「ボンベロ、眉間にしわが寄ってる」
銀色のフォークでスパゲティをくるくる、と器用に巻き上げながら女が言った。
少し埃っぽい店内、客は彼女とその目の前に座る男だけ。名前を呼ばれたその男は、サイドに垂らした長い前髪の下で瞼を閉じると、手にしたナイフを静かに置いた。
「……肉が台無しだ」
ため息をつきながら、彼は白いナプキンで口を拭う。いかにもうんざりした物言いをよそに、どこか洗練された仕草だった。
「あら、ステーキにもハズレってあるのね」
「調理のシンプルなものこそ奥が深い。肉はさほど悪くないが、焼き方がおざなりなのが目に見えてわかる」
あっけらかんとした女の言葉に続けて、忌々しげに小さく唸ると、グラスのワインをひと口含んで男は目を開いた。スッと通った鼻筋が印象的な、端正な顔立ち。黒い瞳は黒曜石のように真っ黒で、その瞳の奥は計り知ることができない。そのせいでいささか表情が硬く見える上に、眉間にはしわが刻まれている。が、指摘されて意識したのか、先ほどよりかは多少緩められているようだった。
「さすが、同業者は鋭い。イギリスのご飯はまずいってよく聞くけど、そのとおりだったわね」
ちょこん、と肩をすくめてスパゲティを頬張った女に、ボンベロはちらりと視線を向ける。
「元、だがな。それと、国のせいにするな。イギリスにもそれなりに旨い飯はある」
「そお? けさももそもそのさんどいっちだったわ」
「……ジュリア、飲み込んでからしゃべれ」
ジュリア、そう呼ばれた女は、添えられた手の下でもそもそと伸びたスパゲティをなんとか咀嚼すると、ごくん、と飲み込んで、ごめん、と謝った。
二人がいるのは、イギリスの首都、ロンドン。そのロンドンの中心部からは少し離れた郊外、さらには通りから一本も二本も側道を入った場所にある小さな食堂だ。
真っ昼間だというのに店内は薄暗く、店主はカウンターにどっぷり座って国言葉で言うフットボールを楽しんでいる。いくら閑古鳥が鳴いても、応援しているチームがゴールを決める笛が鳴れば、それで人生万事よしといった調子である。
それをいいことに二人は日本語で辛辣な会話を繰り広げていたわけだが、店の味を冷静に酷評しつつも、ガイドブックに載っている高級店に行けばよかった、という言葉は二人の口にはのぼらない。こんな店に二人の日本人がやってきたことにもさして興味がなく、彼らがいくら日本語で余計なことを言おうが、ボールを追いかけるのに夢中な主人のいるこのダイナーをかえって好都合に感じているようだった。
「それで、次はどこへ向かうの」
丁寧にナプキンで唇を拭いながらジュリアが訊ねた。
ボンベロは彼女にちらりと一瞥を送ると、テーブルの隅に置かれた赤ワインのボトルを手にした。
「ドーヴァー海峡を渡ってフランスに入るのが妥当だろう」
言いながら、彼女のグラスにワインを注ぐ仕草は、さすが〝元〟同業者というところか。ラベルをきちんと上に向け、赤いしずくが滴る音すら立てない。
「やった、今度は美食の国ね」
ジュリアはそれを眺めて、うれしそうに微笑む。
「色気より食い気だな、お前は」
手首をきゅ、と捻って注ぎ口を切りながら、ボンベロは苦言を漏らす。だが、ジュリアがグラスに唇を寄せ、ふふふ、と花を咲かせるのを目の当たりにすると、自分のグラスにワインを注ぎ足しては同じように口をつけた。
この会話を聞く限り、彼ら二人は郊外に迷い込んだ、ただの観光客に見えなくもない。ところが、実際にはそうであって、そうではないのだ。
××月××日、ニホン
激しい爆発ののち、暗転――目が覚めると、ボンベロはそこが天国なのではないかと思った。一面、白に包まれた世界で、自分一人が立ち尽くしている。どろどろのはずのコックコートも、力のうまく入らない体も、腕の中の温もりも、なにひとつ、そこにはない。
だが、
「驚いたな、まさかお前に迎えにきてもらうことになるとは」
目の前には、全身黒に身を包んだ男の姿があった。長い髪の間から欠けた耳が覗き、顔中にケロイドとなった傷痕が無数に散らばっている。初めて見るのであれば、その奇妙さに驚いたであろう。が、ボンベロはすでに飽きるほどその顔を目にしていた。
