はじめてその人を見たとき、わたしはここが殺し屋専用の食堂だということを瞬間的に忘れていた。
「ボンベロ、お願い」
スキンという不思議な雰囲気を持つ殺し屋が去り、店中の掃除を終えたわたしがホールに戻ってくると、そんな声が聞こえてきた。薄暗くて、変に目がチカチカするようなダイナーの店内。少し前までいた客たちのせいでごちゃごちゃになっていた壁や装飾は、この城の主人であるボンベロによってどうにか見られるところまで片付けられたようである。
恐る恐る目を動かすと、カウンターに立つボンベロの前に一人の女の人が座っていた。背の高いスツールに、ちょん、と乗っかってグリーンのワンピースの裾から編み上げブーツを履いた脚をぶらりと放り出している。仏頂面の王様にもまったく物怖じしない態度だ。
「断る」
にべもない店主の言葉に、彼女はすかさず不満げな声を上げた。
「どうして?」
「どうしてもこうしてもない」
「私、口は堅いもの、誰にも教えたりしないわ」
「これ以上にないとっておきの殺し方を、簡単に言い回る殺し屋(バカ)がいると思うか?」
ボンベロは手元から一切視線をずらさずに言い放つ。
揶揄を込めた言い回しに、聞いているこっちがぞわりとする。だが、彼女はカウンターに肘をついて、ゆるりと巻かれた髪をひと房指に絡ませると、「いないわね」とあっけらかんと答えた。
「そういうことだ」
「いけず」
女の人が、髪をぽいっと興味なさげに放り出して頬杖をついたところで、ボンベロはやっと視線を上げた。
「食うのか、食わないのか」
「食べますぅ、いつものやつちょうだい」
ボンベロの不躾な視線にやれやれと肩をすくめると、彼女はぐるりと椅子を回した。
ぼうっと二人のやり取りを眺めていたわたしは、そこで彼女の顔を目の当たりにした。どこかとろんとした瞳、まばたきのたびに揺れる睫毛、薄っすらと紅の差した頬、ぷっくりと熟れた苺のような唇。
「おい、なに突っ立っている」
ボンベロに声をかけられるまで、わたしはしばらく彼女の顔の造形に思考を奪われていた。特別美人だとか、かわいいだとか、そんなのではない。ただただ――
「おい!」
思考を打ち砕いたボンベロの声にわたしはびくりと肩を揺らして、はい、と仕事に戻った。
客が来たら、もてなさなければならない。ようこそダイナーへ、とお辞儀をして、メニューを渡す。それから注文をとって……。考えながら粗相のないように慎重にメニューを差し出すと、「飲み物は、ボランジェを」とメニューを受け取りながら彼女はゆるりと笑みを浮かべた。
そう、どこにでもいるような彼女もまた、このダイナーの客。
つまりは、殺し屋なのだ。
ボランジェという名の酒を倉庫へ取りにいって戻ると、ダイナーには甘い匂いが広がっていた。スキンのスフレのときとは少し違う、香ばしさのある匂い。そう、多分バターと卵が使われている。
高級そうな瓶の栓を抜いて、細身のグラスにお酒を注ぐ。ほのかに金色がかった液体がとぷとぷと瓶の口から滑り落ちて、グラスの中で小さな気泡が踊りだした。どうやらこのお酒はシャンパンらしい。ウイスキーとは違って、香りがきつくないから顔をしかめなくてもいい。
「どうぞ」
グラスを差し出すと、女の人は唇をそっと弓なりに引いて、「ありがとう」と白い指先でシャンパンを受け取った。
ボンベロはというと、真っ白な丸いお皿を用意して、フルーツスタンドからいくつかフルーツを手に取って、丁寧な手つきでそこへ並べている。なにか、デザートプレートでも作っているのだろうか。どんどん、甘く香ばしい香りが強くなっていく。
「いいにおい」
シャンパンに口をつけながら、彼女はうっとりと目を瞑っている。わたしはボンベロにばれないように、すん、と強く息を吸い込んだ。あれ、もしかして。
「マドレーヌ……?」
そうだ、この匂い――家から駅に行く間にケーキ屋さんがあって、そこで、よくこの匂いを嗅いでいた気がする。使い古されたオーブンの香りに、バターと卵の香りが乗っかった、独特のもの。
思わず口にしていたことに気がついて、ハッと口を覆う。と、彼女は薄っすら瞳を開いた。
「そう、マドレーヌ。ボンベロはね、お菓子作りも上手なのよ」
ふふっと花が綻んで、グリーンのワンピースの裾から伸びた足がぱたりぱたりと揺れる。
褒め言葉を貰っても、相変わらずボンベロはただ一瞥を寄越しただけで、寡黙に作業を続けていた。チン、と、このダイナーに似つかわしくない軽やかな音がすると、調理場のオーブンを開け、白いタオルを使って天板ごと中からマドレーヌを取り出す。いっそう香りが鼻を掠めて、ぎゅう、とお腹に刺さる。
はあ、とも、そうですか、ともなにも言えずに立ち尽くしていたわたしに、彼女は手を打った。
「そうだ、あなたも食べてみたら。女の子はお菓子が好きだもの。ボンのマドレーヌを食べておいて損はないわ」
ふと、どこかその物言いがスキンと似ている気がした。
彼女は、なおも周囲に花をちりばめながら、そうしましょう、とひとりでに頷いている。わたしは彼女のペースにほとんど飲み込まれていたが、すんでのところでここがどこだかを思い出すと、本当にそうしていいものかと、ポケットに入れたままのスキンの飴を手でそっと押さえながら、慌ててカウンターの向こうに戻ってきたボンベロに視線を向けた。だが、彼はまたしても、ただ呆れと侮蔑を入り混ぜた不躾な視線を寄越すだけだった。
「ボン、このお皿もらうわね」
彼女はカウンターに身を乗り出して、重ねられていた小さめの皿をひょいっと手に取る。そんなことしたら、と不安になってボンベロを見遣るも、彼はなにも言わない。もう、なにがなんだかわからない。
うきうき、と弾んだ様子の彼女に、隣のスツールを差し出される。でも、と遠慮を見せると、「食うならさっさと席につけ」と唸るような声が前から飛んできた。
慌ててスツールに座ったわたしの前に、差し出される白い小皿。彼女の前に置かれた、大きな丸皿。真ん中には貝の形をかたどった、きつね色のマドレーヌがひとつ、ふたつ、みっつ。その周りには色とりどりのフルーツ。キウイに、オレンジに、ブルーベリーや苺。
彼女はうれしそうに目を細めて、美味しそう、と赤いナプキンを手にする。わたしは、自分の目の前に銀色のナイフとフォークを使って器用にマドレーヌやフルーツが取りわけられるのを、ただただ眺めていた。
そのときに食べたマドレーヌの味は、正直よくわからなかった。だって、食べたら殺されるかもしれない、とか、またなにかよからぬことが起きるのかもしれない、とか、そんなことばかり考えていたから。けれど、のちにわたしは、マドレーヌを食べると、このときのことばかり思い出すようになった。
