スキンと彼女になにがあったのか、わたしにはこれっぽっちも想像できずにいた。
彼女の無垢な想いも、スキンの態度も、わたしの心の中で複雑に交差する。どうでもいい、そのひと言で済ませればおしまいなのに、絡んだ糸を目の前にじっとその解き方を考えたまま、ただ、時間だけが過ぎていく。
そんな中、ボンベロから告げられたのは新たな死刑宣告だった。
ディーヴァを懇親会で出す――ダイアモンドでろ過されたというこの世で一番高価なお酒ディーヴァ・ウォッカ。そのお酒は、わたしがここへ来て早々に人質にとった代物である。その言葉を告げられた瞬間、なんとも短いひと言だというのに、わたしの頭は鈍器で殴られるのと同じ衝撃を受けた。
ディーヴァのお陰で、わたしは生きながらえているようなものだった。それを提供するということは、すなわち死までのタイムリミットが定められてしまったも同然。不気味なほど凝った装飾を思い返しては、背中に嫌な汗が流れた。
「カナコ、ディーヴァを渡せば君は自由になれる」
ボンベロの横に佇んでいるスキンが子どもを諭すように言うが、わたしは後退りながら首を横に振った。
なぜスキンがそんなことを言うのかというと、わたしは彼に買われたらしい。ボンベロが、忌々しそうに教えてくれた。だから、ディーヴァの在り処を教えれば、そのスキンがわたしをここから出してくれるというのだ。でも、そんなの、信じられない。
「カナコ、本当なんだ、信じてくれ」
「むり、です」
スキンのやさしい声が脳をくすぐる。だが、わたしはスキンからも逃れるように、冷たい扉に背をぴったりとくっつけた。
「こいつはお前のことも信じていないんだ」
ボンベロは心底侮蔑したように眉を微かに動かして、ふん、と鼻を鳴らす。
「信じろって言ったって。こんなの、罠かなにかとしか思えない」
王の貫禄を失わぬボンベロと、長い前髪の下で整った顔をほのかに困らせるスキンとを見比べる。スキンが嘘をつくようには思えないが、それ以上に、今回のことを許したという組織のボスや、ボンベロの真意がまったく掴めない。残念なことに――いや、めでたいことに、なのだろうか――自分の命の時間を計り知ったからには、考えが研ぎ澄まされてしまう。
たとえ、ディーヴァの在り処を教えたとしても、ここを出て、すぐに殺されるかもしれない。それに、懇親会までは働かなくてはならないらしいから、もしかしたら、ここを出る前に。
一歩も譲らぬ姿勢でいると、やがて、スキンがボンベロを見遣った。その視線を受けたボンベロは、ぎょろりと黒目を動かす。言葉はなかったが、なにを言いたいのかわかったのだろう。「勝手にしろ」とでも言うように、ボンベロは返事の代わりに首を軽く捻ってみせた。
「カナコ」
スキンがわたしに向き直る。
「俺と一緒にここを出る、それが組織からの条件だ。すなわち、組織は俺を信頼しているということ。ボンベロも、同じく。だから君にも信じてほしい」
背中に当たる壁の無機質さが、わたしの心臓を駆り立てる。
彼はディーヴァと引き換えに、わたしをここから連れ出してくれようとしている。ここを出たら、好きな場所に行っていい、と。自由になれるのだ、こんな散々な生活から、逃れられるチャンスだ――なのに。
「ジュリアは」
わたしは、気がつけば口にしていた。
「ジュリア?」スキンが前髪の下で眉を微かにひそめる。
「ジュリアはどうなるの」
震える声を拳銃の代わりに突きつけた。
スキンがわたしを買ったと聞いたら、果たして彼女はどう思うのか。わたしの鈍った頭でも、それが悲劇だとわかる。
どうして。どうしてスキンは彼女を連れ出してあげないのだろう。
きつく唇を噛みしめる。
「ジュリアは、自分の足でどこへでも行ける」
スキンの唇からこぼれた言葉は、ひどくやさしかった。エヴァ、と唸るように呼んだときとは、まるきり違う。まるくて、甘くて、どこか切なげな音色。
「でも、ジュリアは、あなたと穏やかな朝を迎えるのが、夢だって」
途切れ途切れに告げると、スキンがゆっくりとまばたきをした。長い睫毛が伏せられ、端正な目元に影が落ちる。一瞬の静寂が訪れた。重々しい、濃密な静寂が。
「ともかく、懇親会にはディーヴァが必要不可欠だ」
そこへ、勢いよくナイフを入れたのは、ボンベロだった。
「渡すか、死ぬか――いいな?」
張り詰めた彼の声は容赦なくわたしの心臓を揺さぶった。まさにナイフの切っ先を突きつけ、下手に動けばひと思いにかき切る、とばかりに。
思わず、固唾を飲み込んだところで、スキンが、そんな言い方はないだろう、と苦笑を漏らした。数秒前のことなんて、微塵も覚えていないといった様子で、すでに、いつものスキンだった。
