第四話 失楽園

カイナはホウエン屈指の遊水地だ。南に広がる一〇九番水道には連日海水浴客がパラソルを立て、雄大なえんとつ山を背に烈日を浴びている。陸地にはひときわ賑わう市場や、造船所にコンテスト会場、それからうみのかがくはくぶつかんもある。ダイゴはその昔父とよくここへ訪れた記憶があり、彼にとっては特別な場所のひとつでもあった。
「今日も暑いな」
 ホウエンは温暖な地方だ。とりわけカイナは平坦な地続きゆえか、太陽の光がまっすぐに注がれているようなそんな心地になる。額に滲んだ汗をハンカチで拭ったあと、手でほんの慰み程度の陰を作りダイゴは空を仰ぐ。彼女はというと、彼の半歩うしろで俯いて視線を泳がせていた。
「平気かい」
 いつもかぶっているストールがないのが、どうにも不安なのだろう。ふり返り、ダイゴは膝を屈めて彼女の顔をのぞく。弱々しく青みがかった褐色の瞳が揺れて、彼はやわく微笑んだ。
「大丈夫、ボクがついてる。こう見えて、ボク、つよくてすごいんだ」
 真白のワンピースを掴む手が、ぎゅうと握りしめられる。ね? と、彼女の額にかかった髪を優しくよけると、そっと視線が持ち上がった。
 こくり、控えめに頷いた彼女の頭を撫でて、ダイゴは上体を起こす。
「さて、今日はボクも羽を伸ばさせてもらうよ」
 彼女といるときは、ダイゴはトレードマークともなる三揃いのスーツを着ないようにしていた。すでにチャンピオンの座を退いているとはいえ、彼はいまだホウエンでは有名なトレーナーの一人である。彼女に余計な恐怖や不安を与えぬためにも、そうする必要があった。だが、逆に言えば別荘にいるときにはジャケットを羽織る必要もなかったし、ツワブキダイゴという面をかぶることもせずにすんだ。
 着心地のよいリネンのシャツとチノパンという比較的カジュアルな装い、それが彼の新たな習慣となり、そして今日も、着の身着のまま別荘を飛び出してきたため、おしゃれで洗練された元リーグ・チャンピオンの姿はない。ただ、気持ちばかりの変装として、カイナの市場ですぐにサングラスを買った。
 あまり日射しに慣れていないだろう彼女にもつばの広い帽子を買ってやり、それからモモンの実のスムージーを交互に飲みながら店を見て回った。
 活気のよいカイナの市に、彼女は終始目を輝かせていた。いまだ不安げにびくりと体をこわばらせることもあるが、モモンスムージーをどこにでもいる女性たちのように吸いながら右隣を歩く彼女の横顔は、これまで見たどの表情よりも明るかった。
「ダイゴさん、あれは?」
 つん、と控えめにシャツの腰元を引っ張られ、ダイゴは彼女の指の先を追う。
「ああ、あれはひみつきちに置くインテリアだね」
 テントの下で壺や植木鉢、それから絨毯などが並べられた中に、ポケモンたちのぬいぐるみが置かれている。
「ひみつきち?」
「ホウエンではやっているんだ。木の上や、岩の中にポケモンの力でスペースを生み出して、自分だけの秘密基地をつくる」
「ダイゴさんもお待ち?」
 きらきら、ムチュールの瞳のようにヘーゼルの虹彩が瞬いている。頬を掻きながら、昔ね、とダイゴは答えた。
「トレーナーとして旅に出ていたころは、よく作っていたな。拾った石なんかを並べて飾ったり、遊び心で音の鳴るマットなんかを置いたりしてね」
 それももう十年は前のことだ。よく揃った品たちを目で撫でながら懐かしさに眦を緩めていると、ダイゴは彼女が一点を見つめていることに気がついた。
「欲しい?」
 エネコのぬいぐるみだ。小首を傾げて訊ねたダイゴに、彼女はハッとして彼を見仰ぐ。その表情があまりにも「なんでわかったの」と言いたそうなほどあからさまで、ダイゴは声を上げて笑うと、チノパンのポケットから財布を取りだして、店主に、「そのぬいぐるみをひとつ」と頼んだ。
「ダイゴさん」
「いいから」
 どうにも、彼女にはなんでも与えてしまいたくなるらしい。娘を持った父の気持ちはこんななのだろうか。慌てて抗議の視線を向けてくる彼女を軽く受け流して、ダイゴは代金を払うとピンクとクリームの愛らしいぬいぐるみを彼女に渡してやる。
「大事にしてね」
 両手にぎゅっとエネコを抱いて、こっくり。下唇を噛みしめ頷く彼女の顔が、あまりにも、そう、あまりにも胸を疼かせて、ダイゴは思わず額を撫でた。
