「キバナ」
よ、と肩を揺らす彼は、バトル中の獰猛な姿がうそのようにとても穏やかだった。同じく衣装替えをしたのか、今度はブラウンのベスト姿で小脇にジャケットを抱えている。やはりそれもすらりとした体躯に美しくフィットしていて、ゆったりとこちらへ歩んでくるさまは、ポケウッドの一流ロマンス映画みたいだ。
「おまえのこと、外でマスコミが必死になって探してたぜ」
目の前で足を止めて、甘い碧眼を注いでくる。それには、まだ正直どきりとする。だが、「だろうと思った。ここに避難して正解だったな」なんて、そんなふうにおどけて肩をすくめた。
「これが、身内だけのパーティーでよかった」
「終わった瞬間、控え室の前やばかったもんな。って言っても、みんないまだにおまえのところに突撃したがってるけど」
ふとキバナの向こうをのぞくとソニア博士と目があった。大きく手を振って、爛々と髪を揺らして、瞳と同じエメラルドグリーンのドレスがオレンジの髪によく映える。そんな友人をルリナが宥め、やれやれといった視線をこちらへ向けている。
その横にはメロンさんが、ニイッと頬を上げて笑い通りかかったビートくんにアレコレと食事をよそってあげる。それをカブさんが苦笑する。
試合が終わったあとも、パーティーが始まってからも、副社長についてひっそり会場入りしたからまだみんなと話せていなかった。たぶん、これは大変だな、と口もとをゆるめると、「あっち行こうぜ」とキバナがバルコニーの奥のほうをあごでしゃくった。
バトルタワーにもっと近づいた先、バルコニーの隅。きっと、そこは中からは死角になる。風に吹かれるがままふらりとそちらへ寄ると、いっそう静寂が身を包んだ。
「きれい」
きらきらと光が瞬いて、世界に二人だけ取り残された心地になる。すこしだけ、心が落ち着かない。すこしだけ、泣きたくなる。けれど、今日という日の限られたきらめきを心に灼きつけていると、ふと隣からも、「だなあ」と穏やかな声が落ちてきた。
「おぼえてるか、はじめて会った日のこと」
小さく私は、おぼえてるよ、と答えた。
「念願叶ってラボ研究員になった年、ナックルジムで話した」
そのころからキバナはトップジムリーダーで、私にとって――否、皆にとって花形スターだった。緊張した面持ちで先輩に連れられジムスタジアムを訊ねると、彼はトレーナーたちと特訓の最中だった。公式の試合でもないのにその迫力は健在で、すなあらしを巻き起こしながら果敢にフライゴンを鼓舞する姿や、ジュラルドンをキョダイダイマックスさせ敵の前に泰然と待ち構える、そんな姿に目を奪われた。その試合が終わってもしばらく動けないほど。それからフィールドへ下り、初めて握手を交わしたとき、彼は私にあどけないまでの大胆な笑みを向けてくれた。
思えば、その瞬間すでに私は恋に落ちていたのだ。
「ちがうぜ」
その言葉にはたと顔を上げる。
「もっと昔、ローラもオレさまもまだ子どもだったころ」
懐かしむような、慈しむようなまなざしがそこにあった。碧い瞳は夜の空を浮かべて深く静かに色を濃くする。それでも透きとおっていて、ここにはないどこか遠く楽園の海のようだった。月が浮かぶ水面は凪いで、ザザァンと潮騒が鳴る。そこへ、飛び込んでしまいたくなる――そんな魅力が、彼にはある。ずっと、昔から。
「ワイルドエリアでキャンプをしていたら、キョダイマックスのラプラスを捕まえようと必死な女の子がいたんだ」
ボロボロになりながらも何度も何度も果敢に挑んで、悔しがって、そのうち泣きそうになりながら咆哮を上げるラプラスを見つめていた。
諦めるのだろう、キバナは思ったらしい。でも、その子はやめなかった。
「目にすげぇ涙浮かべて、また来るから! って言って走ってった。そしたら、ラプラスも応えるように叫んだんだ。オレさまは気になって、その次の日もまた次の日も、その巣穴の近くでキャンプをした。三日目、またその子はやってきて、がむしゃらにラプラスに挑んでいった」
見てらんなかったんだよな、正直。そんなふうにキバナが笑う。
「だから、オレさまも混ぜてくれよって頼んだんだ」
すこしだけ背の高い、パーカー姿の男の子。ラプラスが放つうたかたのアリアのように、どこまでも澄んだ奥深い色――「オレさまがいたら百人力だぜ!」そう言って、八重歯をのぞかせて屈託なく笑う。
「うそ……」
「残念ながら、ホント。あのラプラス、強かったよなあ。ま、オレさまのおかげでゲットできたわけだけど」
「待って、うそだぁ……」
「だから、ホントだって」
