明日を抱いて

 寿村来賓館落成候ニ付来ル満月ノ宵同館ニ於テ夜會相催候條午後七時半ヨリ御来臨被下度此段及御案内候……
 ……■■■にて発掘された書簡より。

 

「あとは患部を清潔に保ってくださいね」
 ひとりの女が、白い手を器用に動かしながら巻き木綿を男の腕へ施していく。その手つきの迷いのなさには覚えがあるが、記憶の中よりもいっそう洗練されたものであった。
 ヒスイ地方、紅蓮の湿地。コンゴウ集落からしばらく離れた場所に、ギンガ団の設けた拠点がある。強靭なポケモンたちが生息する沼地から近いがために人が寄り付かなかったが、このごろになってようやく開拓が進んできた場所のひとつでもある。かつては荒れた大地だったはずのそこは、今ではときおり笑い声さえ聞こえてきた。
 この日は月に一度の往診日。外つ国からやってきた偉いお医者さまのもとで、すっかり貫禄を身につけて女医となったナナセがやってくる日であった。濃紺のシャツと長いスカートに身を包んだ彼女は、赤い十字の紋章のついた同じく濃紺の看護帽をかぶっている。いまや当人ですら「お医者さま」だというのに、医塾の門下生であったころからその姿は変わらない。コトブキムラではじょじょにその姿が増えつつあり、そろそろもっと偉ぶっちゃどうだいとヨネあたりも呆れを滲ませて言うが、「これが過ごしやすいのですよ」と彼女は取り合わないという。昔から、そうした意固地なところがあるのは、知っていた。厄介と言っていいほどまでに、まっすぐで折れない芯が女にはあったのだ。そうしたところに、たまらなく自分は焦がれていた。
「なんでい」と、真横で唇を尖らせるのは弟分であるツバキだった。その先は言葉にはならなかったが、おおよそ言いたいことは理解できてハンと鼻で笑う。
「おめえも見てもらってこい。リングマの爪を食らっていただろうが」
「ヘン、あれくらいどうってことないさ。それよりアニキこそ、その腑抜けた顔を治してもらったらどうだい」
 まったく、余計なほどに口の立つこと。「小生意気に育ちやがって」とぼやいて、セキは羽織を翻す。
「次の方」凛とした花の音が沼地に響いた。
 そこに、一陣の風が通り抜けた。テンガンの山からおりて来た鋭い風だ。幾たびの春を越えてなお、そうした風はいまだ辺りに吹き荒ぶ。「あ」と、声をあげる間に、風に白い布が舞った。女が手にしていた華奢な手巾。端が切りっぱなしになった手ぬぐいとは異なり、四隅まできちんと縫いつけられたその四角い布は、たしか外つ国の――空に舞い上がったそれは、近くの木の枝に引っかかる。
「ありゃあ、大変なところまでいっちまったね」
 今しがた処置を受けていた男が言うが、当の本人は、「ええそうですね」などと、涼しげな顔だ。頬に微笑までをも浮かべながら道具を片している。
「アニキ、いいのかい? 男を見せる好機ってやつだろうに」
 おめえはオレを応援してえんだか、したくねえんだかどっちなんだ。そんな言葉を苦笑とともに飲み込んで、まあ見てろとセキは羽織の衣囊へ手を突っ込んだ。
「これは師匠には内緒ですよ」
 紳士淑女の身だしなみに口うるさかった師の名を出した彼女の顔は、どちらかといえば、いたずらっ子のようであった。長いスカートを翻し、彼女は近くの木へ歩み寄る。それから木の幹をコンコンと検めて、枝に手をうろに足をかけた。
「こりゃあたまげた」
 そんな声が風に舞う。隣のツバキですら、気だるげな眼をこれでもかとかっ開いていたほど。
 見事に枝にさらわれたハンカチーフを取り戻し、彼女は木の上で笑っていた。
「たいした奴さ、本当に」
 陽光を浴びて輝く彼女の瞳が、いまだセキは恋しくて堪らない。

 ヒスイの危機から何度時がめぐったのだろう。あれからムラは目に見えて拓かれ、外から人がやってくることも増えた。コンゴウ集落やシンジュ集落も、いまやひとつのムラとしてヒスイの発展を担っている。
 夜明けを迎えたこの土地は、美しい。ポケモンと人がともに生きる姿は、かつて暗澹とした畏怖に包まれた世界で人々が心の奥底で願っていたことだった。何人の同胞たちが犠牲となっただろう。何度身体を震わせながら夜を過ごしただろう。しかしもう、それも昨日のこと。
彼らは今、明日を歩いている。

