ありふれた人生を歩んできたように思う。両親はいなかったが叔母たちは優しく、血の繋がらない娘にそれはそれは愛情をそそいで育ててくれたものだ。
自分の人生において、疑うものは兎角なく、与えられるもののそのほとんどをすなおに受け容れてきた。
ユリア・ルーニスは不幸でも、不憫でもなく、ただその辺にいるような普通の女だっただろう。彼女自身それを疑うことなく生きてきた。……
さて、007が連れてきた女が居る、というのはMI6内で密かに話題になっていることだった。
「007は」
「モロッコに居るようです」
「あの男は、いつの間に」
Mの目の前にいるこの女こそ、そのユリア・ルーニスである。苦々しい顔をしたMに動じることなく、無表情でパソコンのキーボードを打ち続ける。カタカタ、静かに鳴り響く音と共に、緩やかに結い上げられた髪が揺れる。気だるげなまなざきは真っ直ぐ画面に向けられ、赤い点滅が動いていくのを捉えていた。
正直に言うと、あまり乗り気ではなかった。Mという女性の前で実際に仕事をさせられるというのは、これまでジメジメと湿っぽいラボラトリーで青白い光と闘うことの多かった身としてはかなり荷が重い。ましてや、自らの生み出したガジェットを追いかけるなど、ある種、処刑台に立たされている心地だ。だが、それを感じさせないようにデータを追っていく。
さて、ユリアの雇い主である男は現在モロッコにいるらしい。麻薬カルテルの重要参考人を追っているとのことだが、昨日はロンドンにその赤い点滅は宿っていたはずだった。ユリアは頭痛をおぼえながら、ひたすら詳しいコード解析を進めていく。
リクルートされてすぐ、開発させられた盗聴器と発信機を手渡すと、そのまま彼は任務に赴き姿を晦ました。Mはそれを見越していたのだろう、直接ユリアを呼び寄せたのだ。
MI6の“問題児”である007に首輪をかけたいに違いない。彼が行く先々で大きな事故が起こり、ニュースとなってロンドンに届くのだから――と、いうのを彼女は風の噂で耳にしていた――Mの心情を察するに、そう考えるのがもっともだろう。
べつに、構わないのだけれど、とユリアは心中言い聞かせるが、どうにも腑に落ちず靄を抱えたままだ。
彼がどんな仕事をしているか、彼女はまだ深く理解できていない。彼がそれを求めているかもあずかり知らぬところである。ましてや、一般人には理解することすら骨が折れるだろう。
雇い主には申し訳ない、と思いつつも、Mの申し出には逆らえず。元はと言えば007の上司と言えばこのMなのだし、仕方のないことだとユリアは勝手に結論づけた。
カタカタとキーボードが無機質な悲鳴をあげる。赤い点滅は次々と位置を変えていく。
「貴女の付けたチップは、どこまで彼を追える?」
「彼が外すか、爆発に巻き込まれて死なない限りは、どこまでも」
Mが息を洩らしたのは、気のせいか。前髪の下でひそかに眉を上げユリアは視線を画面へ戻す。
肌で感じる彼女の気迫から直接その表情をうかがうのは大層勇気が要る。Mはおそらくここで一番恐ろしい人間だ。
ダブル・オー・セブンは、自分がMに手綱を手渡したと判明したらどうするのだろう。その愚問は空虚に散る。結局、彼という人間を考えるには判断材料が乏しすぎる。闇雲に回路を繋いでもいいことはないとユリアは知っている。慈悲深い人間なのか残酷無人なのか、はたまた悲しく寂しい人間なのか――ユリアにとってはあらゆるファクターが未知であり、どのカテゴリーにも当てはめられない。悲しきかな、命の保証人であるため、唯一敵に回すことは勘弁したい、とだけ考えていた。
彼の為に働くこと、それがユリアの責務だ。
「007にはまたとない逸材ね」
「ありがとうございます」
――そうだとしたら。この後このチップは改良すべきだと、画面を見ながらユリアは小さく息を洩らした。
007が帰国したという情報がユリアの耳に飛び込んだのは、それから数日経ったあとのことである。そして実に最悪な方法で再会を果たした。
仕事を終えてフラットに帰宅したユリアを待ち受けたのは、がらんとしたリビング――ではなく、ホルスター姿の男だった。
「007」
辛うじて唇からこぼれた言葉は、ほぼ吐息に近かったか。
「中も確認せずに入るとは、無用心だな」
「自分のフラットほど安全なものはないって、今まで思ってきたものだから」
まさか、自分以外、大家しか鍵を持たぬこのフラットにだれかが忍びこんでいるなど、普通の人間ならば考えるはずもない。心臓が止まるかと思った、そう呻くユリアに、007はシニックにも片頬を歪めて肩を揺らす。
ジャストサイズのワイシャツに、黒のショルダーホルスター。肌に食い込むようにつけられたそれは、彼の肉体を見事に浮かび上がらせている。普段、ジャケット姿ばかり見ているからすこし違和感が否めないが、それでも垣間見えるラフさの中にあるものを見いだしてユリアは目眩をおぼえそうになる。踏み込んではいけない、と警鐘を鳴らす、そんな危うさだ。
さりげなく視線をはずし、ピアスをとってキャビネットへ。
「帰ったのね」
「つい先程ね」
「ウイスキーは?」
いただこうかな、とたゆたう低い声に、唸るようにユリアは「ソファに座ってて」と告げる。
ほぼロンドン中心部に位置する、2LDKのフラット。どうしてここを知っているのかは聞くまでもない。彼が用意し、彼の機械工にあてがったのだ。こうすることすら、想定の範囲内だったのだろう。
