長いこと、この男をそばで見てきたように思う。友として、時として兄や弟のように。だが、これほどやわらかい表情をする男だったかと、ミクリは目の前でカプチーノを口にしたダイゴを眺めていた。
もとより物腰の柔らかな男である。相手がだれであれ礼節を尊び、生まれ育った環境で身につけた品のいい振る舞いをするのは、彼を知る人間なら問わず知っていることだが、はて、ここまで憑き物のとれた、あるいは肩の荷の下りた顔をするのは初めてだった。
「急に呼び出してすまないね」
そう切り出したダイゴに、ミクリは構わないよと笑みを返す。
「最近は、以前にも増して忙しそうじゃないか。つい先日ガラルへ長期出張に出ていると思ったら、あちこち駆け回って。フヨウがどうしても聞きたいことがあるのに捕まらないと嘆いていたよ」
「フヨウが? それは申し訳ないことをしたな」
次から次へとおやじに用件を言い渡されてね、とダイゴは肩をすくめる。
チャンピオンを退いてしばらく、彼の宿命と冒険も一度落ち着き、ようやくホウエンに戻ったかと思えば変わらず忙しない男だ。父親の経営するデボンにいずれは腰を据えると皆が考えてはいたものの、会社員という肩書を手にしたところで彼の生き方が変化するわけでもない。
「きみが会社にいてうれしいのさ」
彼によく似た顔でユーモラスに肩を揺らす姿を思い返して紅茶を口にする。
「そうだといいけどね」
「私としては、父君の采配はすばらしいとしか言いようがない。きみのことをよくわかっていると思うよ」
ダイゴはやれやれといった顔つきだったが、それでもどこか照れ臭そうだった。
それで、とミクリはカップをソーサーへ戻す。
「今日はどうしたんだい」
彼から呼び出しがかかることはそう多くはない。
チャンピオン時代、そしてその後、各地を飛び回った帰りに突然バルコニーに現れることは少なくなかったが、こうして改まってカフェで待ち合わせるなどもしかすると数年ぶりなのではないだろうか。
あのころはもっと険しさを、あるいは滾る闘志をひた隠し、柔和な面を被っていながらその体にははがねのよろいを纏っていたような男だった。溢れ出るカリスマとそれをものにする才能と努力とをツワブキダイゴという男は兼ね備えている。はたまた、裡なる獣を飼い慣らすのがうまい男。
それが、カプチーノに砂糖をさらに落としたような顔をしているのだから、ミクリはその男を見つめながら口もとに指を添えその下で唇を引く。
「改まって言うことでもないかもしれないんだけど」
と、ダイゴは前置きをした。
「でも、そうしたいと思ってね」
「ずいぶん焦らすじゃないか」
「たまには格好つけさせてくれよ」
「いつも、の間違いではないのかい」
たしかに、と彼は肩を揺らす。だが、すぐに「男」の顔になり彼はカップのはらを撫でたあと、打ち明けた。
「ミクリ、キミに会わせたい人がいるんだ」
ああ、いよいよということか。どこかむずがゆくなるような気持ちを抱えて、ミクリは楽しみにしているよとたおやかに笑みを返した。
それから実際に彼が自分のもとを訪ねたのは、ルネの海溝がいっそう深く鮮やかに照り輝く季節のこと。あたたかく美しい風とともに彼と彼女はやってきた。
名前はローラ。溌剌とした印象を受ける顔立ちの中に、やわらかく繊細なぬくもりを感じさせる女性だった。長らくガラル出張に行っていたと思えば、まさかはがねタイプのポケモンではなく、一人の女性を捕まえてしまったのだから彼も隅に置けない男である。聞けば、彼にしては珍しく相当な振る舞いをしたというから、ミクリはたびたび意味深な目でダイゴを見ることになった。
しかし、たった一瞬の出会いから繋がった縁をたぐり寄せ、そうして何度も切れそうになったそれを決して切らせはしなかったあたりは、なんとも「ダイゴらしい」とミクリは思ったものだ。
二人が共にある姿はその日初めて見たはずにもかかわらず、もう長らくそうであったようで、ツワブキダイゴであり、ツワブキダイゴではない、単なる一人の男としての彼を見るのはもしかすると初めてだったかもしれない。
彼がそう初心な人間でもなく、たいていの男がそうであるのと同じように彼も生きているとは知っていても、それでも恋人と呼べる存在と彼が共にある姿はミクリにとっても貴重だった。
「やけに参っているようじゃないか」
さて、ひとつのニュースがホウエンを賑わせたのも久しいころ、カナズミ空港でダイゴの姿を見つけた。
年が明けて賑やかな時を過ぎた空港はしんみりしており、ロビーにたたずむのも彼らと、それからまもなく出張に向かうだろうサラリーマン数名ほどだった。
「ミクリか」
コートを羽織り、スーツケースを引く彼を見てダイゴは驚いた顔をした。だがすぐにくたびれた様子で窓の向こう、夜空に飛び立っていく飛行機を眺めた。
「珍しいね、ミクリがこんな時間に」
「所用があって、シンオウにね。しかし、それは私の台詞でもあるな、ダイゴ。もしかして彼女が来ていたのかい」
飛行機までは一時間。ミクリはダイゴの二つ隣の椅子に腰を下ろす。
さきほど離陸したであろう機体はまもなく星空に消え、滑走路には新たなそれが運ばれてくるところだった。
「ガラル支社が襲撃された事件は知ってるだろう」
ダイゴは力なく脚の上で手を組み合わせて言った。
