哀れな女であった。裂け目からでてきたまがいもの。湖の叡智により、全知の記憶を奪われたもの。なにも知らずにのうのうと笑う。自分からすべてを奪った男を、おやのように親しみと慈しみを込めて呼ぶ。救いようのない、哀れで、無様で、滑稽な女。莫迦莫迦しいと何度思ったことだろう。利用価値がなければ、斯様に生かそうなどとも思わなかった。創造神への一縷の白煙と成り得る火種を目の届く場所に置いておいた、ただ、それだけのこと。それだけの、はずであった。
吹きつける大ぶりの雪塊が視界を覆う。叡智を求めるべくたどり着いた純白の地。白という色の清廉潔白な印象などはまやかしだ。これほど剥き出しの鋭さを持った色があるだろうか。無情にも、残酷にも、清い顔をして人間を喰らっていく。この色は嫌いだった。出来得ることならば、手酷く染めてしまいたくなる。
背にかかる重みを、ずれ落ちていくそれを背負い直し、岩塊のふもとに見つけた空洞に身を寄せる。岩肌は氷が張り、冷えた空気が隙を与えることもなく吹きつけるが、ふぶきを避けることだけはできる。
「ウインディ」
氷を溶かすのは容易い。伝説たる地位を与えられた赤きポケモンに炎を吐かせ、表層の氷を焼き尽くし蒸発させる。その上にガブリアスに運ばせた夜具を敷き彼女を仰向けに寝かせた。
「……体温が下がっているな」
その顔は白く、唇は紫色になり始めている。吹雪を受けたために張りついた雪が塊となって頭蓋や身体に残っていた。それを払い落とし荷の中から落葉樹の表皮を削ったものを近くに積み、火を焚べる。
ぱちり、ぱちりと火の粉が舞えば、吹き込んでくる風も慰み程度にはあたたまる。
「哀れな女ですね、本当に」
鼻で笑い、閉じられたまつ毛の先の氷を指で挟み溶かしていく。ただ気まぐれに生かされただけだというのに、上面の優しさを与えられた、それだけのことであったのに。
「莫迦な女だ」
指を離せば氷は溶け、まつ毛は束となり水を含む。かろうじて開かれた唇から洩れる吐息は弱々しく、放って置けば幾分ももたないだろう。
なにが、幸福だ。なにが、安心する、だ。片腹痛い。自身の存在を奪った男だと理解りながら。気づいてしまったのならば、生かしておく必要もない。幼気で、哀れなムックルに餌をやる必要もない。
「だから、あれほど言ったというのに」
あのムラで生きていれば、斯様な苦しみなど味わうこともなく、あたたかな布団で眠り、きれいな衣を纏い、苦労せずとも食事を摂ることができたはずだ。ただ、与えられることを求め続けていれば、いつまでも日向で微笑っていられたはずであるのに。
――ウォロさん。
そうして、ほがらかに自分を呼ぶ声が離れない。まったりとした西陽を浴び、眩しそうに目をほそめてはにかむ顔。
――ウォロさん。
うれしそうに、しあわせそうに、そうだと告げるその顔で……。
――ウォロさん。
――ウォロさん。
――ウォロさん。
どうして邪魔をするのか。どうして其処に居座り続けるのか。とるに足らないただの駒であったはずなのに。
「いっそ、死んだほうが楽ですよ」
口先に手を当てそのかすかにこぼれる吐息をたしかめる。少しずつ、力を失っていく彼女の、白くなっていくその姿は、なんとも滑稽で、哀れで、心底いじらしいと思えた。このまま息を引き取れば、自分を疑う人間を、自分を知る人間を、この世に残さずとも済む。大いなる好奇心に辿り着く道標を、邪魔されずに済むのだ。――だと云うのに。
「……ロ……さ……」
莫迦ですね、吐き捨てて、その唇を塞ぐ。驚くほどに冷たかった。氷のようであった。しかし、離しがたいほどにやわらかく、そして、愛おしく……。
穏やかな空が、果てなく広がっている。そよぐ風のあいだにムックルたちの囀りが聞こえ、花畑からミツハニーが舞う。高原から吹くのは、冷涼な風。だが、どこかまろみを帯びたそれは悪戯な手となり頬をなで、髪を攫っていく。