「まさか」ボンベロの言葉に、男は肩をすくめた。
「迎えなんていらないタチだろ、ボンは」
「まあな。そのまま奈落に真っ逆さまがお似合いってところだろう」
ハン、と鼻で笑うと、男は、そうこなくちゃな、と声のトーンを微かに上げた。いつも穏やかな男の声が色付いたことに、ボンベロはいささか不思議な心地に陥った。
激しい死闘を繰り広げたあとのこと、たしかに自分は自らの仕掛けた爆発に巻き込まれたはずだった。腕に彼女を抱いたまま、敵が攻撃を仕掛けてくる直前に爆弾のピンを抜いたのだ。熱風と、衝撃と、腕の中の温もりをはっきりと覚えている。
それなのに、
「……で、なんの用だ、スキン」
これは、夢なのだろうか、現実なのだろうか、頭の隅で考えながらボンベロは男の名を口にした。
「敵わないね、ボンには」
数日前、愛する者の手によってすべての憂いから解放されたはずの男が、立っているのだ。この不可思議な場所こそが、冥府への入り口なのかもしれない。
冥府へ引きずり込むなら早く連れて行け、そう憎まれ口を叩こうとしたところで、ボンベロは出かかった言葉を飲み込むこととなった。
「君に、頼みがあるんだ」
「頼み?」不意に真面目な色を帯びた声に、眉をひそめる。
「ああ。君にしか、頼めない」
長い前髪の下で、男の弛んでいた瞳がスッと引きしめられていた。
「……高くつくぞ」
きっとこれがあのダイナーでのやり取りならば、葉巻を取り出して火をつけたところだろう。手と口の侘しさには気づかないふりをして、ボンベロは返す。
「本当、相変わらずだ、君は」
「こんなところにわざわざ人を呼び出すなんざ、ろくなことはないからな」
さっさと用件を言え、とにべもないボンベロに、スキンはふっと傷だらけの口元を頬に向けて引いた。
白い世界に目を焼かれそうになりながら、まっすぐに男を見据える。黒々と浮かび上がる男の姿は、闇を象徴する色合いのはずなのに、どこか、浄化され神秘的なヴェールかなにかを纏っているようだった。ボンベロはゆっくりとまばたきをした。
「ボンベロ」やがて、スキンの唇が開かれた。
「彼女を頼んだ」
悲しみと、慈しみをとっぷりと浮かばせたその声が、まなざしが、ボンベロの鼓動を揺さぶる。
今目の前の男は、なんと言っただろうか。彼女を頼む、そう、言わなかったか?
ボンベロは奥歯をギリッと噛みしめた。同時に、腹の中でどす黒いなにかが渦巻いていくのがわかった。なぜだかはわからない。奴が彼女を置いていったからだろうか、はたまた、自分がお願いされる側だからだろうか。
脳裏にちらついたのは、彼女の背中だ。小刻みに震え、今にも消えてしまいそうな、小さく丸まった背中。
「それを言うためにわざわざ化けて出たのか」
ボンベロは苛立ちを押し込め、揶揄に変える。
「どうやらあの世はよほど暇のようだな」
「どうだろうな。けど、悪くはないところだよ」
濡れ手で粟を掴むような調子でやれやれと肩をすくめる男に、ボンベロは苦味を口内で転がす。
「……で、言いたいことは、それだけか」
紫煙を吐き出す要領で息をついて、鋭い眼光を男に向ける。
なにが頼む、だ。以前なら、頼むくらいならお前が自分でなんとかしろ、と突っぱねていたことだろう。だが、今は違う。頼まれなくとも、もとからそのつもりだった。
低く、挑むよう唸った彼に、スキンはくくっと喉を鳴らした。
「ボンがいれば安心だ」
「言っておくが、返せと言われても、返してやらんぞ」
スキンはいささか戯けるように困り顔をしたが、ボンベロは微塵も表情を動かさなかった。それを受けて、スキンは顔を元に戻した。
「よろしくな、ボンベロ」
念を押す男にボンベロは頷くと、お前はしばらく休め、と微かに丸みを帯びた声で告げた。スキンの引き攣った頬がそっと緩んだ。
時が満ちたのか、彼の影が薄らいでいく。同時に強い光が放たれ、眩しさに瞳を閉じる――。
そして、世界はまた一転した。
「ボン……」
目を覚ますと、すぐそばでなにかがみじろぎをした。薄暗い世界。先ほどとは正反対だ。失われていた感覚がじわじわと戻り、ボンベロはハッと腕に力を入れた。
「っ……」
