気づかぬふりの美学

 その日の天気は雨だった。降りそそぐ滴がしめやかに窓を打ちつける。辺りは霞み、吐く息は白く染まる。室内はおどろくほど静かで、そばを通り過ぎる車の水をはじく音さえも聞こえてくる。
 ぐるりぐるりとおもちゃのレコーダーを巻いて、「いい子に待っているのよ」と聞こえてくる声に耳を預ける。
「すぐに帰ってくるから。いいね、だれが来てもドアを開けてはならないよ……」
 ――リフレイン。
「いい子に待っているのよ」
「すぐに帰ってくるから――……」
 ――リフレイン。
 カチカチと鳴り響くその手巻きのおもちゃを抱いて、「はいイエスおとうさんダディーおかあさんマミー」と繰り返す。
 雨は降り続く。
「いい子に待っているのよ」
「すぐに帰ってくるから」

「愛しているわ」

  I love you too…わたしもよ…繰り返し、繰り返し、広いリビングで白い吐息を吐き続ける。

 フラットからの道のりには疾うに慣れた。歩いて数ブロックほどの地下鉄の駅に向かい、パスを使って構内へ入る。湿った空気はパリと同じ。かつてアメリカに居た時ですらメトロというのはこんなものだ。携帯や新聞に夢中になる乗客、イヤホンから音の漏れだす若者、うたたねをする会社員、それをチラチラと確認する少女、ガタンゴトンと揺れる箱に閉じ込められ進んでいく。お世辞にもいいにおいとはいえぬ、人間たちの混じりあった臭気に思考を閉ざしながら、ユリアはただ待ち受ける。変わらない日々、当たり前の日常。変えようと思ってもこれはもはや世界が終焉を迎えようとしない限り変化は訪れないのだろう。ただ、いつもよりいくらか早い駅でユリアは地下鉄を降りた。
 向かった先は、瀟洒な高級住宅の並ぶとおり。通りを車高の低い外国車が走り重厚な彫刻や飾りの施されたヴィクトリアン様式の建物が続く。その中でもひときわ趣きのある白いビルのドアベルをユリアは鳴らした。
 二週間に一度の、カウンセリングの日。いくら慣れたとはいえ、彼女が非日常に巻き込まれてからそう時間は経っていない。MI6という特殊機関で働くために課せられたある種の任務であり、彼らからの気遣いであるとも言える。
「こんにちは」とユリアを迎えたのは受付の女性であり、姿を見るや、「ドクターが奥でお待ちしております」とコートを預かった。途中雨が降り出したために、コートはうっすらと濡れており、すみませんとユリアが謝ると女性はにこやかに応対した。
 雨は小さな飛沫をいくつも上げながら窓へ吹きつけている。
「ああ、お待ちしておりましたよミス・ルーニス」
 担当は初老の男性医師だった。医学博士であり、主に犯罪被害者の抱えるPTSDを専門分野としているという。穏やかにデスクから立ち上がり、ユリアを革張りのソファへ。自分は窓辺に向かうと紅茶を淹れる。
 しっとりとした空気に合う、オリジナルブレンドのハーブティー。初めてここを訪れたときに、苦手なものはないかと問われ、ローズヒップと答えた彼女の嗜好に合わせたものだ。その日の天気や男の気分によっても多少配合は変わる。
 それを飲み交わしつつ他愛のない会話から始めるのが彼の手法だ。もしかすると、彼らの、といったほうが正しいのかもしれない。いつものとおり、調子はどうだいと訊ねられ、ユリアは悪くないと答える。
「雨が降ってきたようだね」
「ええ、家を出たころは大丈夫だったのだけれど」
 それから天気や紅茶のこと。そして紅茶が半分ほどになったころに、「最近はどうかな」と切り出すのだ。
 変わったことはあったかね、そうやわらかな瞳で、銀縁眼鏡の向こうから見つめてくる彼にユリアはハーブティーに口をつけたあとに答えた。
「そうですね、夢を見ました」
「それはあの日・・・の?」
「ええそうですね、あの日・・・も、雨が降っていました」
 窓には雨滴が打ち付けている。絶えず飛沫を上げ、辺りを白く包み込みながら。
「……雨は、好きです。なにもかもを洗い流してくれる気がするから。けれど、同時に、ときおり、ひどく恐ろしくなる」