ウォロさん、と手を振る少女の向こうには、ほのおたなびくギャロップの姿があった。あの銀色のたてがみではなく、広がるのはまさしく灼熱の色。背に乗るその女は紺色の衣を身に纏っている。仕立てのよい襟つきのブラウスに足首までも覆う長いスカート。脚元は編み上げの洋靴。頭にかぶる鍔付き帽子までもが濃紺であり、ただひとつ胸元の赤いリボンだけが皓々と目に焼きつく。プレートを探し求める傍ら、彼女のことは否応なしに耳に届いていた。外つ国の医者のもと、医学に携わっていること、ヒスイじゅうをめぐり、この土地の記録をしていること、原野を駆け巡る姿はこの大地に遊ぶ稚児のようだと、だれかが言っていた。
彼女が長いスカートの裾を翻しながら、駿馬から降りる。その様はかつていななくギャロップの首に抱きついていた姿とは、ほど遠い。
帽子の鍔に手をかけ会釈をしたように見せ、手を振る少女に背を向ける。
ひとりの少女によって時空の裂け目が閉じられたのち、この地は目に見えて変化を遂げた。親和を祝う祭り後、ムラや集落を行き来する人間が増え、ポケモンを側に置き生活するようになったことはもちろん、警備隊や調査隊の人間だけではなく、子どもたちもがポケモンに指示を与えそこかしこで戦わせる姿が見られた。大地に置かれた白い天幕のいくつかは、ムラとしての発展に踏み出し、穏やかな季節も相まり、訪れる船も多くなった。
なんと輝かしい時代! ――と、人びとは口にするであろう。
静かだった大地が、遺跡のごとく神秘を秘めたる大地が、いつかは原型を留めぬなにかに成り果てるかもしれない。そうしたものに価値はあるのか。善か悪か。届くのは雑音ばかり。どこもかしこも、呑気な声を飛ばして、この地に存在する神の姿など気にかけやしない。そして鏡の向こうに、なにが蠢くかなど。だが、ここに神への道標が刻まれるとあれば、意義はあるのだろう。後の世界は新たに創造される。
「ああ、イチョウ商会の人!」
「こんにちは、今日もいつもの品ですか?」
――はやく。はやく辿り着くのだ。時は迫っているはずだ。
荷を下ろし、中を漁ればひやりとした感触が指先にふれる。古代紫のプレート。その表面を撫で、沸き立つ細胞を今は堪える。
「キズぐすりと、ひそやかスプレー。本日はおまけに、こちらのモンスターボールをお付けしましょう!」
「いやあ、いつも助かるよ」
「なんのこれしき、お得意様の為であれば野を越え山を越え、どこまでも駆けつけさせていただきますよ」
今後ともどうぞご贔屓に、そう告げて、コンゴウの里山を上がる。
遺跡付近にはその名のとおり今日とて霧がかかっていた。思念を探り近寄っては遠ざかるポケモンたちを横目に崩れた柱や瓦礫と化し地面に横たわる壁のあいだを突き進むと、白い霧の中に包まれた大きな石盤が現れる。霧を払うこともなく叡智の刻印を指でなぞり、その感触を確かめしばらくそこに佇んでから峠へ向かった。
雲母峠から見渡す景色は雄渾なまでにこの地の大きさを物語る。果てまで続く山々、赤き大地。流れる雲居に飛ぶトゲチックが光を振り撒き風に小さな花びらがどこからか舞う。迫り来る雲の塊を眺めてはポケモンたちの力で薙ぎ払い、親指の爪を噛む。創造神は何処。もう間もなく。そうだこの手に間もなく届くに違いない。
寄り添う人間など、必要ない。理解してくれる人間など、いなくとも己のみが理解している。結局彼女も、自分には不要な人間だっただけだ。初めから、すべてを利用してきただけ。使えるものだけをそばに置けばよい。ただ、唯一、己の欲がために生き永らえるのみ。彼女とは共に生きられない。……嗚呼、ただそれだけのこと。莫迦莫迦しい。考えるだけ、無駄なこと。――それだのに、蘇るのは甘やかな香気。ぬくもり、ささやき……。
「――ウォロさん」
濡れた親指で、かれは唇をなぞる。
