地下への鍵は想像よりも容易く開かれた。静まり返ったオフィスビルを、ボンドはワルサー片手に突き進む。「撤収だ」と耳元で告げるのはタナーだ。了解とボンドは答えたが、実際には命令に従うことなく、中央エレベーターの入り口にもたれかかるようにして倒れていた男を引き剥がすと、息つく間もなく中へ乗り込んだ。
正面には、パリの街並み。ロンドン同様日没の遅いこの都はまだ空が明るい。眩しいほどのシャンデリアから解放され、淡い光につい目を細めたがすぐに背を向けた。狭まる視界、散乱した室内に別れを告げ、迷うことなく押したのは3つのボタンだ。地上九階、六階、そして、三階――〈963〉。社長室に座っていた男が身につけていたネクタイピンに記されていた数字であった。他にも、〈174〉や〈285〉などという三桁の数字がこのオフィスには溢れていた。
「〈174〉は特別な数字です。その数字はきっとあなたの心に安らぎを与えることでしょう」
胡散臭い女の声が今もエレベーターの上空から降り注いでいる。
〈174〉、〈285〉、それから〈396〉、〈417〉……一聴すれば不規則なその数字の羅列は、ソルフェジオ周波数というものだ。権威あるDNA研究者であるレオナルド・G・ホロウィッツが著書の中で提唱した特定の周波数であり、396Hz、417Hz、528Hz、639Hz、741Hz、852Hz の 6 種類に加え、昨今では、周波数の差が 「111」という計算から導かれた、174Hz、285Hz、936Hz も、同周波数群に含まれるという研究が主流となっている。
「〈396〉という数字は、あなたをあらゆる罪、トラウマ、恐怖から解放するとっておきの数字となることでしょう」
古く「グレゴリオ聖歌」という讃美歌に用いられた音階であり、「癒しの効果がある」として、多くの自然療法に重宝されてきたと言うが、まったく、大きなお世話だ。そもそも、数字ではなく、その数を示す周波数が人体に影響を及ぼすというのが定説だが、世の中にはパワーナンバーだ宇宙の数字だなんだと、なんでも有り難がる人間もいるものだ。もっとも、有り難がるよう仕向けているというのが正しいかもしれないが。
懲りずに延々とふりかかってくる声に、「お気遣い痛み入るよ」と返事をするとボンドは一番最下位にある、「SS」というボタンを押した。
Mから言い渡されていた任務はすでに終えていた。背後に広がるのはパリの街並み。地上二十階、なかなか荘厳な景色といえるだろう。しかしボンドを迎え入れるのはセーヌ河畔でも、エッフェル塔でもなく、四角いグランダルシュ。
薄明の空はやや霞がかり、華の都というにはほど遠い、現代的で疲れ切った社会の姿がそこにあった。
今はもうあらゆる人間がフランス国防省の然るべき人間たちの手によって捕縛、あるいは保護されているが、ここも、数時間前まではどこにでもあるようなオフィスだったのだ。
豊かな世界へなどという標語とともに偽善者の顔をして、世界のテクノロジーを進歩させようと奮起していたいち企業が、まったく人身売買、さらには武器の密輸を行なう組織の手先だったなど、だれが想像するだろう。
だが、それが世界の真の姿だとボンドは驚きもしない。それどころか、平和の仮面をつけた鮮やかな世界に背を向け、こんなのは序の口だとジャケットの襟をサッと正す。
「〈936〉は宇宙と繋がる最も崇高な数字と言われています。我が社は名誉顧問であるアルチュール・ウリエル氏による起業以来、この数字を胸に日々躍進し――……」
不愉快なアナウンスは、依然続く。エレベーターの表示は「RS」を越え、「SS」へ。そして、 パリじゅうに張り巡らされた線路をうまく避けて作られたであろう秘密の花園。もっとも、カタコンベかもしれないが。
かれこれ数週間前、突きつけられた指示書には、こう書かれていた。