 ………
 ……
 ……

 昼ごろになって職場に着くと、上司007は今日とて国内にいないようであった。水を打ったように静まりかえったエントランスロビーを越えれば、そこは正しく異世界。国内はおろか世界の平和と安全を担う機関は毎日がアプリや機器のリリース直前の張り詰めた空気を醸し出している。
 だが、胸懐を抱くよりも、ああなんだかいやな感じがする、と、すばやく危機管理能力をフル稼働させて、ユリアはMI6のオフィスを突っ切ることにする。だれとも目を合わさぬよう、存在を喧騒に隠すように。だが、羽織っていたトレンチコートを片手に忍び足で進むユリアの行く手をMの腹心、幕僚長のビル・タナーが阻んだ。
「彼の居場所を知っているか」
 ぎくりと思わず肩を震わせそうになったが、ユリアは、「ハイ、ミスター」とゆったりと答えると、生真面目な――というよりこの場合神妙とか、あるいは不機嫌のほうが正しいかもしれない――顔つきの男に、唇を丸めて、「残念ながら」と続けた。
「わたしよりも、わたしの作った機械のほうが詳しいかと思います。それか、NATOとか?」
「……振り切られたんだ」
彼らの力ポジショニング・システムをもってしても?」
「いや、正確には、“位置を示している”が、連絡がつかない」
 あからさまに彼は深くため息をつく。撫でつけられたブルネットに、お手本とばかりの堅実な着こなしのスーツ。これだけ見ればいかにも仕事のできる会社員といったところ。実際に幕僚長を務めるほどだ、能力は折り紙つきである。しかし、そんな有能な人物が一人の男に振り回される姿を見るとなんとも言いがたい気持ちになった。
 済まなく思いながらも、ユリアは磨き上げられた床を眺めて、それから働く同僚たちの姿を視界に入れる。
「申し訳ないけれど、それじゃあお力にはなれないわミスター」
 この日を見越して姿を眩ましてくれただけ、上司には感謝すべきだろうか。
 Mと007に一杯食わされて以降、こうして彼に関する問い合わせが少しばかり――否、かなり、ユリアの元へ届くようになった。007が消えた、007はどこだ、007はなにをしている? どれもこれも聞き慣れた質問ばかり。あの上司が果たして本当に国家公務員であるのかと疑いたくなる瞬間である。しかしながら、ユリアはその男の機械工。ジェームズ・ボンドこそが絶対なる存在。
「なにか問題でも?」
 それでも済まなそうな顔つきをするのを忘れずに、訊ねるユリアにタナーは再三ため息をつき額に手を遣る。
「Mが嫌な予感がすると」
「嫌な予感……」
「ああ、確証はないが、このところ極東の動きは少々不穏でね」
 そういえば、今はイスタンブールにでもいるのだったか。そういう予定だった。険しい顔つきのタナーを常の重たい瞳で見あげると、ユリアは唇を舐めて、深く息をつく。
「一応、わたしも、もう一度発信器にアクセスしてみます。その、007が捨てていなければの話ですが」
 よろしく頼むと安堵にもかぶりを小さく揺すって去っていくタナーに、非常事態のために電話番号くらいは聞いておくべきかと思うユリアであった。