近くでチュリネの大群が発生したと聞いて立ち寄った森の中。あのポケモンの三つ葉は薬になると評判だ。近頃では葉を煮出し、冷ました液はむし除けに効くと言われている。捕まえてムラへ持ってゆけば、かばかりの路銀にはなるだろうと思い鬱蒼と茂る樹々の陰に足を踏み入れた。チュリネたちは風に遊び、樹々の拡げる腕の間から届く木漏れ日に躍り、歓びの歌をひそやかに奏でる。捕らえるのは、造作のないこと。しかし手持ちのボールを減らすことさえ厭わしくなり、近くの木陰に身を寄せてチュリネたちの祝福を横目に目を閉じた。木漏れ日がまぶたの上からふり注ぎ、否応なしに皮膚を貫く。帽子をとり顔に被せ、しばしそよ風に身を委ねる。樹々はやさしく揺れ、小さきいのちたちの歌声がしずかにたゆたう。まぶたの裏の、果てなき闇の向こうに浮かぶのは、いつの日の記憶か。次第に体が重くなり、地面に吸い込まれるように意識までもがいざなわれる。
目が覚めたころには日が傾いていた。眼前には小枝や花々が山盛りになり、先ほどのチュリネかと息を吐く。小さなそれを、しかも腹のあたりに丁寧に供えられたそれを地面に下ろせば、生ぬるい風が頬を撫でた。どこか湿り気を帯びた空気に、水のにおいを感じる。近くに泉があるのだろう。そうか、だからあのチュリネたちは群れとなりあの奇妙な行動をとっていたのか。まるでニンフではないかと鼻で嗤い立ち上がる。一匹のチュリネが木から降りてきた。普段は警戒心の強いポケモンの一匹であろうに、迷い込んだビッパのようにあちこちと歩いて藪の中へ消えていく。太陽はすでに西へ渡ってしまったために、辺りはすでに薄暗い。面倒なためここで天幕を広げても構わないのだが、そのポケモンの後を追う。水があるならば、それに越したことはない。しかし、すぐにその判断を悔やむこととなった。
しばらく藪をかき分けた先に現れたのは小さな瀑布の落ちる泉であった。切り立った岩崖のふもとに、それは広がっている。ザアザアと水の落ちる音に混じるのは、水面をかき分ける音。うっすらと辛うじてそそぐ光にぽうっと浮かび上がるのは白い肌。艶かしい肌であった。流線が頼りなく描かれる、力を込めればひしゃげてしまいそうな華奢な背中。なだらかに、骨の尖った肩と、優美な曲線を描く腰と、一糸も纏わぬ姿で、泉の奥へと進んでいく。水は大腿のあたりを遊んでいたのが、腰を覆い、腹、そして、羽を思わせるような胛を、呑み込もうとする。やがて消えたとて、構いやしなかったはずだのに。
「……死ぬつもりですか」
気づけば衣服もそのままに、水をかき分け、その女の腕を掴んでいた。細い腕だ。触れた先から手折ってしまえそうなほど、枝のような腕だった。ふり返った女は、黒曜のような瞳を大きく見開くこともなく、花びらの唇を震わせた。
「巣穴に入ったときに、思いがけずヌメイルの粘液を浴びてしまいました」
「里山へ向かえばよかったものを」
「泉がきれいだったものですから、つい、泳いでみたくなりました」
この女の声は、こんなだったか。こんなにも、鈴の音がやわらかに余韻を残すような声だったか。
「……日が経つにつれ、文明から遙かかけ離れていくようで。原始へ還ることがお望みでしたか」
女は答えなかった。莫迦莫迦しくなってその手を離すつもりが、しかし張り付いたように指先が頑なに動かなかった。
「ウォロさん」と、女がささやく。濡れた唇で、桃色の唇で、長いまつ毛を揺らし、しかしその瞳にまっすぐ大きな男の姿を映しながら。「せいぜいポケモンたちの餌にならないことですね」力を込めて腕を離した。だが、白い手がそれを赦さなかった。
女は後ろ向きのまま、男の腕を引いて泉の奥へと進んでいく。こぼれ落ちる水の飛沫が否応なしに頬や眼を打ち付ける。目を逸らす暇もなく、むしろ瞬きをする隙もなく、水底へいざなわれていく。やがてすべてを呑み込み、ひややかで、あたたかな腕に抱かれる。溢れる泡の先、女が微笑を湛えている。