「まいったな」
 この感情に名をつけるとするならば。そこまで考えてダイゴは彼女の視線に気がつき、なんでもないとかぶりを振った。
「あのときの子みたいだね」
「かわいい」
 頬ずりをする彼女に、自然と口元が緩む。ミクリが見たら、きっと、おや、などと眉を上げて彼を揶揄するだろう。ここに彼がいなくてよかった、ダイゴは心から思った。
 ふと安堵に胸を撫でおろしながら腕の中の小さなライバルに手を伸ばし、そのやわらかさを味わう。
「うん、かわいい」
 その言葉を聞いて、ふふ、と微笑む彼女に、ダイゴは心の中でもう一度同じ言葉を反芻した。

 市場のあとはうみのかがくはくぶつかんを周り、それから浜辺に赴いた。
 ザクザクとした砂の感触が面白いのか、彼女はミュールを脱いで、波打ち際ぎりぎりまで歩いては、波から逃げてを何度か繰り返していた。
「こら、裸足は危ないよ」
 言うと、彼女はいたずらっ子の顔をして、波に浸した足を蹴りあげる。パシャン、小さく音を立てて飛沫があがった。
「やったな」
 頬にひやりとした感覚を受けて、ダイゴも靴を脱ぎ捨てた。それから、ポケナビや財布、エネコ人形を放りだし、ズボンの裾をふた折りほどして海へ駆けていく。先制攻撃の仕返しに、手のひらに水をすくって天に撒いて。つめたい、と彼女の小さな悲鳴が上がり、ダイゴはさらに彼女へ水をかけた。
 白いワンピースが水面の光を集めて輝いていた。逃げまわる彼女の動きに合わせて、艶やかな髪が揺れる。日に焼けて赤らんだ肌が水を弾き、瑞々しい色香を放つ。
 なんと目映いのだろう。ダイゴは目を細め、その姿を脳裡に灼きつける。すると、ぱしゃん、ひときわ大きな音がして、ダイゴは真正面から飛沫を浴びた。重たく水を載せた目元を拭って、張りついた髪をかきあげる。くすくすと笑う彼女と目があった。
 とんだ小悪魔め。ダイゴは波をかきわけ、彼女の腕を掴むとそのまま小さな体を抱きよせて背中から海に倒れこんだ。
 びしょ濡れのまま海から這いでて、砂浜にごろんと横たわる。
「最高な気分だよ」
 いつぶりだろう、これほどまでにカイナの海ではしゃいだのは。いや、かれこれ生きてきた中で、もしかすると初めてかもしれない。ダイゴは深呼吸をして、軽く微笑んだまま目を閉じる。どくり、どくり、流れゆく血潮。肌に感じる太陽の日射しに、それから右肩に感じる彼女のぬくもり。
「わたし、こんなにたのしいの、はじめて」
 寝がえりを打って彼女のほうを向く。彼女もまた、ダイゴを見つめながら薄く微笑んでいた。水を含んで湿った髪が頬に張りついている。それを指先でよけてやり、ダイゴもまた笑みを返した。
「ぼくもだよ」
 なんて満ち足りているのだろう!
 世界はうつくしく、かぎりなく豊かで柔和で、しかし信じがたいほど甘美だ!
 ふふ、と頬を綻ばせた彼女の口もとについた砂を落としてやる。それから、彼は仰向けになった彼女を追いかけ、その顔の横に手を突いて彼女に覆いかぶさった。
「まぶしい」
 太陽の光に彼女は目を細めている。この世で最もうつくしいその瞳の中で、一人の男がたしかに息をしている。
 白い指先がそっと伸びてきた。そうしてダイゴの輪郭を撫で、秀でた鼻梁、窪んだ眼窩、なだらかな頬を順にかたどっていく。やがて顎先にたどり着くと、彼女は人差し指で唇をなぞった。ダイゴはくすぐったそうに目を細める。その拍子に彼の髪から滴った水が彼女の頬に落ち、やがて弾かれ砂に吸い込まれていく。
 ダイゴは彼女の名を呼ぶ。
 長い睫毛が揺れ、赤らんだ唇が彼の名をかたどる。
 唇を弄ぶ指を捕らえ、ダイゴは口に含んだ。そうして舌を這わせ、静かに吸いあげると、彼は容赦なく歯を立てた。
 甘い悲鳴を喉の奥で鳴らし、彼女はまぶたを閉じる。口内に広がる彼女の味を、舌に、脳に、そして躰に、刻みこむようにダイゴは指を吸う。舌が痺れるような鉄の味と、えも言えない甘さと、少しの塩辛さ。それらが絶妙に混じり合いダイゴの胸に生まれた衝動を育んでいく。
 やがて解放された指がまっさらな状態のまま太陽の光に晒され、彼女の瞳が大きく揺らいだ。
 ほら、大丈夫――。
 口にはせずに、ダイゴはそっと微笑んで、彼女の濡れた唇に自分のそれを押しあてた。