「お医者さま」の往診を終えて、セキはそのお医者さまとともに里へ戻った。ヨネから必ずとっ捕まえて連れて帰ってこいとのお達しがあったのだ。風のごとく、駿馬にまたがり野を駆けていく乙女だ。本人に言わせれば、乙女などという齢はとうに過ぎていると苦笑が返ってくるのだが。とにかく、放っておけばヒスイの果てだろうがどこまでも行ってしまうのがナナセなのだ。ヨネに命令されてというのがなんとも情けのない話ではあるが、引き止める口実ができてよかったとセキは思う。
 ツバキはさっさと消えてしまったし、彼女の下についている医塾生もきょうは拠点に泊まるとさっさと大きな薬箱を抱えて天幕の中へ引っ込んでしまった。それならば私もと言ったナナセだったが、「先生はいけませんよ。存分にもてなされてください」と門下生のひと声により、おとなしくセキの後ろについてきた次第だった。それだから、つまりは里への道のりはふたりきり。先導のため彼女の気配を背中に感じるのみだが、それでも皮膚がジリジリと炙られる心地であった。
 その自分の不甲斐なさには、たまらずため息をつきたくなるほど。しかし何年経っても――否、何年も経ったがゆえに、この思慕は積もりに積もってしまった。
「最近はどうだい、相変わらずか」
 そんな気の利かない、洒落のひとつもないことばしかかけられないことを心の内で罵りながら、セキは沼地を迂回して里を目指す。
「そうですね。各地の患者のみなさんを訊ねるついでに、つい先日は群青の海岸でガラナさまとススキさまとご一緒していました。私は海に潜れないので、見ているだけでしたが、たくさんのしんじゅやサンゴをとっていただいたんです」
「そうかい、そらめでたいな。ふたりとも息災にしていたか」
「もちろんです。コンゴウの里でカイさまがご迷惑をかけていないかと案じておりました」
 くすりと笑う息づかいが首すじをくすぐるようで、こそばゆくなって頭を掻く。
 まあ、カイはおおよそいつもどおりだろうよ、そんなふうに返せば、いいことですねとからころと鈴の音が続く。火口近くで燃える山をまじまじと眺めたこと、船を漕ぎ出でて海のポケモンたちと速さを競ったこと、夜は浜辺で星を眺めたこと。齢の近いガラナとはおのずと話が合うのだろう。語り口はとてもやわらかい。
「アンタが楽しそうでなによりだ」
 裂け目から現れた救世主に負けずとも劣らず、とんだじゃじゃ馬になったものだが、彼女が今を謳歌しているのならばそれでよしとする。甘いモンだなとセキはひとりごちた。
 里についてからはヨネとカイに捕まり、ナナセはあれよあれよと女たちの天幕へ連れ去られてしまった。そのすばやさといったら、まさしく早業のごとく。残されたセキはいつも呆れて、ま、仕方あるまいと藍色の髪を揺らす。そう、いつも。里山にくれば、ナナセはいつもこうだ。なにを考えているやらヨネとカイにさらわれ、しばらくは囚われの身。――そんなことを実際に言ったらとんでもないことになりそうだが。天幕から出てきたと思いきや、髪結やら化粧やら、常よりも飾り立てられて困り顔のナナセが出てくるってわけである。
 おおよそ彼女たちがなにをしたいのかは理解しているが、半ば困惑した女を手篭めにする趣味もない。今日とていっそう美しくなった彼女を目の当たりにして生殺しにされるだけのこと。
「セキ、ごらんよ」
 ヨネに呼ばれて向かってみれば、ナナセは洋装の上に里山で紡がれた織物を羽織っていた。自分たちと同じく濃紺色のそれは、昔むかしセキのじいさまたちの代から受け継いできた伝統的な方法で染め上げられたのだろう。
「応、なかなか悪かねえな」
 良きものは決して古びないとはいうが、まさしくそのもの。涅色に近いナナセの衣服に、夜明けを感じさせるその色合いはとてもよく似合う。
「なかなか悪くないって、もっとほかに言うことはないのか!」
「まったく、色男が聞いて呆れるってもんだね」
「おめえらはよ……」
 ったく、と額に手を当てたセキにナナセは控えめに笑っている。
「まあ、そうだな。よく動き回るアンタにゃ、そのくらいのナリはちょうどいいだろうよ」
 袖を通すことのない肩掛けならば、彼女の駿馬にまたがるときでも手綱をにぎる手の邪魔にはならない。きっちり釦で首のあたりを止められるように繕ってあるあたりは、さすがはヨネだろう。
「またしばらくしたら冬がくるからね」
 ほかにもっと言うべきことがあるだろうと頬を膨らませるカイを宥めるのも、すっかりこの姉の役目である。宥めるというよりかは、塩梅よく流すといったところではあるが。
「そうだ。さすがにその布一枚じゃ冬は越せねえが、ウチのやつらが織ったんだ。きっと役に立つ」
 こんなことを言えば、「いただけません」と言いそうなものだが、眉尻をさげてやわらかく目を細めるようになったのは、彼女がこの土地に生きているというほかでもない証拠であるのだろう。
「こんな上等なもの、よいのですか」
「ああ。ナナセにはよく世話になってるからね」
「織ってるところ見てたんだけど、本当すごかったんだよ。ナナセさんも今度いっしょに織ってみようよ!」
「だから、おめえはシンジュ団の織物を学ぶのが先だろうがよ」
「セキに言われなくとも、今度はわたしがシンジュ織りをヨネ姉に教えるってば」
 ふふっと、今度は大胆に花のかんばせがほころんで、ヨネもカイもまなじりをゆるめる。
「ありがとうございます。大切にします」
 紺色の織物をそっと撫でる手つきは、まるで愛し子を撫でるそれと同じものであった。