「ウォロさん」
涙など見えやしないはずなのに。あの女は器用にも、笑いながら泣くのだ。
「ウォロさん」
大きな泡沫をいくつも吐いて、彼女は手を伸ばす。かぶっていたはずの帽子は水面へ浮かび、髪はほどけ薄い闇色の中に散らばった。指が頬に触れる。あたたかな指先。共に、生きられやしない。出会った瞬間から、定められていたこと。体が鉛のように沈んでいく。やわらかな唇が、触れる。互いに残された吐息を分け合うように、祝福を分け与えるように、共に沈んでいく。
生まれたままの背に手を伸ばし、きつく結わかれた黒髪を解き放ち、決して離さぬよう小さな後頭部を大きな手で押さえつけ、ひたすら女のくちびるを求める――。
「優しくして差しあげただけだと言うのに」
「哀れですね、滑稽ですね」
「さぞ無様ですね」
積み上げたのは優越感だったか、それとも歪な情愛だったか。
「っは……」
濡れた吐息が忙しなく溢れて、くぐもった悲鳴をあげるその首に歯を立てれば弓のように背がしなる。月明かりに浮かびあがる肌はうっすら熱気を孕んだようになまめかしく照り輝き、男の目を眩ませる。華奢な躰へ覆い被さり、木の幹に必死で縋りつく女の奥を突き上げれば、彼女は髪を霰もなく振り乱しながらその名を呼ぶ。
「……ロさん」
「煩い」
「ウォロさ、ん、っ」
「黙れ」
白皙の肌を破ってやりたいと何度も歯を突き立て、その度にあがる甘美な嬌声を呑み、優しさを繕うこともなくただひたすらに欲を打ちつける。
好いですか、そう囁けば、湿った吐息が、「はい」と弾む。ああ、莫迦莫迦しい。
「こんなにも酷くされているというのに、なんともだらしのないひとだ」
「……ウォロさ、っあ」
「斯様な人間が、人を救うなど、ヒスイを守るなどと、よくもそんなことを言えたものだ」
虫唾が走る。背を這う大蛇を、腹に蠢く獣を、ただ唯一の存在に向けていた大きな衝動を、ひたすら押しつけるように。中を突いて、突いて、突いて、突いて、突いて。壊してしまえ、と。すべて、奪ってしまえ、と。吐き出した青い精をそのままに女の躰を反転させて、いつまでも名前を呼び続けるその口を塞ぐ。
逃げられると思うな。逃がしてもらえると思うな。あれほど、忠告してやったのに。もう二度と、この手から離れられるなどと――。女の肩に噛みつき、何度も紅い花を咲かせながら。
「ナナセさん」
熱を、欲を、彼女のなかに吐き出す。
「――ナナセを、見なかったか」
思えば、久方ぶりのムラであった。どこか不自然に重々しい空気を肩で払いながら、最後の荷を客へ渡した道中のこと。コンゴウの長たる群青の羽織が剣呑な声で男を呼び止めた。その華々しいまでの色彩を見下ろせば、端正な顔はこちらが悲惨に思うほど張り詰め、榛の瞳が鈍い光を携えている。さあと首を傾げ、白いシャツのカフスを緩めながら答えた男に、彼はかすかに眉をひそめた。
「アンタ、仲がよかっただろう」
「ええ、そのつもりでしたが、しかし所詮、別れの挨拶も交わさぬほどの仲なのですよ」
ふうと息つき、悩ましげに目を伏せる。喧騒の向こう側、静けさのこちら側、そのあわいを這う存在をかれらは知らない。だがそれも、もうどうでもよいこと。刺すような視線が肌をちくちくと痛めつけ、しかし造作もなく大きな手でそこをさする。
「山麓付近の泉で、ナナセの荷物が見つかった」
差し出されたのは、長方形のプレートのような薄い板であった。東京都■■区……見慣れぬ文字の羅列、そして襟つきの洋装を着る「彼女」の姿が載っていた。
「医療器具の入ったポーチも、彼女の連れていたポケモンたちのモンスターボールも。すべてが泉のそばに置かれていた。森に迷い込んだのか、拐かしにでも遭ったのか」