英国、ならびに世界の脅威となる国際的犯罪組織「クアンタム」の下部組織、「アノニム」によるパリでの大規模テロを阻止せよ――と。
「アノニム」はエチオピアでの摘発以降、事実上の組織瓦解とされていたが、NPO法人グリーン・プラネットの代表であった故ドミニク・グリーンの旧友であったアルチュール・ウリエルのもと、パリのIT企業「エルンスト」を隠れ蓑に活動を続けてきた。
「エルンスト」――テレビや電話機などの家電から携帯電話のガジェット端末など、多数のハードウェア製品を開発、販売する企業だ。1995年の創業以来、徐々にその業績を伸ばし、昨年では国内シェア第六位を記録しているという。
マイクロソフトやアップルにその名は敵わないものの、一部顧客からは根強い支持を受けており、中でも家庭用オーディオプレイヤーなどは携帯電話からの遠方操作が可能だとして人気があった。
その「エルンスト」の技術を使って、大規模な爆破テロを起こすというのが、「アノニム」の計画であった。特定の基板を用いて時限装置に合わせ同時に爆破させる。それは、街角に置かれた公衆電話や、路駐メーター、あるいは監視カメラなど、あらゆる箇所に設置されていた。パリ国内、そしてヨーロッパの国じゅうに。爆破網はまるで繊細なレース編みのごとく、緻密に、意図的に、敷き詰められていた。計画を見つけたのはボンド自身である。「アノニム」の構成員であるフランス人の男を別の任務先であるチュニジアでボンドが捕らえたことによって露見した。
「クアンタム」との関わりがある組織をこの期に及んで葬ることになるとは、またとない好機だった。スペインで逃亡したミスター・ホワイトの手がかりは依然見つかっていない。だが、結局、「アノニム」も「エルンスト」も空虚であった。「クアンタム」の名を知る者は一人もいなかった。それが嘘であれ真実であれ、すべては後の尋問で明かされることだろう。かれらが五体満足でいられたらの話だが。
起爆装置となっていた電子機器は全て電源を落とし、「エルンスト」製の特定基板を使用した電子機器や家電は大規模な回収命令を出した。基板は協力関係にある仏国防省に持ち帰られ、すでに解析が済んでいる。首謀とみられる男は身柄を確保され、アルチュール・ウリエルはボンドが着いたときには息を引き取ったあとであった。
任務は遂行。次の仕事に移るべきであった。それだというのに、ボンドの足がオフィス・ビルの設計図にも載らぬ地下へ向かったのは、ほんの気まぐれにすぎなかった。
アルチュール・ウリエルのスーツのポケットから、「LAB-SS6」と書かれた基板が発見されなければ、気まぐれを起こさず、今ごろMが青筋を立てることもなかったはずだろうに。災難か、それとも僥倖か。
「SS」――すなわち、〈sous-sol〉。そしてオフィスにあるラボラトリーは、全部で二つ、そのいずれも「LAB-D6」「LAB-G6」と呼ばれている。六階の右ウイング(D6)と左ウイング(G6)だ。すべての基板にはこのどちらかの印字が施されていた。先に回収された家庭用電話機の中からも、「D6」の特殊基板が発見された。
――SS6。地下、六階。
指先にも満たない、小さなガラクタのような、一枚の板。
果たして地下にはなにが待ち受けるのか。やがて、軽やかな到着音が鳴り、「sixième sous-sol」とアナウンスが響く。
開いたエレベーターの先は、闇であった。
トリガーに指をかけながらボンドはワルサーを構え闇の中を進む。聴こえてくるのは、あの奇妙な社内放送の声のみ。人の気配すらなかった。だが、しばらく歩き、濃密な薬品のにおいが扉の向こうから漏れ出しているのを察知した。
火薬に引火しないのを確認し、ボンドはまもなく扉を蹴破った。室内には青白い光が点在していた。それを遮る無数の黒い影を確かめたとき、それが白衣姿の死体であることがわかった。
緊張に似た、張り詰めた空気が充満している。
