、絨毯の上に跪いた。
「あまりしゃべるな。傷に障る」
 感情をほぼ削ぎ落とした顔のまま、ボンベロはほんの少し丸みを帯びた瞳で彼女を見つめて言う。低く、落ち着いた声だ。
 やがて、白い指先がボンベロの頬に触れた。
「ころして」
 彼女の瞳に薄っすらと膜が張っていた。きらり、宝石のように煌めいて、やがて、睫毛を濡らしていく。
「ああ」
 ボンベロは彼女の手に自分の手のひらを重ねた。
 あの日、彼女がスキンにそうしたように。なにも恐れるものはないと小さな手を包み込む。そして、その指を絡め取って、ぐっと引き寄せた。
 ソファと彼女の背中との間に手のひらを滑り込ませ、上体を軽く起こすと、彼は、逞しい腕の中に小さな体を閉じ込めた。
「殺してやる」
 ぴったりと重なり合った影が、低く唸る。
「俺が、お前を」
 部屋からは強いアルコールの香りがしていた。
 ボンベロが傷口の消毒に使ったのだろう、嗅いでいるだけで酔ってしまいそうなほどの、強烈な酒の香りが。