第一幕 第三話

 坂田さんと出会ったのは、先生の遣いに着いていったときのことだ。列車に揺られ、山間を行くこと一刻。現代でいう都会に辿り着いた。思えばそこがかぶき町であり、今わたしが過ごしている場所でもあったのだろう。その頃はこちらの地理には明るくなく、そこまでは気が付くことができなかった。ただただ、田舎から出てきたわたしは、聳え立つターミナルやビルに釘付けになっていた。
 先生はその日、暫くかかるから、とわたしをひとりの男に託した。
 銀髪で、気怠げそうにぼんやりとした瞳を浮かべている青年。きっとわたしよりかはいくつか上で、腰には木刀を差していて、不思議な格好をしていた。
 大人になって、子守のようなものをつけさせられるとは、と戸惑いを隠せぬ顔に先生は笑った。
 ――なに、護衛だと思えばいいさ。好きなところへお行き。
 最近はぱんけーきだとか言う洋菓子が流行っている、そう付け加えて先生は賑やかな街に姿を消した。
 ――アー、どうもぉ。一日護衛やらせて貰います、坂田でーす。趣味は銀の玉を回すこと、特技は鼻くそ飛ばし、三度の飯より糖分が好き。どうぞ、ヨロシクお願いしまぁす。
 覇気のない挨拶をしながら、男は言った。
 思わず拍子抜けしてしまったのだけれど、強張った体が自然と解れて、ちょうど良かった。言わずもがな、それが坂田さんで。その日は、先生から依頼されたというその男と、夕刻までかぶき町をぶらぶらと当てもなく散々したのである。
 思えば、その日、先生がなにをしていたのか少しは疑問に思うべきだった。
 もしかしたら、坂田さんに依頼したのも、単なる護衛だけではなくその用事に関わらせない為だったのかもしれない。
 でも、そうだとしたら、なぜ厄介なわたしを連れて行ったのだろうとも思う。そもそも寺子屋に置いていけば良いだけの話だ。
 この世界の異端児であるわたしへの、息抜き?
 それとも――?
 考えれば考えるほど、あの頃の自分がいかに頓馬で、考えなしで、お気楽だったのかを悔やむばかり。
 もしかしたら、こうはならなかったかもしれないのに。
 あの夏の日が秋になっても冬になっても、続いたかもしれないのに、なんて。

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 辺り一面真っ暗だ。
 川と空の区別の付かぬ中、丸い月が水面にぽっかりと浮かんでいる。ゆらゆらと波間に漂い、形を変えていく。だが、月は依然、そこに居座ったまま。
 まるで、たゆたえども沈まぬ舟のように。
 このまま、消えてしまえたらどれほど楽か。されども、そうする勇気がないのもわかっている。
 ただ静かに流れ行く川を眺めては、欄干に身を委ねる。夏を感じさせる湿った空気が吹いて、青いにおいが鼻腔を擽る。
 その時――背中を酷く強く押され、気が付けば身体が宙に浮いていた。そして、息をする間もなく、真っ逆さまに落ちていった。