 すっかり日が暮れて、焚き火の周りに集まった子どもたちがナナセを囲んでいる。明かりの中で外つ国の御伽噺でも読んでもらっているのだろう。ときにはかれらが「先生」となり、ナナセに里山の言い伝えを大人顔負けの語り口で教えていることもある。
 ナナセの白い首すじには、幽玄の花の咲くかんざしが挿してある。――いまだ、なお、その花はそこにあるままだ。
 かつて彼女が親しくしていたであろう男からの贈りもの。一度はセキの手もとに渡ったが、彼女のもとに還ったもの。男は風とともに消え、いま残るのはその風にささやかれるうわさばかりだが、彼女は律儀にもそれを髪に挿したままであった。まるで、忘れないとでも言うように。
「おやまあ、怖い顔をして」
 ディアルガさまも驚かれるってもんだと声をかけてきたのはヨネであった。里山で作られた酒を手に、ちろりに入ったそれをセキの猪口にそそぐ。
「なんだい、恋敵でも一発殴ろうってのかい」
「そら、ちがいねえ。今ここにいりゃ、ポケモン勝負のひとつでも挑んでいただろうよ」
 彼女と彼のあいだになにがあったのかは、セキとて知るよしもない。しかし、彼女に傷を遺して消えた男を、男として赦せずにいた。結局、先に消えたもののほうが有利なのだ。苦い思い出さえも、それはいつか美化されていく。
 あれだけ自分に牽制をしておきながら――そうだ、あんな眼を向けておきながら。正々堂々争うこともなくあっけなく自ら退場するなんざ、なんともいけすかない野郎だと。それを考えている自分こそ、女々しすぎて反吐が出る。
「なにを二の足踏んでるのか知らないけどサ」
 ヨネが酒をちろりから直接あおりながら口にする。
「セキも新しい時代を生きる男なんだ。四の五の考える前に、自分の手であすを切り開いちゃどうだい」
 流し目がなにを言いたいかなど、とうにわかりきったことだ。
「まったく、じいさまが見たら呆れるだろうな」
「そうだよ。おまえらしくない、ってね」
 猪口を乾かせば、新たに酒が注がれる。
「セキ、好きに生きなよ。みんなは大丈夫だ」
 焚き火の火に照らされ、水面がとぷりと光の綾を揺らす。