無性にみぞおちのあたりが疼く。唇を噛みしめて、足尖を見つめた。脳裏には、彼女の儚い横顔が浮かんでいた。
「でも、カナコ。本当に、よく考えたほうがいい」
穏やかにスキンは言う。
わたしは、顎をぐっと引いて、拳を握った。
「懇親会のときに、ディーヴァを渡すわ」
あれは、わたしの命綱だ。簡単に、手放すわけにはいかない。
壁に押しつけた背すじをぐっと伸ばすと、わたしは顔を上げ、ボンベロをまっすぐに見据えた。
「それと」喉に力を込めて、はっきりと声を紡ぐ。
「ジュリアにあれの作り方を教えてあげてほしいの」
ボンベロの背中が微かに揺れた。
「考えておく」とだけ言って、彼はこの場をあとにした。
それからというもの、ボンベロの相棒だという人相の悪いブルドッグの菊千代が帰ってきたり、キッドに襲われかけたり、本当に散々だった。
ジュリアはダイナーに一度も足を運ぶことはなく、わたしはなぜだか無性に彼女の顔を見たくなっていた。こんなこと、思うのはおかしいのかもしれない。いや、こんなのおかしい。けれど、彼女が笑う顔をもう一度見ておきたい、と漠然と思った。立て続けに地獄じみたことが起きたから、もう頭の中のネジというネジがすべて外れてしまったからかもしれないが。
わたしのジュリアに対する感情は、自分でもよくわからない。また、スキンが彼女を頑なに拒む理由も、ボンベロがときおり彼女に向ける視線も。
――グルルル
物思いに沈みながらぼうっと調理台を拭いていると、足元で菊千代が唸りだした。
「なによ、菊千代」
サボるな、とでも言いたいのだろうか。びくり、肩を揺らして、ベロをだらんと垂らした彼を見下ろす。と、ちょうどそこへボンベロがやってきた。飽きることなく、呆れと侮蔑を混ぜたまなざしを、いつもどおりこちらへ向けてくる。
やばい、そう思ったわたしは、菊千代に向けて唇をムッと引きしめたあと、慌てて布巾を調理台に押し当てた。
わたしを舐めるように観察したボンベロだったが、きちんと仕事に戻ったことがわかると、なにも言わずに野菜の積まれたボウルに向き合った。
それから、どのくらい時間が経ったかは、わからない。額に汗が滲み始めたころ、ふう、と手の甲でそれを拭ったわたしに、ボンベロは大きく音を立てた。
「な……なに……」
いや、もしかすると、さほど大きくはなかったのかもしれない。反射的に身構えて彼を見ると、ただ、ペティナイフを台に置いただけだった。
「お前は、あいつにあれの作り方を教えろと言ったな」
低く落ち着いたボンベロの声は、それだけでその場の空気を支配してしまう。
もしかすると、あのときわたしに指図されたのが気に食わなかったのかもしれない。客に深入りをするな、というのがボンベロと交わしたルールだった。となると、わたしはひとつルールを破ってしまったことになる。
ぎゅっと体を抱きしめて、こくりと頷いた。
「なぜ、お前はエヴァの肩を持つ」
だが、飛んできた言葉は、予想外に穏やかなものだった。
「それは……」
言葉に詰まるわたしに、ボンベロはボウルの中の野菜をひとつ、ふたつ、と手にとって眺めながら、嘲笑を込めて言った。
「女だから、あいつの気持ちがわかる、とでも?」
そうだ、と言えば、はいそうですか、で終わるかもしれない。とはいえ、単に同性だからと括れるほど、単純なものでもない気がする。
「……わかりません」
わたしは正直に答えた。野菜の皮剥きを再開していたボンベロが、ぎょろりとこちらへ目玉だけを動かした。
「わからないの、なぜわたしがジュリアのことを気にするのか」
自分の命のことだけを考えるべきなのだろう。一寸先は闇で、一秒先の未来では息の根を止められているかもしれない。
それなのに、彼女のことが頭から離れなかった。とろんと眠たげな瞳も、魔女のように濃いアイラインも、かと思えば、大胆に眦へとしわを刻む、ころころと変わるその表情が。
わたしはいつのまにか、少しでもいいから彼女の瞳の中に映りこみたい、そう思うようになっていた。
「ねえ、どうしてスキンは彼女を突き放すの?」
ボンベロに問い返す。
きっと、スキンはジュリアに特別な感情を抱いている。それなのに、どうして彼女を拒絶するのだろう。あんなにも、愛に飢えた瞳をやさしさの下に隠しているのに。
スキンはエヴァのアダムになり得ないのだろうか。それとも、スキンにとって、ジュリアは禁断の果実そのものなのだろうか。
ボンベロは手元の野菜に視線を戻すと、華麗な手さばきで皮を剥いていく。
「俺は、スキンの気持ちがわからなくもない」
静かに落とされた声は、重く、重く、胸にのしかかった。