 黒く、昏い、底知れぬ闇へ。

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「ッ……」
 寝苦しくて目が覚めた。
 起き上がると、額に薄っすらと汗が滲み、髪の毛が張り付いていた。秋になったとは言え、江戸も温暖化の影響で夏の暑さが抜け切らない。どこもかしこも抱えている問題とやらは、一概に似ているようだ。
 深呼吸をしながら手の甲で汗を拭う。なにか夢を見ていたようにも感じるけれど、今となってはどんなだったか思い出すことはできない。ただ、とても、重要な夢だったような気がする。
 ふう、と肩をゆっくり落として、息を吐いた。
「いま、何時だろう」
 時計を見ると、短い針が四と五の間を指していた。窓越しの世界はまだ暗い。日の出にはもう少しかかるだろう。時間がわかった途端、喉の渇きを感じて、水を貰うことにした。
 のっそりと布団から出た後、居間を通って台所へ向かう。居間ではソファで坂田さんが寝ていた。
 家主をソファで寝かせるわけには、と遠慮するわたしに、同じ部屋で寝るのはさすがに教育上よくないと新八くんや神楽ちゃんが強く主張したのを思い返す。坂田さんはぶつくさと子どもたちに文句を言っていたものの、初めからそうするつもりだったのだろう。渋々という様子もなく、わたしが転がり込んだあの日から寝床を改めた。
「きっと、疲れてるのに」
 ごめんなさい。心の中で謝って、今にも落ちてしまいそうな毛布を掛け直す。
 ふと、ふわふわの髪の毛に触りたくなった。
 銀色の煌めく絹の糸のような細い髪は、「天然パーマ舐めんなよ」と度々口にするように、くるんとウェーブがかかっている。死んだ魚の目とは違って、羊――いや、坂田さんは甘党だから、綿菓子かな――みたいでなんだか気持ちよさそう。
 ひとりでに考えて、くすくす笑う。
 ――触ってもいいかな?
 眠っているし……。じい、と見つめて、彼が規則正しく呼吸をするのを確認する。こくり、頷くと、そうっと手を伸ばした。
 ――あ、やっぱりふわふわ。猫っ毛かな。気持ちいい。
 指先に髪の毛を絡めて、動物を触る時のように優しく撫でる。羊よりも柔らかい。きっと、綿菓子よりも。艶々の肌に、長い睫毛。ちょん、とつぐまれた唇。
 ――寝顔、子どもみたい。
 三十路手前の男になに言ってんだ、って言われてしまいそうだけれど。そう考えたら笑いが止まらなくなって、唇を結んで必死に声を堪えた。
「ン……」
 坂田さんが身動ぎをしたところで、手を離す。動いた毛布をもう一度掛け直して、わたしは台所へ向かった。
 冷たい水を飲むと、すっかり目が覚めてしまった。このまま寝入ることはできないだろうと思い、台所でかぶき町の求人冊子に目を通すことにした。しばらく冊子をめくっていると、それまで薄墨色だった目の前が、色彩を帯びた。
 だんだんと空が明るくなってきているようだった。顔を上げると、窓から差し込む光が優しく台所を照らしている。寝入る頃には聞こえていた人々の騒めきも、今はその鳴りを潜めている。
 穏やかな朝だ。
 瞬きを何度かして、すう、と朝のさっぱりとした空気で肺を満たす。なんだか、寝苦しかったのが、嘘みたい。
 江戸の朝は、だれにとっても優しい。夜悩みながら寝付いても、悪夢を見ても、酷く悲しい川底に沈んでも――必ず、朝はやってくる。そして、その朝は憂いをさっぱりと削ぎ落としてくれるようななにかがある。
 朝日をたっぷりと溜め込んだ台所をぐるりと見渡すが、そのなにかははっきりとは、わからない。それ以上探すのはやめにした。
 ――こんなふうに朝を迎えられるようにったのは、こっちに来てからだな。
 目覚ましの騒々しい音、ままならない朝食、人で溢れかえった電車、仕事に明け暮れる毎日。手に入れようとして、色んなものを失って――まるで人生という特急列車にでも乗って、生き急いでいるようだった。ぼんやりとそれを思い返して、息をつく。
 だが、橋から落ちて気が付けば、その生活はガラリと一変した。この春のことだ。それも、ほんの二、三ヶ月しか経っていないというのに、遥か昔のことのように感じる。
 ――楽観的、なのだろうか。
 朝日に照らされて穏やかな気持ちになる自分に笑いたくなる。とは言え、思い返すたびに胸を突くような痛みも、まだ残っている。色々なことがありすぎて、麻痺しているのかもしれない。それほどに、不思議な感覚だった。
 ――うん、忘れた忘れた。
 せっかくの朝だ。
 朝日を浴びながら、再び、目の前の冊子に目を落とした。