男は黙り込み、静かに目を細めると、落としていた視線をゆっくりと榛の宝玉に擲つ。
「泉の底は探しましたか」
「ああ。だが、見つからなかった」
ふうと息をつき青き髪をかきあげ、彼はその薄いプレートを羽織の隠しへ戻す。
「どんなことでもいい、見かけたら教えてくれ。ショウが心配で飯も食えねえ状態なんだ」
「お見受けするに、よほどご心配なのは、アナタなのでは?」
ぴたりと巻き木綿の腕が止まる。
「……ああ。そうだ、なぜこの手を離したのか。本当は、頼みたいとは思っちゃいねえ。できることなら、そうせずにいたかったさ。だが、生きてる、そのことがわかるだけでいい。頼みの綱はアンタなんだ」
人間とは、憐れなものだ。滑稽で、無様で、救いようのない。
「申し訳ないのですが……」
男は無表情のまま、それでも力なくかぶりを振って答える。常の癖だったか、帽子のつばをつかもうとして指先が宙を掠めた。だがそのまま目映い太陽色の髪を撫で眼前の群青の君から目を外す。
「しばらくこの地を離れる予定でして、そのつもりで今日はご挨拶にきたのですよ」
「……どこへ」
「商船に乗り、少し世界を見に回ろうかと。この地にはもう、ジブンに必要なものは、なにもありませんので」
「たいそうな言い方だな」
強く訝る声が返るが、それを酌むべくもなく、ああそうだとシャツの胸もとから紙を取り出す。
「ショウさんにこれを。プレートの在り処がひとつわかりましたので、あとは隠れ里で詳しくお聞きくださいと伝えてください」
影をぬるりと蠢くものがいた。還って往くものだ。だが、それに気づくこともなく、目の前の男は、男から折り畳まれた紙を受け取った。
「……まあいい、わかった。野暮なことを話したな」
ムラを出て、野を越えて、向かった先は人の立ち入ることのできぬ山あいの洞穴だった。大きなギャラドスが空を翔ける、感情の神の守る湖の先。高く聳える岩崖の底。潮騒を背に岩を伝ってかつて波によってできたのだろう穴へと入る。
うつくしい女がいた。白い木綿のブラウスに長いスカートをまとい、波の音に耳を澄ませ、岩肌に身を預けていた。
「ナナセさん」
呼びかければ彼女はゆっくりとまぶたを開き、微笑を浮かべる。
「花を見つけました。アナタによく似合う花を」
白と黄色と、桃色と、束ねたそれを手に彼女のそばに腰を下ろす。白い手が伸びて頬にふれた。それを合図に、小さな躰を腕の中に閉じ込めた。なにを言葉にすることもなく、息を吸いこみ、彼女の耳に唇を寄せ。頬に口づけ、口端に口づけ、額を合わせさいごに唇を繋ぐ。なにもかもが不要であった。ただその躰ひとつが、その熱が、ただひたすら彼の欲するものであった。
「本当に、構わないのですね」
やがて紡がれた言葉は、さざなみによってかき消される。しかし決して失わずに、それを手繰り寄せて彼女は、ええ、と答える。
「豊かな暮らしが、できるかもしれない」
「必要ですか」
「地位も、名声も、なにもかも、その手には戻らない」
「あなたが、いれば」
人間は、愚かだ。
「……どうしようもないひとだ」
抱き寄せたそのぬくもりを、二度と離さぬように。泣いてもいいと彼女は言った。泣かないでと慰めるでもなく、涙を赦すのだと。繋がりを断たぬように何度も彼女を求めながら、かれはその名をささやき、きつく掻き抱く。彼女とは生きられない。それでもなおただ思い浮かんだのは、このぬくもりを手離したとして、どう生きてゆけばいいのかということ。
やがて深い闇に包まれた海原に朝陽がのぼる。かすかに金色の光が背後からこぼれたが、いまだ眼前は夜のままであった。いずれ夜は明ける。光がかれらを見つけてしまう。しかし曙光がかれらを灼き尽くすまえに、船に乗り、遠き海原へ漕ぎ出でる。……
「あなたと共に生きられない、あなたなしで生きてゆけない」マルティアーリス『エピグランマタ』(12・46・2)