 辺りが寝静まったころ、寝ずの番をしているだろう団員のいる櫓の上を見に上がった。酒は飲んだが身体を温めるほどで、かえって孕んだ熱を冷まそうと交代を申し出ようと考えていた。だが、櫓の上にいたのは思いがけない人物であった。
「ナナセ」
 おめえ、なんでここに、そう言おうとして口をつぐむ。
 コンゴウ織りの羽織をまとった彼女が月の光に照らされる、その神々しさのあまりに声が出なくなってしまったのだ。
「セキさま」
 昔からの呼び名で、いつもはかつてとちっとも重なりはしない音色が、今だけはあのころをかすかに感じさせた。
「ここにいたヤツはどうした」
 どうにか絞り出したのはそんな唸り声だ。ナナセはそんなセキの心など知るよしもなく済まなそうに眉をハの字にして弱々しく笑った。
「星が見たいからと、わがままを言って休むようにお願いしました」
 そんなことだろうとは思ったが、あれほどにも遠慮がちだった女が、こんなにも自分を見つけられるとは。セキは込み上げる想いをどうにか押しとどめて、「とんだじゃじゃ馬が」と吐き捨てた。
「あす、オレに叱られやしまいかと今ごろ怯えてやがるだろうな」
「叱りますか?」
「叱りてえとこだが、アンタに叱られるのは勘弁だ」
 降参とばかりに両手を挙げれば、女のまなじりが嬉しそうにゆるんだ。
「夜風に当たると心地いいですよ」
 応、とセキは答えた。途端、胸にむずかゆさを覚えて顔をしかめそうになったが、深く息を吐くにとどめて彼女の隣へ腰かけた。
 櫓の木の間から投げ出した脚が紺色の宙を泳いでいる。
「案外、子どもじみたところがあるんだな、アンタも」そんなことを言えば、かすかに恥ずかしそうに視線を伏せて笑うのだ。
「なんだか、気持ちよくなってしまって」
「そうかい。そら、ここからの眺めは悪くねえしな」
 それに、と長い睫毛が揺れた。
「昔を思いだすような気がするんです。こんなふうに、脚を放り出して星を眺めた」
 その昔は、セキの使う「昔」や「かつて」よりもずっと前のことなのだろう。正確には、セキが遡る時よりも何十年も何百年も先のことかもしれない。
 どこか寂寞を感じさせる横顔にセキは目を細める。
「隣にだれがいたのか、どんな風が吹いていたのか、そんなことはわからないけれど、でも、たくさんの星に包まれてとても綺麗だった」
 その頬に手を伸ばしそうになって指先を握る。
「いま、アンタの目に映る星空はどうだい」
「綺麗ですよ、きっと、あのころよりも」
 握りしめた手を、やはり、緩めて――。
「ナナセ」
 ふり向いた彼女の濡れた睫毛にそっと触れる。
「オレとともに、あすを迎えちゃくれねえか」
 月明かりに照らされた瞳が、ゆるりと揺れる。風さえも凪いだ静かな夜だった。その一瞬、そうだほんの一瞬だけかもしれないが、世界がいま、わずかに自分たちの前で時を止めていた心地さえした。
 本当はもっと気の利いた台詞があったのだろう。必要な前置きがあったのだろう。けれど、なにもかもを吹き飛ばして、そのことばしか出てこなかった。それが、すべてであった。なにもかもを手放したとしても――否、おそらくそれは彼女が許さないとして、この手に多くのものを抱えたとしても、彼女だけは。
「セキさま」
 唇がゆっくりと開かれる。そのひとつの動きですら、ふしぎと永遠を感じさせる。この女の前では、なにもかもが形なしだ。まっすぐにそそぎ続けるまなざしを彼女は受けとめて、やがて、ふ、と、なにかを許すように笑う。
「夜明けはさぞうつくしいのでしょうね」
 セキは強張った頬をようやくほどいて、ああ、と答えた。

 あんなにも何度も抱いたはずの身体だというのに、今セキを呑み込んだ彼女はまるで初めてそうしたときのように烈しい快楽の波を起こす。膨れ上がった欲望を頭から咥え込んで、母なる海のごとくすべてを包みセキを抱く。抱いているのは自分であるはずなのに、いまセキのなにもかもは女のものであった。
「ナナセ」
 何度その名を呼びたかったことか。髪に指を通しながら、その頬を撫でながら、その胸を愛撫しながら……。ずっと、ずっと心から願っていた。
 必死に声を堪えるナナセの手をはずし、その唇を奪えば潤んだ吐息が天幕に満ちる。互いの肌を重ねる淫らな水音と、ことばにならない声のやりとりと。
 生死を彷徨った自分を必死に繋ぎ止めてくれた命の恩人。朝陽に見る、ただ唯一の女神さま。彼女をなぞらえるには、どれだけのことばが必要なのだろう。そのうちのほんの少ししか知らない自分をセキはいつもたいそう悔やみたくなる。
 奥深くまで入り込んだおのれに、ナナセは蕩けた顔して絶え絶えに喘ぐ。すべてが愛おしくなり、その呼吸すらも奪って腕に閉じ込める。
 ひとつになることがこんなにも幸福なことなのだと、今をもってなお彼女が教えてくれる。だれかを愛し愛されることの、この無条件の心地よさを、彼女はなによりも与えてくれる。あふれて、こぼれていってしまうのが、惜しいほどに。
 寝具が擦れる音、肌の重なり、混じり合う吐息。
すべてが夜のしじまに包み込まれていく。