どうして忘れていたんだろう。ラプラスのそばにいながら、あの日の男の子のことを。一緒になって氷まみれのびしょ濡れになってキョダイラプラスに立ち向かった。そのころレイドバトルに誘える友達なんてほとんどいなかったから、はじめてだれかと挑んだバトルだった。
「何度も何度も泣きそうになりながら立ち向かって、無鉄砲に飛び出して、ぶつかって、バカだなぁって思ってたけどよ」
ニイと白い歯がのぞく。やめて、と堪らず顔を覆った。
「……でも、いつのまにか目が離せなかったんだよな」
その声が風に乗ってどこまでも深く心臓に溶け込んで、頭がジンジンする。
「ラプラスを見つめる目なんて、もう恋する乙女のアレだったし」
「実はね、そのころからキョダイマックスに取り憑かれてたの」
「知ってる」
もしも、もしも、だ。もっと早くにそれを教えてくれていたのなら。そんな言葉がついて出そうになって飲み込んだ。
「好きだったよ、ぜんぶ。ポケモンを見る目も、大人しそうな顔してすぐに突っ込んでいくところも、ラプラスを捕まえてすげぇうれしそうにしてるところも。自分の好きなもののためにとことん闘って努力できる、そんなローラが、オレは好きだ」
過去にはならない、したくない。そんな強い気持ちが伝わってくる。
「ごめん」
心臓が痛い。目の奥が熱くて、耳が遠くなって、倒れ込みたくなる。後悔、羞恥、期待、懺悔、さまざまな感情が入り乱れている。でも――。
「いいぜ、べつに」
キバナはからりと笑う。
「でも、オレさまをフッたことめちゃくちゃ後悔させてやるからな」
「キバナが言うと、シャレにならない。怖い」
「ガラル最強のジムリーダー、不屈のキバナさまを舐めるなよ」
やめてぇえ、と頭を抱えていやいやとすると、笑い声が夜空に響いた。
私も、彼も、きっと長い間無理しすぎていたんだ。その我慢のベールが剥がれたように、前よりもずっと気楽でいられる。そんな気がして、キバナの横顔を見つめる。
「ありがとう、キバナ」
おう、と彼は甘く目を細めて前を向く。
「気をつけろよ、油断してっと掻っ攫ってやるから」
「だれからよ」
「だれって、決まってるだろ」
ちがうちがう、と手を振って私も同じバトルタワーの光を見据える。
「勘違いしないでよね、あの人はただの上司。私は、自分の脚で歩きたいの」
キバナの妻の称号が欲しかった。だれかのものであるという証が欲しかった。そうしたら埋まらない心の隙間を塞げると思っていた。空のグラスに水をあふれるほどそそげると思っていた。けれど、きっと、それを手にしたとしても満たされていなかった。
だからと言って、愛してなかったわけではなかった。
「ちゃんと、好きだったよキバナ」
「知ってる」
「好きで好きで、大好きで、離したくなかった」
「わかってる」
アクアマリンの指輪をもらったとき、心の底から嬉しかった。宝物だった。今でも、彼との日々は大切なもののひとつだ。
希望の象徴である新たなシュートシティの光を眺めながら、そういえばあの指輪、どこにいったのだろうとふと思う。副社長のジャケットだろうか。返してなどと言ったら面倒になるのだろうな。そこまで予感してひとりでに苦虫を噛み潰した心地になる。
「ローラ」
顔を上げると、キバナに抱き寄せられた。長い腕にすっぽりと埋まり懐かしい心地でいっぱいになる。爽やかなキバナのにおい。甘くてどこか清々しくて、海に飛び込んだみたい。目を瞑って、今だけはそれを味わっても許されるだろうか。
「応援してる」
「……うん。キバナも、信じた道を突き進んでね」
ああ、と応えたそれを合図に離れていく。名残惜しいが別れとはそういうもの。大好きだった瞳を見上げながら微笑むと彼も優しくわらってくれた。
「すまないね、すこし捕まってしまって」
シャンパングラスを両手に帰ってきたのは副社長だ。すこしどころかだいぶ捕まっていたようだ。「おつかれさまです」と迎え入れると、彼は薄くはにかんでグラスを片方差し出してきた。
「そういえば、今日の感想を聞いていなかったね」
「そうでしたっけ」
「うん。改めて、キミの口から今日という日がどんな一日だったか、聞かせてほしいな」
こういうところ、本当ずるいと思う。自分が聞きたいから、そんなふうに願望を隠さずさらりと告げられる。
ふうと息をついて、唇を濡らした。
「楽しかったですよ、とても」
「それならよかった」
破顔する彼に、「それに」ふと頬を緩めて私は続けた。
「いろんなものを、きちんと見つけられた気がします」