「ああ、ついこのあいだだ。ニュースにもなっていたね」
「そう、それに彼女が巻き込まれていたんだ」
ガラルにあるデボンコーポレーション支社が何者かによって荒らされたという報せはホウエンにも届いていた。
ガラル名物であるダイマックスを専門に扱う研究部、そのラボラトリーが標的になった。たしかに彼の恋人であるローラはそこに勤めていて、ちょうどリーグが開催されて忙しいころだったことだろう。しかし、その当時、気がかりで連絡したミクリに、ダイゴは「無事」だと返してきたはずだった。
「怪我はなかった、と言っていなかったかい」
ああ、とダイゴは答えた。
「なかったんだ。怪我はね」
互いに前を向いたまま、ミクリはかすかに彼を窺う。
「でも、彼女に大きな傷を負わせてしまった」
「それは……」
ダイゴは落ち窪んだ瞳で、くたびれた顔を隠さず大きく息を吸い込むとやりきれないように額に手を当てうつむいた。
「知っていたんだ。犯人の狙いは会社ではなく、彼女だと」
それなのに、と彼は続ける。
「ボクはなにもしてあげられなかった」
様子がおかしい、というのはずいぶん前に気がついていたことだった。どこか上の空であったり、やけにくたびれた様子であったり、かと思えばからげんきとばかりに話題をふって綺麗に笑ってみせる。
人には触れられたくない領域があって、彼女はそれをむやみに踏み荒らそうとはしない。そして彼女もまた、そうされるのを嫌がる。しかし看過できなければすぐに手を伸ばそうと思っていた。必ず彼女を助けようと思っていた。
それなのに、結局自分はなにもできなかったのだとダイゴは言う。
「ナックルシティで彼女が襲われかけたってことを、初めて聞いたんだ」
苦渋に苛まれたその横顔を静かに見守っていた。
「情けないよ、理性的でいようと格好つけた結果がこの様だ」
「彼女は」
「ちょうどその街のジムリーダーに助けられたらしい」
「……そうか、それならよかった」
だが、「よくないんだ」とすぐにその安堵を打ち砕く。
「今にも、腑が煮えくりかえりそうだよ」
「それは、自分の不甲斐なさにかい」
かぶりを振ったあと、いや、それもあるけど、とダイゴは続ける。
「彼」は彼女の元恋人で、よくできた魅力的な男で、男の自分でもあのたたずまいには感化されるものがある。なにより「彼」は、彼女をだれよりも案じ大切に思っている。
「ボクは悔しいんだろうな」
静けさに包まれ、その苦い声はよく響く。あいかわらず目の前の景色は平和で、とっぷりと昏れた空にホウエンのぬくもりある風が吹いているのだろう。白や緑、赤などの灯りがまっすぐ闇の向こうに並んでいる。
本当は、事件があった直後ホウエンの本社に呼び寄せようかとも思ったのだという。父親であるムクゲですら、そうしたほうがいいと眉根を寄せた。しかし、自分のもとへ来いというのはなんとも利己的で、時代遅れじゃないかと彼は思ったわけだ。
そうして彼女の意思を人生を尊重したいと、なにかがあれば自分がすぐに飛ぶからそっとしておこうと判断を下した。
だが、人生とは実にままならぬもの。
「こんなのはじめてだ」
ダイゴは力なく笑う。
「だれかが憎くなるほど、どうして彼女を支えるのがボクじゃなかったのかと思うよ」
烈しく、重々しい感情だ。彼の中にそのどす黒い衝動に似たなにかがうごめき、彼を駆り立て苦しめる。
いつにない呵責に苛まれた横顔に、ミクリはふと頬に微笑を浮かべる。
「それなら、もうその瞬間を逃さなければいい」
まもなくフライトの時間が迫っていた。
「ダイゴ」
ミクリは彼の名をゆっくりと紡ぐ。
色のない、しかしその奥にたしかな光を隠した瞳で彼はミクリを見た。
「きみの答えは決まっているんだろう?」
まったく、いつになっても世話が焼けるものだと、ミクリは思い返すたびそう心の中でひとりごちる。考えれば彼がチャンピオンだったころも、その座を退くことに決めたときも、信頼の上で何度となく振り回されたものだ。
ツワブキダイゴは決して世間が描くような理性的で理知的で、紳士みに溢れた大人の男なんかではない。時に彼を崇拝するあまりダイヤモンドみたいだと称する人間もいるみたいだが、この世で最も硬い石だという点をのぞいてあまりにその喩えは煌びやかすぎる。彼はまさにはがねであり、てこでも動かない頑強な石。
身に纏ったよろいによって、うまくカモフラージュされてしまっているが、育ちゆえの無垢な傲慢さと自尊心とをしっかりと兼ね備えた男だ。
理性的であり理知的であり、たしかに紳士ではあるが、せっかちでわがままで、自分勝手で、こうと決めたらとにかくまっすぐな男。それでいて思慮深く、思いやりがあり、なによりもその手に抱えたものを大切にする。
大変な人間に捕まってしまったものだ。ミクリは遠くに見えた女性の姿を見つめて小さく息をつく。
風が吹き、甘い海の香りがする。光があふれ、白亜の道すじが照らされる。
「ミクリ!」
隣に立つ男が鷹揚に手をあげる。ミクリも軽く手をあげ、風に髪を遊ばせながら彼らを迎える。
「やあ、二人とも、よく来たね」
降りそそぐルネの陽射しに、彼らの顔がほころんだ。
病めるときも、健やかなるときも――ああ、この先も、共に歩む彼らにどうか幸多からんことを。ミクリは目映い光に目を細めながら、手をとりささやきあうふたりをいつまでも優しく見守っていた。
