SHE IS “EVA”

 彼女との再会は、すぐにやってきた。だが、二度目に見た彼女はまるきり別人のようだった。
「客だ」
 ボンベロに言われて、ドアの前に重たい足を向ける。子どものような殺し屋だとかなんだとかいろいろなことがあって、正直頭の中がフォークでぐちゃぐちゃにかき乱されたみたいだったが、まさか、仕事を休ませてくれるはずもなく。カラカラな口の中をどうにか唾液で潤して、ごくりとそれを飲み下す。と、ドアが開いた。
「ボン、いつもの」
 ようこそダイナーへ、そう言う前に、カウンターへ向けて声が飛ばされた。ダイナーの扉が開かれた瞬間に頭を下げていたわたしは、その声にゆっくりと顔を上げた。
 本革の編み上げブーツ、深緑のワンピース、茶味がかった黒髪が肩元で揺れる。あの人だ。だが、先日妙な既視感と親近感を抱いた顔は、どこにもなかった。
 真っ黒いアイラインが目元に色濃く引かれている。唇には、白い肌に不釣り合いすぎるほどの真っ赤なルージュ。濃い化粧とはうらはらに、陰影が強く打ち出されたその顔には、どこか草臥れている様子を滲ませていた。
「ボランジェはまだある?」
 木偶デクの坊みたく立ち尽くしていたわたしに、彼女は言った。低く、掠れた声、女のわたしでもハッとするような色っぽい声だ。
「あると、思います」
 なんとか声を絞り出すと、
「じゃあ、それをお願い」
 と、彼女は赤いルージュで弧を描いて、カウンターへ向かっていく。スキンやキッドのように、それぞれの個室へと向かうことなく。もしかしたら、彼女にはないのかもしれないけれど。
 こつ、こつ、とヒールを鳴らして歩く背中を見つめていると、不意に彼女がふり返った。
「そういえば、あなた、名前は?」
 まさかの問いに、わたしは、あっ、と小さく声を上げていた。
「あ?」彼女は首をこてん、と傾げる。
「いえ、あの……オオバ、カナコです」
 いつもの癖で、やけに声が窄んでしまった。途端に居た堪れない心地になって視線を落とす。いくじなし、とメニューを持ったままの手をもじもじと動かしていると、そう、カナコね、とまあるい声が飛んできた。わたしは視線を上げた。
「カナコ、急いで、喉が渇いたの」
 彼女はわたしの心の中なんてどうでもいいように、濃いアイラインの下で目元をゆるりとたゆませている。
「は、はい……」
 ごくり、唾を飲み込んで頭を下げる。次に顔を上げたときには、もうすでに背を向けてスツールにぴょん、と飛び乗っていた。
 たしかに、彼女は彼女だった。だが、メイクだけでこうも別人になるものなのか、とわたしは倉庫へ向かいながら、ぼんやりと考えていた。

「エヴァ、何度言ったらわかる」
 ホールへ戻ると、ボンベロの呆れと怒りの混じった低い声が聞こえた。
「お前に、あれは不可能だ」
「教えなくてもいいの。ただ見るだけ、ねえいいでしょう?」
「気が散る」
 カウンターでやり取りを交わす姿はごく自然だった。兄妹のようにも、はたまた親子にも見えなくもない。こんな場所で、こんな呑気なことを思うなんてどうかしているけど。
 エヴァ――それがボンベロの呼んだ彼女の名前だった。たしか、「アダムとイヴ」のイヴからきている名前だった気がする。
 エヴァ、小さく口の中で転がしていると、「カナコ」と鈴が鳴るような声で呼ばれた。
「はい……」
「ねえ、あなた、スフレの作り方知ってる?」
 早くシャンパンを注げ、と叱責されると思い身構えたわたしは、すばやく目を瞬かせた。
「スフレ……?」
「そう、スフレ、ふわふわのケーキみたいでケーキじゃない、デザート」
 彼女の説明の仕方にボンベロは不満ありげな顔をしていた。お前はスフレを侮辱しているのかとでも言いたげな顔。ちらりと見てしまったことを後悔して、慌ててエヴァの濃い顔立ちに視線を戻した。
「スキンの、スフレ……ですか」
 恐る恐る口にすると、彼女はにんまりと笑って、そうそれ、とうれしそうに答えた。
 この間からなにかを訊ねていたのは、これだったのだろうか。でも、マドレーヌではなくて、どうしてスフレなのだろう。
 ボンベロの作るスキンのスフレのレシピはわからない。普通のスフレならなんとなくわかるけれど、果たしてそれでもいいのだろうか、それとも――。
「さっさと酒を注げ。もう焼き上がる」
 どう答えたらいいか口を半開きにして迷うわたしに、ボンベロはにべもなく言い放った。慌てて、はい、とボトルを両手で抱えた。
 エヴァはむっつりと不満そうな顔だったが、傷ひとつないグラスに金色の海が広がると、途端にうれしそうに手を伸ばした。