やわらかな風が髪を、ドレスの裾を、攫っていく。同じ色がいくつも瞬く。目映く、美しく。それらを全て抱きしめるように、息を吸い込む。
青くて、透明で、どこまでも未来を感じさせる夜の香りがした。
逃した獲物はホエルオー並に大きいかもしれない。彼の言うとおり、いつかもしかしたら後悔するかもしれない。それでも、これが選んだ道だ。
対等に、お互いを尊重しあえる関係が欲しい。結婚だとか、永遠だとか、そんなものは今はまだ傍に置いて、きちんと前を向いて自分の足で立って歩ける人間に私はなりたい。
きっとその先に見えるものが、まだあるから。手に入れられるものがあるから。この手で、それを掴みにいかなくてはならないのだ。
いつかきっと大切なひとと肩を並べて歩いていける日を想い、私は進む。
一夜明けたガラルには清々しいほどの青空が広がっている。まるで宮殿のようなスイートルームの大窓からまみえるその目映い色彩に目を細めながら、執務机についてタブレットと気難しそうに睨み合いをしている上司にコーヒーを出す。
「ありがとう」
ひどく集中していると思ったが、そうしたささいな瞬間も見逃さないあたり抜け目のない人だ。普段はとんでもない石マニアで、洞窟と聞いたらすぐさま飛んでいき、石と会話するような人間だとは思えない、スマートな佇まいにやれやれと目を回したくなる。だが、そんなアンバランスさが彼の魅力だろう。自分の信念を強く抱いているようで柔和で、譲らないと思いきや臨機応変に相手に道を譲ることができる。そんな完璧に近いツワブキダイゴという人間像の中で、なによりも不完全で抜けていて、不思議でおかしくて、それでいて一番人間らしい一面だ。
「本日のご予定はいかがなさいますか」
午前中はこのとおり本社への報告でホテルに缶詰めになりそうだが、午後は予定が空くだろう。彼がホウエンに戻るまでには二、三日あるし、まだ一度も訪れていないガラル鉱山へ向かうもよし、六番道路や第二鉱山にリベンジするもよし、あとはワイルドエリアでねがいのかたまり探しツアーも有りだ。げきりんのみずうみで石狩りするのもいいかもしれない。
あれ、すっかり石マニアに感化されてる? と思いつつ、彼が帰るまであと僅か。副社長秘書の仕事納めだ、いくらでもやまおんなスタイルになってやろう。そう覚悟を決め、全身筋肉痛の体に鞭を打ちタブレット端末を片手に副社長を見遣る。
「どこか採掘を、と言いたいところなんだけどね」
「なにか不都合でも?」
「いや、たまにはキミとゆっくりしようかなと思って」
え? と新種のポケモンでも見るようにその顔を見つめれば、ひどいなあと彼は笑った。
「ボクだって普通の過ごし方はできるよ」
「本当に? 途中で石がありそうだって走り出しませんか?」
「まったくキミはボクをなんだと――」
生粋の石マニアです。と、言おうとして、ドアベルが鳴った。ごめん、よろしく、という言葉に私は二つ返事で答え来訪者を迎える。
重々しいドアを開くと、スーツ姿のスボミーインのスタッフが立っていた。
「ローラさま、お手紙が届いております」
にこやかに告げられたのはそんな報せだ。私に? と目を瞬けば、封筒を差し出された。どうしたものかと思ううちに、スタッフは去っていく。
宛名書きは間違いなく私。
そして、差出人はデボンコーポレーション。
「――って、私、ついにデボンから籍がなくなったんですけど!」
このたびの退職につきまして、云々。見事に温度のない機械的な印字に突然のスピードスターをくらったポッポのようになってしまった。
うわ、デボンの退職金ってこんなにいいんだ。しばらくなにもしないでも暮らしていけるじゃない。……じゃなくて。
慌ただしく執務室に戻る私を、彼はああやっと来たかとばかりに落ち着いた態度で迎え入れた。
「大丈夫、キミの籍はこっちにあるから」
「こっち? こっちって、なにがですか? マクロコスモスに引き抜きですか、それとも本社勤務とか?」
「聞きたい?」
嫌な、予感がする。
前を向いて、胸を張って、自分の選んだ道をしっかりとひとりで歩けるようになる――そんなことを言ったけれど、結局人生はままならず転がる石のように、自分の扱える範疇を超えて、毎分毎秒物事は変化し流転し予期せぬことが次々と起こるものだ。結局ね。
夢が叶うのは、もしかしたらまだ先になるのかもしれない。それとも、もしかすると叶ってしまうのかもしれない。
どちらにせよ、彼の手に握られたA3サイズの契約書を見て、その日エンジンシティの老舗ホテルに、ウィンディのとおぼえにも勝るとも劣らぬ絶叫が響き渡ったことは、言うまでもないだろう。