 それから件の国家的問題児が帰ってきたのは数日後だ。幕僚長の胃痛など素知らぬ清々しいまでの澄まし顔で、ディスプレイに向かうユリアの前に現れた。
「やあ、ごきげんいかがかな」
 ユリアは表情はおろか頭すら微動だにさせず、眼鏡の奥で淡い虹彩の浮かぶ瞳だけを動かした。野暮ったくも、憂いを帯びたようにも見える仕草だっただろう。視界に映し出された麗人に一ミリも動じた様子を見せず、「次は降圧剤か安定剤でも処方していただこうかしら」と言って彼女はキーボードを打ち込む。
 ただ、この部下あっては上司も上司。007も眉をあげると、にこりともせずに、「じゃあ次回はそうしよう」とデスクの前まで歩み寄った。
「結局、タナーに居場所を教えなかったんだな」
 夜をたゆたうような低音に、ユリアは薄く青みがかったレンズの奥で今一度気だるげに瞳をもたげてマウスをクリックする。
「その必要はあった?」
「いいや」
 でしょう、と緩やかに相づちを打ち、そのまま作業を続けた。
「あなたの言うことは絶対ですから、陛下your majesty
「せめて上官Sirにしてくれるか、全身がゾワゾワするところだ」
「それは残念ね」
 それこそ、深く考えないようにしている。自分にとってなにを遵守すべきか、それは自らの首の根を掴んでいるこの男一択なのだから。
 たとえMが出せと言っても、007から言いつけられているかぎり自分は口を割らない。国家の安全だとか、世界平和だとか、そんなのはどうでもいい。ただ、この男が、「一日、ポジショニング・システムを欺きたい」と言うから、ユリアはそれを遂行するだけ。
 彼に持たせた発信器は二つ。ひとつは件の、英国MI6独自の衛星測位システムを利用したメジャーな機器だ。世界中どこにいても、爆破や津波に巻き込まれないかぎり居場所を特定できる。そしてそれは、四六時中MI6の衛星担当官のもとへ発信される。つまりMのもとへ直通。
 もうひとつは、その衛星システムを阻害し、バグを起こす起爆剤――スイッチングひとつで、記録していた嘘のデータ情報をMI6へ送り続けることができる。その間、ユリアの携帯だけには彼の位置情報が定点的に発信される。
 国外での任務の際には非常時のために必ず居場所をMに発信しなければならない。より正確に、より隠密に、それゆえにユリアがいるのだ。少し前の007であれば発信機など踏み潰してでも行動に出ただろうが、それではすぐにMに察知され、「すぐに任務に戻りなさい」と命令されては、挙句、「なぜ命令に従わないのか」と糾弾される。結果的には、そのMに勘付かれていたのだから技術面の問題でサポートしたとしても、どうにもならないことがわかったのだが。
 Mにこの悪事への加担が知られたら、せっかく過ごしやすくなってきた職場が元の見世物小屋のような窮屈さに戻ってしまう。そこまでわからない女ではない。考えるとため息をつきたくてたまらなくなるが、彼がユリア以外の人間に行方を眩ませるというのは、つまりそういうことだ。
 彼には彼のやるべきことがある。ユリアにはその是非などは関係なく、ただその船に乗り込むだけ。実際には乗り込むなんてことはせず、船着場でオールを手渡すくらいの役目に留めておきたいと思ってはいるが。
 彼はユリアに住む場所と職を与え、命を保障すると言った。その対価にユリアは装備を開発し、彼の為に働くことを誓った。彼がなにをしていようが、なにを抱えていようが、そんなことはさしたる問題ではなく、彼自身の問題にユリアは必要以上に干渉しない。007にとってもまたそれは然り。自分がなにをしようが、なにを抱えようが、ユリアに最低限の干渉の余地しか与えない。それが、彼女と007の関係だった。取り決めたわけでもない、ユリア自身の暗黙の了解としてそれを保ち続けていた。
