革命返し

 なぜ、と彼女は言う。
「ただの気紛れだ」
 彼は答える。
「もし、わたしがスパイだったら?」
 色の読めないヘーゼルの瞳で彼女は続ける。
「スパイにスパイを仕込むとは、面白い冗談だ」
 ああ、それは本当に、馬鹿げているとでも言ったらいいか。

「ねえ、わたし真面目に言っているのよ」そう喧しく繋いだ女に、ジェームズ・ボンドは眉を顰めてウィスキーを飲み干した。
 ユリア・ルーニス――先日の任務で彼が拾ってきた女であり、壊滅させた組織の人質の女。利用されていたとも知らず、そしてその事実を最後まで知ることなく捕らえられ、社内の地下牢に閉じ込められ、縛り付けられていた。それだけ聞けば、なんと哀れな女なのだろうと誰もが思うに違いない。
 任務は遂行、過怠は無論皆無。常であれば颯爽とカフスボタンを緩めながら次の現場へ向かうところだった。だが、ボンドは女の自由を奪う枷をワルサーで壊し、手を差し伸べた。
 まさかそんなことがあるわけないと、だれもが思っただろう。Mや参謀長の男はこぞって怪訝な顔を浮かべ、「彼女を僕のもとへ」と言ったボンドを拒絶した。それでも、彼は聞き分けなかった。
 そこに、特別な理由があったか、と問われれば、彼自身眉をひそめるしかなかっただろう。
 気紛れ――本当にそうだったかもしれない。あるいは情けか。だが、知らぬ女に情をかけるほど、彼にその性質があるとは彼自身思ってもいなかった。
 殺そうと思った女をただ生かしただけ。弾を無駄に使うのを、止しただけ。彼はそれ以上自分の感情の詮索を行うことはやめ、もう一杯ウィスキーを頼んだ。

 真昼のロンドンは湿っぽい。テムズ川の湿気を浴びてか本部のあるヴォクソールからやや内陸に位置するというのに、バーの中では褪せたクラシックジャズが流れていた。いかにも英国気質だとある人間はいうのだろう、物言わぬバーテンダーの前でスツールに半ば腰掛け頬杖を突きながら隣の女を見遣る。
 緩やかにウェーブのかかったミディアムロングの髪、白い肌、やや低いが筋の通った鼻、眠たげにも思える気だるい瞳。悪くはない。だが、至極そそられるわけでもなく、そこらへんに居そうな女だとボンドは思った。
 MI6にやってきてまだ日は浅い。ロンドンは久しぶりに来ると言っていたが、彼女の横顔だけを見ればロンドンじみた女だろう。厚く雲の覆う灰色の空。からりと晴れを背負う女ではない。
 自分が連れ出そうと思ったあの瞬間、彼女は自分を見上げていた。生も死も感じさせず、ただそこに残った艶やかな残滓。――あれは、なんだったのだろうか。
 ボンドはグラスの中の氷をカランと鳴らしながら重くまぶたの落ちる瞳を密かにのぞく。
「貴方って、お人好し?」
 さも、そうは思っていない音色だ。
「諜報員にお人好しとは、笑えるな」
 ボンドもまったくもって笑っていない口ぶりで答える。
「気にくわない人」
「結構だよ」
 今度こそ、眉を顰める彼女をボンドは鼻で笑った。
 先日壊滅させた組織は、相当の技術を隠していたという。確かに、使用していた機械や武器の中には、これまで見たことのない類のものもあっただろう。それらを開発していた女――知らないうちに開発していたというが、それはそれで哀れな運命だ――が、こんな小娘とは。
 小娘と言ったら、怒られるかもしれない。歳は二十代後半、十分、妙齢の女性だ。
「ユリア・ルーニス、米国カリフォルニアのある大学院を卒業後、件の会社に技術職として入社。入社後、頭の回転の速さから、技術開発課に配属されその力を発揮。主な開発品にはGPS付マイクロチップ搭載の超小型発信機など」
「貴方、調べたの、それ?」
「さあね」
 シラを切るように肩を竦めれば、ユリアは苛立ったような顔付きをした。アンニュイなまなざしの中に新たな表情が生まれて、ボンドは眉を上げる。
「僕のところで働くのなら、君の命は保証してやる」
 住む場所も、職も与える。ぽっと出て現れた女に対しては異例の待遇だ。Mはたいそう苦い顔をしていたが、最終的には「貴方の好きにしなさい」と匙を投げた。それを思い出して、彼は口端をつり上げた。
 彼が好き勝手やるのは、今に始まったことではない。MI6を脅威に陥れる存在は排除せよ、それがMの言い渡した指令だったが、彼はそれを反故したわけではない。
 あんな女――と、Mに突かれるたびボンドは嘲笑する。あんな小娘が破壊できる組織ならとっくに破壊されている。
 可笑しな話だ。裏切る可能性も捨てたわけではない。だが、そうなったときはこの女を殺せばいいだけだと言い訳がましく言葉を並べている自分がいた。利用できるものは利用する、それだけのことだ、と。必死すぎて笑えてくる。
 ただ、あれだけの仕打ちを受けて尚、こうしてボンドを前に落ち着いて話をできるあたり、彼女は適応能力にも長けているようだ。存外、いい拾い物をしたのかもしれない――気分が軽くなる。
「別に、監視しようとも思わない。君の生活を送ればいい」
 クーデターでも起こしたら? と、彼女は言う。
「君の命は僕が握っている。死にたくなければ変な気は起こさないことだな」
 ボンドは味のしない酒を舐めて答えた。

「死にたかったら?」

 告げられた言葉に、ボンドは目を細めた。
「死にたいのか?」
 ユリアは返事をしなかった。息を飲む音だけが聞こえて、気怠げな瞳が真っ直ぐに男を捉えていた。鈍い照明、耳障りな音色、かすかな空気の滞留に舞う埃。ボンドはすべて逃がしまいとただ見つめかえす。
 小さく唇を噛んだあと、ユリアはかぶりを振った。それが少しばかり無邪気な子どものように見えて、ようやくボンドは口元を緩めた。
「必要な物があれば僕に言えばいい。君の部屋にあったものは全て、職員の手で新しい新居に運ばせておいた。仕事は来週から、来れるね」
 やけに、軽やかなトーンだったかもしれない。空になったグラスをカウンターにやや滑らせ、ジャケットの内側に手を差し込む。
「なにをすればいいの」
「以前の仕事とほぼ変わらない。君の得意なものを作ればいいだけだ」
「――だれのために?」
 彼女の瞳が揺れていた。ボンドはそれに気が付いて、じっと彼女を見つめると、ゆっくり息を吸い込んだ。

「僕のために」

 ユリアは少しだけ安堵したように、分かった、と頷いた。
 ウィスキーでも飲むか、とボンドが勧めると、彼女は首を振った。そして、新居へ帰ると言った。

「……本当は、感謝してるのよ」
 去り際に小さく聞こえたのは、ありがとう、という弱々しい音色だった。
 ドアの向こうに消えていった彼女を思って、ボンドは飲む予定のなかったマティーニを頼み口をつけた。