episode.1

 将来の夢は、小さいころから決まって「およめさん」だった。
 白いふわふわなドレスを着てステンドグラスのきれいな教会で式を挙げる。そうだな、ナックルシティのあの教会がいいかもしれない。あまり大きくはないけれど正統派の歴史ある教会。長いベールを彼と私のポケモンが支えて、ボロボロと泣くお父さんに、ちょっとしっかりしてよ、なんて涙声で笑ったりして。ゆっくり、ゆっくり、バージンロードを歩いていく。
 荘厳な鐘の音が鳴り響き、賛美歌の降りそそぐそんな道を、目映い七色の光を背中に浴びた愛しいひとのもとへ。
 それが、夢だった。
 ――なのに、どうしてこうなった?

 ぷかぷか、浮遊感が体を包んでいる。目の前に広がるのは雲ひとつない青空、優雅にキャモメやペリッパーが飛び交い、燦々と陽光がそそいでいる。ゴウゴウと耳を刺すのは排水口に渦が立つような雑音。どこかこそばゆいが、ふしぎと不愉快ではなかった。むしろ、体を包む温度や音、あるいは閉塞感がひどく心地よいとさえ思えた。
 ゆらり、ゆらり、バウタウン東の海にて、私、ローラは、まるでさまようブルンゲルのごとく水面に浮かんでいた。
 はて、どうしてこうなったのか。決して記憶喪失なわけではないけれど、思考が波にさらわれただひたすら空を眺めている。ああ、今日もいい天気だなあ、なんて。
「キミ、大丈夫かい」
 しばらくして、落ちてきたのはそんな声だった。逆光でよく顔は見えないが、おそらく声質からして男性だった。スーツを着て岩みたいなポケモンをそばに連れている。
「そう見えます?」
つっぱりを食らわせるようにすげなく答えた私に、彼はそうだよねとひとり納得してポケモンに指示を出す。
「メタグロス、ねんりき」

「ありがとうございます」
 とんだ災難だった。陸に上がった拍子に飲み込んだ水を吐き出して、助け出してくれた主にお礼を告げる。
「大丈夫かい」
「ええ、海には慣れていますので」
 濡れている背中に添えられるのはあたたかな手のひら。さきほど八つ当たりとばかりに素っ気ない返答をしたのが恥ずかしくなるほどの紳士さだった。喉に絡んだ海水をとるためもう一度咳き込み、今度は大きく息を吸い込む。そうして、男のひとを見上げた。
「……副社長?」
 光の中から現れたのは――もっとも、現れたのは私のほうなのだけれど、透きとおるような銀色の髪にこれまた綺麗な銀色の瞳。なんとも見た目麗しく、さらにはサイズに狂いのないジャストフィットのスーツが眩しい。とても、とても見覚えのある姿だった。
「と、いうことは、うちの社員かな」
「はい」と居住まいを正して、私はうなずく。
 デボンコーポレーション――トレーナーには必需品と言われるボール類から、ランニングシューズ、スコープ、あるいはガジェット端末、果てはロケット開発までもを手掛ける今や世界的大企業のひとつ。もとはホウエンのカナズミシティを拠点とする会社だったが、数年前からガラルにも支社を構え日々発展を繰り広げている。そのガラル支社で私は働いている。そして、目の前の彼はそんな大企業の社長子息であり、副社長のツワブキダイゴ。
 ホウエン地方の歴代ポケモンリーグチャンピオンに名を連ねていたほどの経歴を持ち、頭脳明晰、品行方正、さらには深謀遠慮の塊、かつ、女性社員の憧れの的! という輝かしい姿は何度も社報で目にしたことがある。チャンピオンの座を退いたのち、しばらくは各国を歩き回っていたものの、満足したのかそれとも社会勉強か、現在は父親の元で右腕として働いている、らしい。
 そんな弊社副社長というビッグゲストの前でなんという醜態だろう。着ていた洋服はすっかり重みを増し、ぽたぽたと水滴がしたたっては石畳に大きく染みをつくる。肌に張り付く感覚が気持ち悪くて羽織っていたカーディガンを脱ぎ思いのままに絞ると、ハイドロポンプまではいかないがまるでみずでっぽう並みの水量だった。
 はあ、とため息をついているうちに、彼のジャケットが肩にかけられる。
「ところで、どうしてあんなところに?」
 いいにおいがする――じゃなくて、私は思わずジャケットの襟を掴んで、体の前に抱き寄せる。
「それは、少々こみいった事情がありまして」
 遡ること、数十分前。いつものくせで堤防から海面をのぞきこんでいたところ、ひょんなことから海へ落ちてしまった。――と、言えたらどれほどよかっただろう。
 定年を迎えた両親はすでに田舎で隠居生活を送っているものの、この世に産声を上げて二十数年、私はこの土地で育ちそして今も生活の拠点にしている。そんな私がなぜ地元の海で着衣泳をしていたかというと、いわゆる「痴情のもつれ」というやつだった。いや、その表現が的確かはわからないけれど、とにかく、前の恋人が原因だった。
 ガラルで有名なジムリーダーと言えば必ず名前が挙がる人物。それはもうアイドル並みに人気で、SNSのフォロワーはウン万人。投稿するだけで一秒も経たずに「いいね」がつく、いわゆるインフルエンサー的存在。そんな人が、かつての私の恋人だった。
 バレンタインには花束や手紙の山、誕生日には部屋が埋もれるほどの大量のプレゼント、彼の公式グッズが出ればコンマ何秒で売り切れ、リーグカードは高値で取引される。そんな彼となぜ私が付き合えていたのかは今でも七不思議のひとつだが、それはこの際置いておくとして、とにかく、国内トップの人気者と交際していたら障害があるのはわかりきっていること。気がつけば過激なファンのターゲットになっていたわけだった。
 ただ、それは付き合っていたころの話だった。
現時点で、私たちはもう恋人同士ではない。……はず、なんだけれど、「ま、彼とは終わったし、もうそんなことはないだろうなあ」と思っていた矢先、うしろから背中を押されて海へまっさかさまだった。
 その事情にまったく関係のない上司に文句を言うわけにもいかず、ただ「人間関係のトラブル」だと言葉を濁すと、副社長は眉をひそめた。
「部署は?」
「研究部です。ダイマックス専門の」
 そうか、とあごに手を当てて黙りこむ。そんな姿も精緻な絵画みたいだ。同僚が見たらきゃあと黄色い声が飛び出そう、などとのんきにも思いながら張り付いた髪をかきあげる。ああ、そんなことより――ふいに現実に戻る。
 一回家に帰らないと。せっかくおろしたてのワンピースを着てレストランで優雅にランチを決めようとしていたのに、これでは台無しもいいところだった。出勤前ではないだけタイミングがよかったのかもしれないけれど、体じゅう海水のせいでべとべとする。
 重たい気持ちでスカートのすそをぎゅっと絞っていると、「ねえ」粒の揃った声が落ちてきた。
「キミ、ボクのところへ来ないかい」
 ぱち、ぱち、とまばたきをくり返す。日差しを浴びて、銀色の髪がひどく目映い。
 答えはもちろん、「ノー」だった。