「仕事はいいのあったかよ」
 突如落ちてきた声に、わたしは飛び上がった。
「ふぁ、坂田さん!」
 欠伸を噛み殺しながら、台所の戸口に現れたのは坂田さんだ。
「おはようございます。すみません、起こしちゃいましたか?」
 慌てて前髪を整え、平然を装おうとするわたしをよそに、彼はよろよろと台所へ入ってきた。
「ンァ? いや、もう起きる時間なんじゃね?」
「今、何時ですか?」
「そろそろ八時だろ」
「えっ」
 そんな、先ほど台所にやってきた時は日の出すぐの時間だったのに。かれこれ二時間以上、ぼうっとしていたことになる。冊子を眺めていたつもりが、いつのまにか微睡みに身を委ねていたらしい。窓を見遣ると、すっかり太陽の光が強くなっていた。
「やっちゃった……」
「なにが?」
 思わず頭を抱えるが、坂田さんは呑気に眠気まなこを擦っている。
「朝ご飯の支度が済んでいないんです」
 冊子を閉じて、腰掛けていた椅子から立ち上がる。その横を通り過ぎると、さも興味無さそうに、銀さんは冷蔵庫を開けてしゃがみこんだ。
「ふうん? ま、新八ももうすぐ来るだろうし、手伝ってもらえばいいだろ」
「せっかく居候してるのに。そんなの申し訳ないですよ」
「そう堅苦しくなるなって。こっちも気ィ遣うだろ気にすんな」
 そう言って坂田さんは朝イチのいちご牛乳を飲み始める。じゃあ、せめて、お米を炊く支度だけは今のうちにしてしまおうと着物の袖を捲し上げた。
「それで、仕事は?」
 ぷは、と心地よさげに息を吐いたあと、坂田さんは視線をこちらへ向けた。
 日差しに銀色の髪の毛がゆるやかに輝いている。だが、瞳はやや覚醒したものの、相変わらずやる気がなく、眉と目の間が酷く離れている。アンバランスだというのに、坂田さんにはしっくりくるようだった。
「いくつか目星は付きました。今日、応募しに行ってきます」
 あれと、これと、と見つけ出した求人を頭に浮かべ答える。
「アー、ひとりで行ける?」
「大丈夫だと」
「本当かよ。俺ァ、知ってるぞ、お前みたいな奴はそこらへんで変なの捕まえてくるって。心配だからお兄さんついてくわ。捕まえるどころかまたどっかで取っ捕まったら、いよいよ優男に化けて出られちまう」
「だから、死んでませんって。……でも、すみません」
 おー、と気のない返事を返されるも、どこか自分が子どもに返ったような気持ちになってむず痒くなる。
 いい歳して、仕事と生活の心配を人にさせるなんて……情けない。
 肩を落としたくなったが、坂田さんのお腹の音で、それどころではなくなるのだった。

 

 

 朝食は冷蔵庫にある卵ともやしと豆腐、あとお登勢さんから頂いた賄いで簡単に見繕った。
「美味しい」と言う神楽ちゃんと新八くんを横目に、坂田さんは可となく不可となくと言った反応だった。料理はできなくもないが、格別上手いわけでもない。坂田さんの反応が一番正しいかも知れない。それでも、神楽ちゃんと新八くんの言葉は嬉しかった。
 朝食を終えると、わたしと坂田さんはかぶき町に繰り出した。
「で、どことどこ?」
「最初はこのお団子屋と、蕎麦屋。あとは、こっちの甘味処」
「全部食いモンじゃねぇか」
 食い意地が張ってると思われただろうか。一応、すべて来歴不問と書いてあるものを選んだつもりだったけれど……食い道楽を見抜かれた恥ずかしさから、求人冊子を握り締めながら、む、と唇を尖らせる。
「ま、良いんじゃねぇの」
 坂田さんはそんなわたしをよそに歩き出した。
「俺としては団子か甘味で毎日賄いを持って帰ってきて貰えたら嬉しいんだけどな」
 ポリポリ、首すじを掻く彼の横に慌てて追いつく。
「糖尿、悪化しても知りませんよ」
「馬鹿野郎。糖分は俺のロマンだ」
 なに言ってるんだか。ジト目を向けると、坂田さんは足を止めた。
「どうかしました?」
 顔をじい、と見つめてくる坂田さんに、わたしは眉根をほんのり寄せる。
「そういや、俺のこと呼んでみ」
「え?」
「いいから」
 突然のことに首を傾げるも、促されて、彼の名前を呼ぶことにした。
「坂田さん」
「ないわー、ナイナイ」
「え? ナイナイ?」
「イントネーションが違ェわ」
 なにがナイのだろうか。きょとんとするわたしに坂田さんは、溜め息を吐いた。
「俺の名前知ってる? 凛子ちゃんよォ」
 二十代半ばを超えてちゃん付けされるのは正直恥ずかしかったが、わたしは記憶にしまってある彼の名前を紡ぐことにした。
「坂田、銀時さん」
「なんだ、知ってんじゃねえか」
 彼は満足そうに鼻を鳴らす。
「んじゃ、坂田さんは止め」
「え?」
 思わず目を瞬かせる。
「もっと気楽に呼びゃいいだろ。坂田さんなんてむず痒くて仕方ねェ」
 坂田さんはほら、と促してくる。
 名前で呼んで欲しいってことだろうか。それとも、坂田って呼び捨て? それはちょっと違うか。高校の同級生じゃあるまいし。じゃあ、やっぱり、名前かしら。
 ほんの少しの間お世話になるだけだからと、なんとなく気が引けたのだが、じいと期待するように見つめられて、わたしは小さく唾を飲み込んだ。
「……銀さん?」
 そう言うと、彼は目尻をほんのりと下げて、ふっと笑みを漏らした。
「できんじゃねーか」
 まるで、頭を撫でるみたいな優しい声だった。
「なに気張ってんのか知んねーが、ウチにいる間は適当に羽伸ばしときゃいい」
 しばらくぼうっと彼の顔を見つめていたわたしだったが、彼に指摘されて、ハッとした。
 気を張っている。実に的を射ていた。
 できるだけ迷惑を掛けないように。情を入れ込み過ぎないように。意識して、線を引こうとしていたのを気付かれていたなんて、途端にどこか穴に入りたくなる。と、同時に、わたしはなにに必死になっているのだろうと、虚しい気持ちにもなった。
「いいんですか?」
 おそるおそる訊き返す。
「いいもなにも、そっちが嫌ならいいけどよ」
「そんなことは、ないですけど」
 なにも守るものも捨てるものもないというのに。なにを恐れていたのだろうか。いや、もしかしたら、かえって、手にすることの方を恐れていたのかもしれない。
 もじもじと言葉を濁すわたしに、彼は、「ならいいだろ」とハッキリ切り捨てた。
 銀さん。口の中で彼の名前を転がす。飴玉を舐めた時のように、ほんのりと甘くて温かい心地になる。
「あ、でも銀時さんって呼ぶのもなんか初々しくて萌えるよな。一回呼んでみて」
「それはちょっと……」
「いや、その心底嫌だけど相手を気遣って笑みを浮かべるのやめてくんない? そういうの一番傷付くから。優しさがかえって牙を剥いてるから。切れたナイフだから。心ズタズタだから」
 こういうこと言わなければ、株はもっと上がるのに。まあ、これが銀さんなのだろう。