体中を激痛が突き抜ける。痛いなんてものじゃない。気を抜けば意識を持っていかれそうなほどである。顔を歪めながらも、うまく力の入らぬ腕で温もりをまさぐる。腕の中に、たしかに彼女の体があった。
「ジュリア」
どこからか射し込むひとすじの光に、彼女の薄っすらと開いた目元が映し出される。安堵からその名を呼ぶと、濡れた睫毛が生まれたての雛鳥のように羽ばたき、やがて黒い瞳が彼を捉えた。
「ボンベロ……?」
胸元に預けられた唇から漏れたのは弱々しい声。光に消えてしまいそうな、鈴の音のようだった。
「そうだ、俺だ」
ボンベロは痛みも忘れて、彼女の体を確かめるように手でなぞる。とく、とく、と互いの鼓動が共鳴し、たしかに血が通っているのを感じ取る。もう、終いだと思っていたのに。そのたしかな生命の活動に、整った唇のほとりに笑みが浮かび上がった。
「ボンベロ……」
彼女は彼の名を紡ぐ。微かな声で、彼の鼓動を強く揺さぶる。力なく睫毛を揺らし、その身を委ねてくる彼女をボンベロはただしばらく抱きしめた。
やがて視界が暗闇に慣れ、瓦礫だらけのダイナーが目に飛び込んでくると、そこには無惨な光景が広がっていた。
「ひどいもんだ」
見事に咲き誇っていた花々は見る影もなく、長年かけて揃えた調度品も、芸術品も、自分の城のなにもかもが崩れ去っている。まさに、あるひとつの時代との決別を迎えたという姿だった。火薬と、それからさまざまなものが焦げついた匂いが辺りに満ちている。鈍った感覚を研ぎ澄ましては、あの爆発がどれほどのものだったかを突きつけてくる。
「鼻が、おかしくなりそう」
「鼻だけで済むのなら、まだマシだな」
果たして、この匂いは混沌の終わりを告げるものか、それとも――。
腕の中の温もりだけは離しはしまいと抱きしめて、ボンベロは世界を見据える。
かたん、かたん、としずくが滴る音。それから、シュウ、となにかから煙が上がる音。やわく注ぐ光は、シャンパンの泡のようにほのかに煌めき、瓦礫の中、取り残された二人を照らしている。
「俺たちは、どうやらまだ死ねないみたいだ」
幸か不幸か、強く波打つ鼓動に身を委ねる。不思議と、それが心地好い。
「そうみたい、ね」彼女も、全てを委ねるようにそう口にした。
ボンベロはこの先がどうなるか、今だけは考えるのを止すことにした。ただ、今は、彼女を感じていよう。このなにもかもが崩れ去った世界で、ずっとずっと彼が心の底で欲していた、かけがえのない存在を。
小さな頭をぐっと胸に押しつけると、ボンベロは乱れた髪の上から彼女の額へそうっと口づけを落とした。
組織が警察の介入を受けることとなり、事実上の壊滅の運びとなったのは、それからすぐのことであった。
そして、ボンベロとジュリアが、姿を晦ますかのごとく日本を発つのも――。
薄く埃が煌めく店内、テレビから聞こえてくる熱を持った実況も今はどこか遠くに聞こえる。天井に吊るされた鈍い照明、それに照らされる二人の男女だけを切り取ってみれば、田舎の小さな食堂も、特別なランチを提供する三ツ星レストランに見えなくもない。
ボンベロは少々軽すぎるワインを舌で転がしたあと、目の前の女をじっと見つめた。
「どうしたの? ボン」
送られる熱視線に、ジュリアは長い睫毛をゆるりと揺らして、小首を傾げた。
「……いや」
「なによ、気になるじゃない」
ワインを飲んだ唇をはむ、と隠して、ジュリアは釈然としない顔をしている。
あからさまに見過ぎたか。先ほどまでの自分を思い起こして、ボンベロはひとつ息を吐いた。
「ただ、悪くない、と思っただけだ」
「なにが?」
ちらりと彼女の纏ったワンピースに目を向ける。自分のシャツと揃いの純白のワンピース。何色にも染まっていない、やさしくも眩しい――。
「その色だ」
肌に溶け込むその色の上でゆるり髪の毛が踊るのを、長く垂らした前髪の下からやさしくひと撫でして、ナイフとフォークに手を伸ばす。
「色?」
きょとん、とする彼女をよそに、彼はなにも口にせず、肉の塊に優雅な仕草でナイフを入れた。
しばらく、ぱちりぱちりとまばたきを繰り返すジュリアだったが、やがて彼の言わんとしていたことを理解すると、ふふっと笑ってグラスに口をつけたのだった。
