「凛子、綺麗アル」
「おかしくない?」
「おかしくなんて! 大丈夫ですよ!」
神楽ちゃんと新八くんに励まされながら、鏡の前で頬をぷく、と微かに膨らませる。
「これだから童貞は、まるで凛子さん貴女の為にあるようなドレスですね、くらい言えないアルか」
「なっ、サラリと凛子さんの前で童貞とかバラさないでくれるかな!?」
「遅かれ早かれバレるネ。あーあ、これだからモテないアル」
「それは、ぐうの音も出ない……」
神楽ちゃんにコテンパンに任される新八くんに「ありがとう、大丈夫よ嬉しいから」と言うと、薄っすらと頬を染めて目を輝かせた。
「駄目ヨ凛子。気を付けないと、今みたいなのまさに童貞は勘違いするアル。もうコイツは凛子に落ちたネ。百メートルは落ちたネ。マリアナ海溝も目じゃないアル」
「ちょ、神楽ちゃんンンン!?」
二人のやり取りを苦笑して眺めながら、ぽっかりと空いた首元に手を遣った。
今、わたしはいつもの落ち着いた小豆色の着物ではなく、煌びやかなサテンのブルードレスを纏っている。デコルテも背中もパックリと開いた、なんとか姉妹が言うにはいかにもファビュラスなドレスだ。髪の毛も結い上げて、化粧もいつもより濃い。
きっかけは、お妙ちゃんの「店の手伝いをして欲しいの」というひと言だった。
まあキャバクラだから、ということで二つ返事で受けたのだが、今になって少しだけ気後れしている。なぜって、ドレスだからだ。なぜ、わたしだけ洋装なのだろう。チラリと待合の部屋を覗いた時には殆どが華やかな着物だったというのに。着物がいいと言ったら、ダメの一点張り。なぜ。
大きな鏡の前で、溜め息をつく。こんなドレスで人前に出るなんて初めてだ。だから、余計に緊張する。
キュッと身を引き締められるような思いと、それとはうらはらに心臓は五月蝿い。
「あら、準備できたのね」
後ろからお妙ちゃんがやってきた。言い合いをしていて神楽ちゃんと新八くんが静かになり、二人はにこやかに彼女に頷いた。
「まあ」
わたしの姿を見て、お妙ちゃんは口元に手を当てた。
「馬子にも衣装って感じよね」
「まさか。とても素敵! 凛子さんの為に作られたドレスみたい」
「見たアルか、ダメガネ。ああやって女を落とすヨロシ」
「さすがです、姉上……」
「もう……三人とも……」
思わず顔が熱くなる。相手を持ち上げて心地よくするのが上手いのは、キャバ嬢だからか。それともお妙ちゃんの美点か。
――なにはともあれ、上手くいきますように。
スナックお登勢の手伝いはしたけれど、それとこれとはまた違う。
デコルテを触りながら不安げに眉を下げると、お妙ちゃんが銀色のネックレスをそうっと首に付けてくれた。
「なにかあったら、神楽ちゃんと新ちゃんが助けてくれるから、安心してね」
「姐御、凛子、このかぶき町の女王神楽ちゃんに任せるヨロシ!」
「そうですよ、凛子さん、なにかあったらすぐ言ってくださいね!」
なんとも頼もしいものだ。二人は今夜黒服の見習いとして、裏方の手伝いをするらしい。とはいえ、未成年がこんなお店にいていいのかと心配なのも確か。笑を返しながら、できるだけ二人を変なことに巻き込まないようにだけは心がけようと誓ったのだった。
「松平さん、こちら新人の凛子さんです」
何席か回って、キャバ嬢にも慣れた頃、お妙ちゃんにサングラスを掛けた強面なオジ様の席に連れてこられた。
――え、待って。
心の中に嵐が吹き荒れる。
――もう、ラスボス到来!?