〈174〉、〈285〉――数字はふたたび膨れあがる。――〈396〉、〈417〉――ボンドはその中で一つの声を聴いた。
「――イエス・ダディー・マミー」
かすかな声であった。
四方に広がる研究室の、最奥。ボンドは一枚の扉を見つけた。そしてその扉を開いたその時、運命はあらぬ方向へ舵を切ることとなった。
とるに足らない存在など、この世に山ほどある。むしろ、そればかりだと言ったほうがいいかもしれない。自らを形成するなにかなど、おのれの身以外になにひとつ必要ではない。
引き金を引く、一瞬の空白を支配できなければ話にならない。――なんのために? さあな。そんなのは、どうでもいい。――それならば、なぜあの女を拾った? どうでもいいだろ。
ボンドはいつものように長い廊下を突っ切ったあと、一番奥の部屋にノックもせずに入った。
正確には、「入るぞ」とひと言、見事に磨かれた革靴の先がカーペットの切れ目の端を捕らえた瞬間に告げられていたが、返事を待たずに入れば、それは意味を成さないというもの。
ボンドはゆったりと持ち上げられた視線をものともせず、大きなディスプレイと真向かいに座った女の前に手を突き出した。
「なにかプレゼント?」
「ああ、とっておきのね」
そう言いながら、男の顔はみじんも緩められていない。鋭いまでに整った顔を向けられた女は、銀縁眼鏡の奥でかすかに目を細めた。
「どうもありがとう。あなたが無傷でガジェットを持ち帰ってくれるとは思わなかった」
うろんにも怪訝にも見える様子で、男の手の下に受け皿のように白い手を出して女はそう言う。
手のひらにぽろりと転げたのは、指先ほどの突起状の物体。ベージュカラーのそれは、任務でよく使われる盗聴器のひとつであった。
「一度も出番がなかったからな」
にこりともしない女に負けじと、ボンドもにべもない調子で返す。
「あら、紳士のお耳には合わなかったかしら」
「そうだな。僕には少し大きすぎたようだ」
リップの控えめに塗られた唇を少しばかり窄めたあと、「それなら仕方ないわね」と彼女はイヤホンをデスクの傍へ避ける。
「――それで、どうしてほしいの」
ボンドを見あおぐでもなく画面を見つめていた。指先は華麗にブラインドタッチを決める。
「物分かりがよくて助かるよ」
「上司が破天荒だと部下が育つってよく言うものね。あなたのお耳に合わないということは、ひとまずあなたの耳の穴に石膏を詰め込めばよろしくて?」
まさか、とボンドは鼻で笑った。
「君なら、もっといいものが作れるだろう?」
ただ、それだけだ。そのひと言がなにかの起爆剤であるかのごとく、キーボードを打つ手が一瞬止まった。
しかし彼女の表情は変わらない。気だるげな、あるいは睡たげともとれる瞳は、仄昏い色を纏っている。
表情がないわけではない。感情がないわけではない。ただ自分との間に、それらのやりとりが必要ないだけ。
無垢に近いその表情に、ボンドは指先を擦り合わせた。
「返事は」
あえて、子を窘めるようにして言ってみせた。そう、あえてだ。返ってきたのは、唯一、「必要?」ということばだけであった。――「まさか」ボンドも、用意していたように僅かに唇をゆがめた。
満足そうにキーボードのエンターキーを叩いた彼女は、ディスプレイを丁寧にデスクの傍によけると向かい側の椅子をボンドへ示す。それから開け放たれたドアへと視線を転じた。――それは、すでにわかっていた。それだからボンドは、「心配しなくとも」と付け加えて、ドアを閉めた。
「ご所望は?」
座り心地の悪い椅子に腰掛け、訊ねられた言葉にボンドは答える。
「実用的、それに限るな」
ひと言、それだけで十分だ。それ以外になにがある? 秒針の動く音すら聴こえない静寂のはざま、眼鏡の奥の瞳と視線が絡んだ。思い出したのは、あの日の一瞬だ。
呼吸を失いかけた彼女が無垢な瞳で彼を見上げる――。
それは酷く目映い、一瞬の閃光のようにも思えた。