 だから、彼の居場所を問われても、たとえ相手がタナーであれMであれ、追及を掻い潜る。秘密を守る番犬のごとく。そうね、まさに007の犬ね――とにかく、それがユリアの責務であった。
「いやな予感は的中しなくて幸いね」
 クリック操作とタイピング操作を続けながら、ユリアはブルーライトカットのレンズ越しに小さな世界を見据える。先日の任務における上司の行動パターンに関してポジショニング・システムに残されたデータをもとに解析と分析を行ない報告を上げるようMから言われているのだ。
 007は世界から姿を消すことはなく、任務も無論遂行され国家の安全は保証されたわけだが、それでも丸一日その裏で男が消えたことまで、Mにはお見通しなわけだ。ユリアにパターン解析を頼むあたり、こちらの思惑は筒抜けなのだとレポートを作りながら打開策を考える。
「君が?」
 いやな予感、その言葉に片眉を上げて007は言った。
「あなたの上司がね」
 ユリアはにべもなく答えた。
「心配ばかりで困る」
「手のかかる息子がいると大変ね」
「ぜひ、厳しい母親がいる僕の身にもなってほしいものだな」
「愛情の証じゃない」
 いよいよ大詰めというところで、ディスプレイに影がかかった。ユリアはようやく視線を外すと、気怠げな瞳でその影の主を見上げた。
「ところで君の顔についているそれは」
 なにか、と訊こうとしたユリアに先手を打ったのは007だ。それ、と言われてユリアは頬をさわるが、なにもついていない。碧い瞳の先を探り、ようやく要領を得たところで、ああ、と銀縁の眼鏡をはずした。
「パソコンを長時間使うと疲れるっていうから」
「だれから?」
「あなたの上司の一人から」
「まさかMの趣味ではないしな」
「あなたの思い描いている人物で大方当たっているとおもうけど」
 目を細めてわずかながら揶揄の顔を作った彼をユリアはぴしゃりと締め出した。
「へえ、タナーがな」とそれでも続いた言葉に、「意気投合したの、だれかが所在不明になっているあいだに」と返した。
「誰かさんだけは、すべて知っていたはずだろう?」
「それの誰かさんは携帯をカバンの奥底にしまっておいたみたいよ、さすがにね」
「正しい判断だな、君は顔に出る」
 咄嗟に顔に手をあてると007はふっと息を吐き出しだ。ほとんど揶揄に似たそれに、ユリアはたまらず目を回した。
「そこまでわかっているなら悪事に加担させないでちょうだい」
「まさか、正義のヒーローごっこじゃないか」
「無理して正義なんて使わなくていいのよ」
「お気遣い、痛み入るよ」
 もう一度かけ直そうとしていた眼鏡を逞しい指にさらわれ、ユリアは小さく唇を尖らせた。
「君はローズゴールドのほうが好きだとタナーに言っておこう」
「ついでに電話番号も教えてさしあげたら、いつでもどこでも繋がるやつ」
「考えておくよ」
 わたしにも、と言いかけてユリアは口をつぐんだ。それから立ち上がり、デスクの端に腰かけていた男の手から眼鏡を奪うと気だるい仕草でかけ直した。
「まだ、なにか?」
「いや、今度は旅先から君宛てにポストカードでも送ろうかと思ってね」
「あら粋なお気遣い、心より感謝するわ」
 彼はなめらかなスーツの胸元から携帯端末を取り出すと迷いもない動作でキーを打ち耳に当てた。
 刹那、ヴー、ヴー、と鳴り出すのはジャケットに仕舞い込んだユリアの携帯だ。
「登録しておくといい、いつでもどこでも繋がる幸運の番号だからな」
「呪いの番号にならないといいけれど……って、わたしの番号、アナタ、いつのまに」
 彼はいささか嘲笑するように眉を跳ねると、澄ました態度で携帯を懐へ戻した。
「他言無用で頼む」
 そう言い残して――というよりも吐き捨てて去っていった男に、ユリアはどっと疲れがのしかかった気がして、深く息をつくやデスクチェアに大きくもたれかかった。