 それからほどなく、エヴァが美味しそうにマドレーヌを食べていると、ベルが鳴った。ボンベロが、「客だ」といつものようにわたしに告げるが、モニターを見た途端、調理場からエヴァへと視線を寄越した。
 エヴァはマドレーヌに夢中で気づいていない。よほど疲れているのだろう、先ほどまではそれほど疲労困憊した様子を見せてはいなかったが、人間食べ物を食べているときは素直になってしまうらしい。ここへやってきたときの一瞬の鋭さが嘘みたいだった。
 それとなくボンベロの視線の意味を探ってみる。だが、目を離した隙に彼の視線も元どおりになっていたので、結局わたしにはさっぱりわからなかった。また厄介な客なのだろうか、それくらいしか。
 ぎゅっと唇を噛みしめて、入り口の前で待ち構える。カシャン、カシャン、カシャン、とゆっくり錠を解く音が響いて、いよいよ扉が開いた。
「やあ、カナコ」
 やってきたのはスキンだった。とんでもない客がくると緊張していたわたしは、拍子抜けしてつい挨拶を忘れてしまった。カナコ? とスキンのゆったりとしたやさしい声が響いて、意識を取り戻す。
「あ……ようこそダイナーへ。すぐにご案内します」
「スキン!」
 ボンベロに習ったように、スキンを個室に案内しようとしたところで、後ろから声が飛んできた。同時に、ガタン、と大きな音が鳴った。
「……エヴァ」
 エヴァがスツールから飛び降りたのだ。とてもすごい勢いだったのだろう、重みを失ったスツールは無残にも床に転がっている。唖然としているうちに、エヴァはこちらへやってきた。ほとんど、小走りに近い歩き方だった。
「スキン、会いたかった!」
 ふわっと風を孕んだカーテンのように、目の前でグリーンのドレスが揺れた。エヴァがスキンの胸に飛び込んだのだ。
「毎日、あなたのことを夢見るくらいなの。会えてよかった」
 難なく受け止めてくれた彼の胸に頬をくっつけながら、うっとりと、子猫の鳴き声みたいに甘い声を出して、エヴァはスキンを見上げている。その顔は、なんだか昔よく見たようないわゆる女の子の顔で、わたしは彼女がどうしてもスキンのスフレのレシピを知りたがった理由がここでわかった。
「……エヴァ、ここは君の来るところじゃない」
 が、スキンは背中に回ったエヴァの腕を解くと、かぶっていた帽子のつばをきゅっと下げて彼女の横をすり抜けた。そのときのエヴァの顔は、ひどく悲しそうだった。見ているこっちがそわそわしてしまうほど。スキンは見向きもしなかった。
「ボン、話がある」
「待ってよ、スキン」
 店主の元へと向かった彼をエヴァは引きとめる。ふり返る瞬間の髪の揺れから、張り詰めた声、震える瞳、なにからなにまで、まるでメロドラマを見ているみたい。
「なぜ、私はここに来てはいけないの?」
 エヴァはスキンの背中に問いかける。
「君は、まだ戻れる」
 カウンターに置かれた赤い林檎を掴んで、スキンは言った。
「戻れるって、どこに」
「どこにでも、だよ。今すぐにここを出ていったほうがいい」
 あまりに酷い言い方だと思った。あのやさしいスキンが、ここまで言うなんて。もちろん、小さい子を諭すようなとてもやさしい声なのだけれど、その言葉は、彼に想いを募らせているだろうエヴァには厳しすぎる。
「私、後悔しないわ」
 エヴァはじいっと想いびとの背中を見つめていた。濃いアイラインが彼女をまるでおとぎ話に出てくる魔女のように見せるけれど、その下で彼女が泣いているように見えてならなかった。
 ズボンのポケットに入ったままの飴玉の存在を思い出して、途端に気になって仕方がなくなる。わたしじゃなくて、エヴァにあげるべきだったんじゃないかって。
「今に、後悔するようになる」
 スキンは手にした林檎を戻し、淡々と告げた。エヴァはなにも言わなかった。
「向こうで待っていろ」
 一連の流れを静観していたボンベロが空気を読まず言い放つと、スキンは視線だけで返事を返し、くるりとわたしに向けて体を反転させた。
「カナコ、案内してくれる?」
 本当に、殺されるんじゃないか、そう思った。今もまだエヴァはスキンを見つめていて、わたしはただ後ろで突っ立っている、しがないウェイトレス。
 どうしていいかわからずに視線をエヴァに向けると、不意にボンベロがこちらを見た気がした。正確には、エヴァを・・・・。だが、すぐに視線は手元に移っていた。
「案内しろ」ボンベロはわたしに命令する。
「でも……」
「お前に口答えする権利はない」
 わたしはもうエヴァのことも、スキンのことも、まともに見ることができなくなっていた。視線を落として、ボンベロの命令にこうべを垂れる。まるで地球一個分の重みが加わったみたいだった。心なしか、胃もずっしりと重たい。それでもボンベロの命令は絶対だ。
 なんとか力を振り絞って、こちらです、とスキンを通路へ案内しようと扉に手を伸ばす。
「出ていけば、いいんでしょう」
 震える声が静かに響いて、わたしは咄嗟に手を引っ込めた。
 恐る恐るエヴァを盗み見る。もう、ほとんど泣いているように見えた。誰もが一度は憧れる真紅の唇が、噛みしめられていびつな形になり、薄っすらとした膜の中で、アーモンド型の瞳がゆらゆらと揺らいでいる。その顔は、十代の女の子と言ってもおかしくない。
 スキンはそれでもエヴァを見なかった。どこか遠くを見つめ、指先をゆっくりと擦り合わせているようだった。
 張り詰めた空気の中、先に動き出したのはエヴァだった。大きく髪を揺らしながら、ダイナーの出口に向かって歩いていく。ふわり、彼女の香りが掠め、静かに、すぐそばをすり抜けていく。喉がカラカラだ。うまく呼吸ができない。
「行こう」スキンはわたしに言った。
 いつのまにか震えだした指が言うことを聞かない。それでも、働かなきゃ、と自分に鞭を打つ。いびつな音を立てながら、なんとか鍵を押し上げ、わたしは扉を開けた。
 スキンとともにひやりとした廊下に出る。と、
「エヴァ」
 ボンベロの声が背中に届いた。
「すべて食ってから行け」
 返事はなかったが、エヴァが仏頂面のボンベロの前に静かに戻る姿は、なんとなく想像することができた。