そう、まさにラスボス。ヤのつく映画のドンそのものだ。その席にはもう一人、ガタイの良い男の人もいるが、これまでの席とは醸し出すオーラが只者ではない。
顔が引き攣りそうになるのを堪えて、身につけたたおやかな笑みを浮かべる。
「お初にお目にかかります、凛子にございます」
すると、意外にも強面のオジ様はサングラスを掛けていてもわかるほどに目尻を下げた。
「いやァ、これまた美人でたまげた! お妙ちゃん、オジさんの好みよぉぉくわかってるねェ!」
「ふふ、当たり前ですよ。松平さんと私の仲じゃないですか」
「なに、とっつぁんとは言え、それは聞き捨てならないな! お妙さん! 俺の好みは……」
「え? 近藤さんはドンペリがお好きですって? まあ嬉しい。ドンペリ十本、入りましたァアア」
ドンドンパフパフとお祭り騒ぎになる店内。
これは、なにもかもが異世界だ。キャバ嬢すごい、いや、お妙ちゃんすごい、マジ卍、と語彙力が忘却の彼方へと喪失しながらも、流れに身を任せてひたすら手を打つ。
近藤さんという人にどこか既視感があるような気がしていたのだが、肩に触れようとしてお妙ちゃんから「触んじゃねェェゴリラァァ!」とドンペリ瓶を頭にお見舞いされる姿を見て、そっと胸の内に閉じ込めた。
「失礼します」
ゆったりとした仕草で、松平と呼ばれるオジ様の隣に座る。
「いやぁ、なんか凛子ちゃんいい匂いするなァ」
「あら、本当ですか? なんだろう」
手首を鼻に近付けると、ほのかに甘い花の香りがした。そういえば、ホールに出る前に練り香水をつけてもらった気がする。
「これかしら」とぽつり呟くと、松平様かうっとりとしたように溜め息を漏らすのが聞こえる。
「アーやばいわ。凛子ちゃんどストライク。その仕草色っぺェ、最高! もう凛子ちゃんの好きなものいくらでも頼んでもいいからねェ! ホラ!」
「松平様ったら、男前。でも、そんなこと仰ってよろしいんですか?」
「いいのいいのォ。遠慮せずどれが良いかオジさんに言ってごらんよォ?」
松平様に肩を抱かれながら、メニュー表を渡されて目を通す。
今日一日これを見てきたが、やはりその価格帯には目が回ってしまいそうだった。ちらりと視線を上げると、メニューの奥でお妙ちゃんの唇がニヤリと歪むのが見えた。
「じゃあ、こちらを」
「おっ良いねぇロマネ・コンティ? オジさんも好きだよォ凛子ちゃんは?」
「わたしも、大好きです」
小首を傾げてサングラスを見上げる。そして、決め手に白鳥の羽ばたきのように睫毛を揺らす。
ごくり、と息を飲み、松平様はサングラスの奥で目をかっ広げると勢いよく立ち上がった。
「オイ、この店にあるだけのロマネ・コンティ持ってこォォい!」
無礼講じゃァァア! とばかりに歓声があがる。
お妙ちゃんはうふふ、なんて口元を手で隠しているが、完全に目が座っていた。
どれもこれもお妙ちゃん直伝の女の仕草だ。まさか、ここまで効果覿面とは思わず、今になって自分のしたことが恐ろしくなってきた。
本当に彼女はやばい女だ。なにがって、とにかくやばい。語彙力がついに底を尽きた。
その後も宴は続き、高級ワインを浴びるようにその卓で飲んだ。
「今から、もう一人オジさんの友達くるからねェ」
いつの間にかお妙ちゃんとわたしだけではなくて、店中の女の子たちが集まってきていた。近藤さんはお妙ちゃん、松平様は恐れ多くもわたしを隣にキープしているので、必然と他の子達が手持ち無沙汰になってしまう。実は各々高級なシャンパンとワインを飲んで楽しんでいるようなのだが、松平様はそれは男として甲斐性がない、とお友達を呼んだようだった。
といっても、電話を掛けたのは近藤さんだったが。
「松平様のお友達ということは、さぞ素敵なお方なんでしょうね」
どっぷりと悪代官さながらに、背凭れに身を預けて女の子を侍らせる姿に眉を下げながら、口から湯水のように自然と言葉が溢れ出た。
「ンー? まあ見た目と身分は悪くねェが……。アッ、どうしようかねェ、凛子ちゃんがそいつを好きになっちまったら。オジさん黙ってる自信がないよォ」
「やだ、そんなことしませんよ。こう見えてわたし、一途なんです」
「カァァァ、凛子ちゃんは罪な女だ!」