 夜が明けて、ポケモンたちのさえずりが聞こえだすころ、見慣れない天幕の中でセキは目を覚ました。昨日男衆たちによって拵えられたそれは、客人用の天幕であった。考えるまでもなく、隣には生まれたままの姿で眠るナナセがいる。
 幾つもの春を越えて、再び巡りあい、こうして重なり合うことができた。まったく、昔から変わらず女の家でというのはいささか情けない気もするが――それでも、日が昇るまでじっくりと夜を過ごすなんて。思いがけず胸が詰まってセキは自嘲ぎみに笑ったが、自分の腕を頭の下に敷いて目を閉じた彼女の額に黙って唇を寄せた。
 さてこれから先がどうなるか、考えなければならないことは山ほどあるが、今はまだ余韻に酔いしれるのもいいだろうとひとつの夜具の中で寄り添い合う。
「ナナセさん、コトブキムラからお手紙です」
 しばらくして外からかかったのはそんな声だ。まどろみのただ中であったナナセをよそに、「そこに置いてくんな」と答えたのはセキだった。きっと彼らが外に出るころにはお祭り騒ぎになっていることだろうが――ナナセにはすまねえことをしたな、そんなことを思いつつ、慌てて足音が遠ざかるのを聞き届ける。
「ん……」
 身じろぎしたナナセの額に再び唇を寄せて、「起きたか」声をかければ、ふるふると可愛らしい抵抗があった。
「やけに寝坊助になったモンだなあ、ナナセよ」
 もう一度抱きつぶしてしまってもいいのだが、さすがに朝陽が昇っているともあればそれは叶うまい。
「しあわせです」
 そんな吐息がこぼれて聞こえて、「ああ、オレもだ」とセキも彼女の耳もとでささやく。
そう、幸福。あのころにも抱いていた感情をこれほどまでにはっきりと、その形や色、温度を確かめることができたのは、これが初めて出会った。
 まどろみにできうる限り身を委ねて、しかし名残惜しくもゆるゆると起き出し衣服を身にまとったところで、ナナセは届いた手紙を確認した。
「なんだって」
 紙面を眺めたまま、動きを止めた彼女の手もとをセキものぞき込む。
「コトブキムラ来賓館落成につき、来る満月の宵、同館にて夜会を――ああ、これか」
 なにやらムラにでっかい建物が建てられたのは周知のことだ。むずかしそうに唇を結んでいたナナセの横で、こともなげに髪を結い上げれば、視線が投げかけられたことに気がついた。
「セキさまも、ご招待に?」
「ああ、ちょうどデンボクの旦那のもとに向かったときよ。ショウもいたか。なんだ、パーティーってのをやるって言ってたぜ」
 ちょこん、と唇が尖っていた。それを見てセキは吹き出し、「また難しいこと考えてんのかい」親指のはらでそれをほぐした。
「ヒスイにゃ、新しい風が次々と吹き込んでる。今にもオレたちは吹き飛ばされちまうかもなあ」
 だがしかし、それをすべて甘んじて受け入れたわけではない。
「やがて、この場所も、里山も集落もムラも、すべてがなくなるかもしれない。――けど、なにもかもがなくなるってワケでもねえんだ」
 セキはナナセの目をまっすぐに見つめて、ふと唇を薄くする。
「残すぞ、爪痕を」
 そう、生きた証を。コンゴウ団のシンジュ団の、ギンガ団のポケモンの、この大地にて生きるあらゆる生命たちの軌跡を。
「精一杯、今を生きて、未来も過去も、オレたちはこの手で掴み続けるんだ」
 ナナセの双眸からこぼれ落ちたしずくを、セキは唇で掬いあげる。