 そんなこんなでくだらぬ応酬に突入したところで、前から見たことあるような装いの人が歩いてきた。
「アレ、旦那じゃないですかィ」
 隣で、「ゲッ」と珍獣に出会ったかのごとく銀さんが顔を歪めた。
「昼間から女連れとは、いいご身分で」
 見た目麗しい顔立ちとはうらはらに、彼の纏う黒い洋服にわたしは身を固めた。
「ちょっくら依頼でなぁ。総一郎くんこそなにしてんの? なに、ゴリラの落としたバナナの皮でも回収しに来たの? マリ◯カートならどうぞ私有地でお願いしまぁす」
「総悟でィ」
 銀さんはスッとわたしを背中に隠しながら、金髪の人形のような男の子とのらりくらりと言葉を交わす。
 ふわりと掠める甘いようなそれでいてさわやかなような、男のひとの香りにどぎまぎしながら、目の前の黒い洋装の彼が去ってくれるのを待った。
「そっちのお嬢さんは、どっかで見たことある顔でさァ」
 だが、世の中そんなには甘くいくわけがないらしい。お嬢さんって歳でもないんだけど、と思いながら銀さんの後ろで会釈をする。
「なに、おたくら知り合い?」
「知り合いってほどじゃ……」
 言葉尻を窄めると、そこへ間髪入れずに男の子が続ける。
「手錠かけて鉄格子ん中にくくりつける関係を知り合いっていうのなら、そうでしょうねィ」
「お前隠す気もなんにもないよね!? SMプレイなの? 女王と奴隷なの!?」
「違いまさァ。王子と奴隷でィ」
「どっちでもいいわァァァ!!」
 真っ黒な洋装――真選組の隊服だ。金のラインが艶めかしく光る。この人とは直接喋ったことはないが、鬼の副長の後ろに控えていたので、よく覚えている。
 かぶき町にいると、真選組に会うことになるのは承知の上だった。だが、やはり、気のよいものではない。釈放してもらえたとは言え、胸の内にこびり付いてしまった黒い感情はそう簡単には拭えないだろう。
 大人だから、いろいろなことを水に流せるようになるなんて、嘘だ。
「あの、約束の時間に遅れますので」
 一刻も早くここから立ち去りたくて、掠れた声を捻り出す。それまでぎゃあぎゃあと騒いでいた銀さんが静かになり、男の子は試すように眉を上げた。銀さんの半歩後ろで唇を噛み締める。
「んじゃ、まァそう言うこっ――」
「おい、総悟サボってんじゃ……」
 銀さんが踵を返そうとしたのと、男の子の後ろから、また新たに真選組の隊服を纏った男かやって来るのは、ほぼ同時だった。