やいのやいのと歓喜するオジ様を他所に、なに言ってるんだわたしは……と思いつつ、空いたグラスにワインを注いだ。
「おい、近藤さん。こんな時間にまたアンタはこんなところで」
しばらくして、そのお友達が来たようだ。女の子たちからきゃあ、と黄色い声が上がる。松平様が言う通り、場が色めき立つくらいだ、本当に見た目麗しいのだろう。
後ろからやってくるその人を見ようと、振り返る。
「よォ、トシ! よく来たな!」
「おいおい、とっつぁんまで……」
だが、着流し姿の彼の顔を見て、わたしは身を強張らせた。その拍子に手にしていたグラスから手を離してしまう。それでも、一瞬、時が止まったように、その顔を見つめていた。
――パリン。
グラスが割れる音がして、我にかえる。
「ごめんなさい! 松平様! お怪我はありませんか!」
運悪く松平様と自分の脚の間に落ちて、ガラスの破片が散らばっていた。
慌てて、椅子から降りて脚元の破片を拾い集め始めると、松平様は前屈みになってわたしを止めようとする。
「いいっていいってぇ、あっ、でもこの景色すごい最高だからもうちょっといい? オジさんなんかムラムラしてきちゃったなァ」
「っ……」
チクッとした痛みが指先にやってきて、小さく声を上げてしまった。ぷっくりと赤い血が指先から溢れる。まるでルビーの雫のようだ。
地味に、痛い。だが、きっと見られては気を悪くしてしまう。
慌ててその手を隠そうとしたところで、すぐ横から、腕を掬い上げられた。
「女が、割れたガラスの始末なんざすんじゃねぇ」
顔を上げると、彫りの深い、ギリシア彫刻のような精緻な横顔がすぐ目の前にあった。あと一歩横にずれたら、鼻先が掠めてしまいそうになる、そんな距離。苦い煙草の香り仄かに香り、思わず、息を飲んだ。
――真選組副局長、土方十四郎。
ゴツゴツと骨張った指先が煌めくガラス片を摘んでいく。男はわたしに気が付いていない。
「指先、血出てるな」
「あ……」
「ほらよ」
腕を掴んだままそれを繁々と見て、男は着流しの胸元からハンカチを取り出して寄越した。
「とっつぁんが迷惑掛けた」
「いえ、とんでもございません。むしろ、粗相をしたのはわたしの方ですから」
バレないように顔を俯かせて、それを受け取る。指先のルビーを拭き取ると、赤黒い染みができてしまった。
「染みが……ごめんなさい。ハンカチ新しいものをお返し致しますので」
ハンカチで指を包むと、男は「気にすんな」とぴしゃりと言い放った。
大きなガラス片を粗方拾い上げた彼は、視線を擡げると、瞳孔の開いた切れ長の瞳を瞬かせることなく、わたしを見た。
「なァ、アンタ、どこかであったことあるか?」
低く、騒がしさの波間に揺蕩うような声で、彼は言った。思わず心臓を掴まれて、吐息が漏れる。その視線から逃れようにも、逃れられない。まるで捕らえられてしまったかのように、わたしの動きを奪った。
バレませんように。懇願しながら、さあ? と、惚ける。
ほんの少し、唇を噛んだところで、後ろから声が上がった。
「オイオイ今のは聞き捨てならねェなァ、トシ。凛子ちゃんは俺の推し嬢だ。手ェ出したら、その脳天ぶち抜くぞ」
「凛子……?」
整った顔が、驚きと嫌悪に満ちる。
お前、と苦々しげに呟かれたひと言に、わたしは唇を噛み締めて、視線を外へと逃した。
見られている。鬼の副長の鋭い眼がこちらへ向いている。顔の片側が焼けるように熱い。チリチリと痛い気がしてきた。
どうしよう、そう思った時――。
「凛子さーん! 指名入りましたー!」
黒服の男の声がして、わたしは立ち上がった。
「ごめんなさい、ちょっと失礼しますね」
「えー、凛子ちゃんもう行っちゃうのォ? オジさん寂しいー」
「松平様にお会いできて嬉しかったです。また、指名してくださいね」
「勿論、オジさん凛子ちゃんになら幾らでも貢いじゃうよォ」
下から自分を見上げている男の顔は見ずに、笑みを浮かべる。唇は綺麗な弧を描いて、瞳は薄っすらと細めて、睫毛の影を落とす。
「お妙ちゃん、ごめんね」
「いいのよ、行ってらっしゃい」
そうして、呼びに来た黒服にガラスの片付けをするように言いつけると、お辞儀をしてその場を後にした。
「ぎん、さん……」