言葉に従い、彼がソファに座ったのを視界の端で確認すると、ユリアはカウンター型のキッチンへ立った。ウイスキーは一人ではあまり飲まないが、以前知人から貰ったものがあったはず。棚の上を開けると、すぐにスコッチウィスキーのボトルが見つかった。彼が飲むにはさぞ安い味だろう。さりげなく視線をリビングへ投げかけると、彼はじいっと此方を眺めていた。ソファに深く腰かけ、まるで彼女の動作をつぶさに記録でもするように。サッと視線を戻して、ユリアは冷蔵庫にしまっておいた白ワインを自分用に用意した。
ソファの前のローテーブルにグラスを置いてウィスキーをそそぐ。砕いた氷がカランと控えめに鳴り彼は目を細めた。よく子どもじみた傍若無人な振る舞いをするものだが、本当に子どものようだった。
彼と向かい合わせになるよう、カウンターのハイスツールに腰を預ける。
「ずいぶんと片付いているんだな」
視線だけをすばやく部屋中に向けて、彼は言った。
「もともと物は多くないの。ねえ、ホルスター、外したら?」
「嫌いか?」
「とっても似合っているけれど、お酒を飲むには少し窮屈そう」
本当は、落ち着かなかったからだ。たしかに窮屈に見えるが、そんなことを本心で気遣うのは馬鹿げている。007はすなおにその言葉を受け取り、ホルスターをゆっくりと外した。更にはネクタイをゆるめ、首を捻る。まさか実際にそうするとは思わず、ユリアはワインでくちびるを濡らす。
なにを話すわけでもなく、しばらくは互いにグラスを傾けていた。もとより、どちらも口数が多いほうではない。ユリア自身、自分がそう少ないとは思わないが、彼を相手にベラベラと喋る人間は命知らずだろうとどこか頭の片隅で考えている節があった。
やや金色に染まる薄明かりのただ中で、二人の男女が静かにグラスを傾ける。光が丸く、オーク材のテーブルに形を宿す。まるで今この瞬間の空気のようだと彼女は思った。そして、不思議だった。
嵐の前の静けさだろうか。果たして――……。
「勝手に貴方の跡を追ったわ」
とうとう、ユリアは打ち明けた。溜め息を吐きながら、どうにでもなれという心境だった。
「これでか」
だが、想像とはうらはらに、彼が取り出した小さな板に彼女はかすかに目を丸くした。
「知っていたのね」
「君はマイクロチップの使い手だからな」
ずるい。だが、その言葉は飲みくだす。それでも感情が顔に出たのか、007はウイスキーを飲むのを止めて口もとをゆるめた。
「ごめんなさい、ただ、試したかったの」
殺されるだろうか、と思ったのは正直なところだった。命の手綱を握るのは彼であり、彼のために生き、彼のために死ぬ。ユリア・ルーニスという女は、すでに一度死んだのだ。それを彼が繋ぎ止め息を吹き込んだ。
駒になれないなら、必要がない。必要がないならば切ればいい。それが筋というものだとユリアは理解していた。だが、007を直視できずに、手元のグラスを見つめる。ゆるやかな曲線に、鈍く光が宿る。その中で、影が動く。
影はユリアの元へ歩み寄ってくると、彼女の顎に指を添え、無理矢理顔を上げさせた。
青い瞳に囚われ、息を飲む。
逃げることは、もはや、不可能――。
「仕事熱心でなによりだが、まだまだ僕のほうが一枚上手だったな」
「どういうこと」
「Mが君を呼び出したろう」
ユリアはおもむろに目を瞬く。
「珍しく彼女が褒めていたよ」
「なるほど、すべて貴方の手の中ってことね」
「察しがいいと助かるね」
自棄になって、彼の手から逃れてワインを飲み干す。反対に、007はゆっくりとした動作でグラスをもうひとつとりだし、ワインをそそいだ。
「どこから?」
彼は綺麗に口を切り、それをあおる。
「君が必ず、余計なチップを埋め込むとわかっていたよ」
「最初から、ってわけね。それで、貴方はわざと追わせた」
「ああ。モロッコでのカーチェイスはやり過ぎだと怒られたが」
戯けるように肩を竦めた男に、ユリアは溜め息をつく。
まったくタチが悪い大人。否、大人たちというべきか。しかし、ユリアは自分の気持ちが不思議と高揚していることに気がついた。
「あのスピードだと、時々電波が飛ぶみたいなの。改良の余地があるわ」
「その情熱には舌を巻くよ」
「いつか、貴方の想像を超えて、その舌を根こそぎとってさしあげるわ」
007は満足そうに、安いワインを転がしてそれを味わった。
「弄ばれた感じは否めないけど、許してあげる」
「悪い男みたいな言い方は止してくれよ」
「悪い男じゃないの?」
「時としては正義の味方にもなる」
「無理して正義なんて使わなくていいのよ」
「そう言ってくれると助かるよ。虫酸が走っていたところだ」
彼の仕事のすべてをユリアは知らない。だが、それでいいと思った。ユリアは彼のことを知らないし、彼もユリアのことを知らない――はずなのだから。正義だろうが悪だろうが、それはどうでもいいこと。善悪の観念など、明日の天気よりも当てにならない。ただ、彼が彼女を自分のもとへ留めおく。それだけで、ユリアがMI6の問題児に忠誠を誓うには十分すぎるほどだった。
彼がどんな人間だかはわからない。だが、それでいいのだとユリアは目の前に立つ男の顔を気だるげなまなざしで眺めながら思った。自分の中の一般的で面白味のないカテゴリーに分ける必要などないのだ。
ほんとう、悪趣味。そんなふうにつぶやくと、彼は唇を歪めた。
「だが、これで正式に君を使う準備が整ったわけだ」
「貴方って、人は」
ユリアはとうとう目を回さずにはいられなかった。