一番奥の、向こうからは見えない小さな席。銀色のふわふわの髪をした男の姿に、思いがけず、喉の奥からなにかが込み上げてくる。
「よぉ」と瞳だけを擡げる彼は、いつも通り気怠げで、煌びやかなこの店内には似つかわしくない。
「いらっしゃったんですね。依頼、あったんでしょう?」
「おー、きちんと終わらせて来たぜ。ったく、あのジジイ人遣い荒いったらねーの」
ぶつくさ言いながらどっぷりと背凭れに寄っ掛かる銀さんに、ふふ、と笑みを洩らす。
「失礼します」と一日で癖になった商売文句を口にして、その隣に腰掛けた。
「まあ、なかなか様になってんじゃないの」
「そうです? 心配してたんですけど、ここまでなんとか乗り切りました」
「そら良かった。まあドレスは……」
じい、と視線を落として言葉を失くした銀さんに、口元を緩める。
「馬子にも衣装、でしょう」
「バッ、俺はそんなこと言おうとしたんじゃねぇぞ」
「はいはい」
「聞け!」
それすらも流して、二つグラスを用意する。傷ひとつないグラスに氷をいくつかそうっと落とし、そこに焼酎と水を注いで、くるくるとステアした。
「なんかお前キャラ変わってね?」
「そうですか? こっちが本当なんですぅ、きゃっ」
声を高くして片方のグラスを差し出すと、銀さんはそれを受け取りながら「ケッ、猫被り女め」とぼそっと吐き捨てた。
「新八と神楽は?」
「黒服やっていますよ。まあ表にはなるべく出ないようにって伝えましたけど」
「アイツら俺をほっぽらかしにして、こっち来るってうるさかったからな。黙って仕事してるならいいわ」
そんな裏事情があったとも知らず、わたしは目を瞬かせる。
始まる前に必死に和ませてくれた二人を思い出し、胸の内が熱くなった。まあ、新八くんが大抵可哀想だったけれど。
お給料を貰ったら、明日のご飯を少しだけ豪華にしてあげよう。そんな母親みたいなことを考えては、水割りを飲んだ。
「その指どうした?」
どうやら血が滲んでいたらしい。銀さんが赤い指先を見つめている。
「ああ。さっき、グラスを落として割ってしまって」
「ヘェ、そら、粗相してしこたま怒られたんじゃねえの」
「それが、有難いことに豪胆な方で、なんとかお咎めなしでした」
「そりゃあ、命拾いしたな」
銀さんはつまらなそうにグラスを傾けて水割りを飲み干した。
「お代わりつくりますね」
新しく氷を二、三個落としながら、帯の内に仕舞われたハンカチのことを考えた。
――新しいものを返すって、言っちゃったよなぁ。
突発的な自分の言葉を思い返して息を吐く。
返す、と言った手前、返さないのは自分の中のルールに反する気がする。とは言え、どうやって返そう。一筆添えて屯所に送り付ければ良いだろうか。さすがに、失礼だろうか。
そんなことを考えつつ、焼酎のボトルを開けてグラスに注ぐ。とぷとぷ、と静かに音を立てるのが聞こえた。
「こんの、クソゴリラァァア!」
それとはうらはらに、お妙ちゃんの叫びと重い音が向こうで響く。
「あっちはマジで騒がしいのな。世紀末かっての。お前を蝋人形にしてやろうか、って。ったく、折角の酒が不味くなるぜ」
ステアをするわたしの指先を見つめながら、銀さんが眉を顰めた。さながら、苦手なピーマンを目の前にした子どものように苦々しい。
「ああ、松平様の卓があるんですよ」
「松平ってことは、お前、大丈夫だったのかよ」
横目で視線を向けられて、肩を竦める。
新たにでき上がった水割りをどうぞ、と銀さんの手元に差し出す。きっちり両手を添えると、すごくいい女のような気がして、少しだけ気持ちが大きくなった。
「副長さんもいらしてたみたいですけど、間一髪、銀さんに救われました」
「思いがけずヒーロー気取っちまったぜ。いやぁできる男はやっぱ違ぇや。まあ、この依頼料はここの酒代で許してやる特別な」
「お妙ちゃんを言いくるめる覚悟があるならどうぞ」
そう言うと銀さんは明らかに嫌そうな顔をしたあとに「そこをなんとかするのが凛子の役目だろ」と頬をポリポリと掻いた。
――気付いていた癖に。
それは言葉に出さずに、目尻を下げて、グラスに口を付ける。
柱を隔てるだけでも、どんちゃん騒ぎがほんの少しだけ遠くに聞こえた。
